第10話:嵐の前夜と、甘やかな誓い
分厚い天蓋のカーテンが下ろされたベッドの中は、外界の猛吹雪から完全に切り離された、深く甘い熱に満たされていた。
アルテは、滑らかな最高級のシルクのシーツに沈み込みながら、自らを上から覆い尽くす巨大な影を見上げていた。
ガーディア・フォン・ルヴェリア。
彼の胸元から、長年その命を削り続けていた漆黒の呪いの紋様は完全に消え去っている。代わりにそこにあるのは、月の光を思わせる冷たい銀糸の髪と、微かな汗を滲ませた、一切の瑕疵がない彫刻のような強靭な肉体だけだった。
彼の真紅の瞳は、まるで奇跡の産物を見つめる熱狂的な信者のように、アルテの顔の輪郭、息を細く吐き出す唇、そしてシーツに散らばった銀色の髪の毛先までを、瞬き一つせずに網膜に焼き付けている。
「……アルテ」
夜の静寂に溶ける、ひどく掠れた甘い低音。
彼の手がゆっくりと持ち上がり、アルテの左手をとった。薬草をすり潰し続けたことで無数の細かい刃物傷が刻まれ、今日の過酷な調合でさらに皮膚が裂けた指先。
王宮の者たちが「不浄」と呼んだその小さな手を、ガーディアは両手で大切に包み込み、自らの唇へと運んだ。
チュッ、という微かな水音が、密室の空気を震わせた。
アルテの肩が、びくりと跳ねる。
ガーディアの熱い唇が、アルテの指先の傷跡を一つ一つ、まるで聖遺物に触れるかのように丁寧に、そして執拗に舐め上げていく。彼自身の強大な魔力が唾液に混ざり、皮膚の裂け目に浸透するたびに、アルテの体内に甘く痺れるような熱が広がっていく。
「私のような、傷だらけの手を……」
「黙れ」
ガーディアの唇が、アルテの言葉を塞いだ。
荒々しい略奪ではない。触れ合うだけの、ほんの僅かな圧力。しかし、そこには一切の拒否を許さない絶対的な重力があった。
彼の吐息がアルテの肺に流れ込み、彼女の思考を真っ白に染め上げていく。
「お前の血と痛みが、俺の命を繋いだ。この世界に存在するいかなる宝石よりも、俺にとっては、この傷の一つ一つが愛おしい」
ガーディアの唇がアルテの口元から離れ、彼女の首筋、鎖骨、そして薄い夜着のリボンへと滑り落ちる。
彼の大きな手が、アルテの腰を抱き寄せた。逃げ場など最初から存在しない。彼の皮膚から発せられる熱は、呪いの発作時の暴走した熱気ではなく、彼自身の命が底から燃え上がるような、深く、包み込むような温もりだった。
アルテの細い腕が、無意識に彼の広い背中へと回される。
ガーディアの背筋が、ビクンと大きく震えた。
彼女の指先が彼の背中に触れただけで、無敵の辺境伯の喉の奥から、甘く、苦しげな唸り声が漏れる。
「……狂いそうだ」
彼の顔がアルテの胸元に埋もれ、深い呼吸と共にその匂いを貪る。
「お前が俺の腕の中にいる。お前の体温が、俺の皮膚に直接触れている。それだけで、俺の理性が塵のように崩れていく……。お前を俺の肋骨の中に縫い付けて、誰の目にも触れさせたくない」
狂信的なまでの独占欲の囁きが、アルテの全身の細胞を直接震わせる。
シーツの擦れる音。交じり合う深い呼吸。
アルテの視界の端で、部屋を照らす魔力石の青白い光が、波のように揺らいだ。
彼女の身体は、彼が与える甘く重い熱の波に完全に飲み込まれ、過去の冷たい記憶はすべて、この濃密な夜の暗闇の中へと溶けて消え去っていった。
*
翌朝。
辺境伯城の応接室は、昨夜の甘やかな熱気とは正反対の、肺が凍りつくような冷気に満ちていた。
王都から到着した王太子の使者一行は、重厚な黒檀のテーブルを挟んで、十数人の護衛騎士と共に立っていた。彼らの纏う煌びやかな王室の鎧は、この無骨な石造りの城の中ではひどく場違いに浮き上がっている。
応接室の奥、一段高くなった玉座のような椅子に、ガーディアは足を組んで深く腰を下ろしていた。
彼の膝の上には、まだ微睡みから覚めきっていないアルテが、分厚い黒の外套にすっぽりと包まれて座らされている。彼女の首筋には、昨夜彼が刻みつけた赤い痕が、隠す素振りもなく露呈していた。
「……辺境伯閣下。先ほどから申し上げている通り、その女は王都に致命的な呪いを仕掛けた大罪人です」
使者の男が、額に冷たい汗を浮かべながら声を張り上げた。
彼らの視線がアルテに向けられた瞬間、ガーディアの真紅の瞳が、スッと細められた。
室内の温度が、物理的な音を立てて急降下した。
暖炉の火が一瞬で凍りつき、使者たちが吐く息が真っ白な氷の粒となって床に落ちる。
ガーディアの体内に満ちる、完全に解呪された純度百パーセントの魔力。それはもはや、彼自身を苦しめる暴走した力ではない。彼の意志一つで、この部屋にいる全員の心臓を、一瞬にして凍結させることができる絶対的な暴力だった。
「……誰の許可を得て、俺の妻に視線を向けている」
地を這うような、底冷えのする低音。
ガーディアは、アルテの背中を抱く左手の力を微かに強めながら、右手で軽くテーブルを叩いた。
それだけの動作で、使者を取り囲んでいた十数人の護衛騎士たちの膝が、目に見えない巨大な圧力によって一斉にへし折られた。
ガシャン、と重い金属音が部屋に響き渡る。
護衛騎士たちは床の石畳に顔を押し付けられ、ピクリとも動くことができない。鎧が軋み、彼らの肺から空気が強制的に絞り出されるヒューッという音が鳴る。
「ひっ……!」
使者の男が、腰を抜かして尻餅をついた。
「大罪人、と言ったな」
ガーディアの唇が、美しく、そして残酷な弧を描いて歪んだ。
彼の周囲の空間が、魔力の高まりによって蜃気楼のように揺らいでいる。彼を蝕んでいた呪いが消え去った今、この男を縛る枷は、この世界のどこにも存在しない。
「王太子に伝えろ。アルテ・ル・グランジットは、辺境伯ガーディア・フォン・ルヴェリアの正式な妻であり、この地の絶対の女主人である、と」
ガーディアは、震える使者を見下ろしたまま、アルテの銀色の髪にそっと唇を落とした。
その優しすぎる仕草と、使者たちに向ける絶対零度の殺気のコントラストが、空間を異様に歪ませる。
「もし、俺の所有物に指一本でも触れようとするならば……王都を地図から消し去り、王太子の首を切り落として、この城の門前に飾る。王室の権威など、俺の放つ一撃の前では、紙屑ほどの価値もないとな」
それは、誇張でも脅しでもなかった。
呪いの制約から解き放たれた「狂血の魔王」による、純粋な事実の宣告。
使者は恐怖のあまり泡を吹き、完全に意識を失って床に倒れ伏した。
ガーディアは、冷ややかな視線でゴミのように転がる使者たちを一瞥すると、すぐにアルテの耳元へと顔を寄せた。
「……うるさかったな。もう少し、眠るといい」
先ほどの空気を凍らせた声とは打って変わった、ひどく甘く、アルテを保護膜のように包み込む囁き。
彼がアルテを抱きかかえて立ち上がると、床に這いつくばる騎士たちは、その巨大な魔力の残滓に震え上がりながら、王都の確実な破滅の足音を、その冷たい石畳の奥に聞き取っていた。










