第11話:愚者たちの行軍と、辺境伯の冷笑
凍てつく風が吹き荒れる辺境の平原に、場違いな金属音と馬の嘶きが響き渡っていた。
アルテは、分厚い黒曜石で築かれた城壁のバルコニーから、雪煙を上げて接近してくる一団を見下ろしていた。
王室直属の近衛騎士団。
王都の石畳を行進するためだけに磨き上げられた、薄く軽量な儀礼用の銀鎧。防寒の魔術すら施されていないペラペラな真紅のマントは、辺境の鋭い風に煽られて千切れそうにバタついている。先頭を進む馬たちは、腹まで雪に埋まり、鼻から白い息を荒く吹き出しながら幾度も立ち止まりかけていた。
その軍勢の中央で、車輪を空回りさせながら進んでくるのは、金箔と白百合の彫刻で過剰に装飾された巨大な馬車だった。
キュルルル、と不快な摩擦音を立てて、馬車が城門の数十メートル手前でようやく停止した。
御者が凍りついた手で慌てて扉を開けると、そこから王太子が姿を現した。
「……なんという忌々しい気候だ。野蛮な獣どもの住処は、空気までが薄汚れている」
王太子の吐き捨てるような声は、冷たい風に乗ってバルコニーのアルテの耳まで届いた。
彼の顔色は、寒さと、長引く体調不良によって土気色に濁っていた。豪華な毛皮を何重にも羽織っているにもかかわらず、その肩は小刻みに震えている。
続いて馬車から降り立ったのは、純白のドレスの上に薄いケープだけを羽織ったセリアだった。
アルテの網膜が、かつての義妹の姿を正確に捉える。
セリアの金髪は毛先がチリチリに傷み、強風に煽られて蜘蛛の巣のように顔に張り付いている。それを払いのけようとする指先は赤く霜焼けを起こしていた。何より異様なのは、数十メートルの距離があるにもかかわらず、風に乗ってバルコニーまで届く、幾つもの香油を混ぜ合わせたような強烈で悪趣味な香水の匂いだった。
自らの魔力枯渇による体臭を誤魔化すためか、彼女が動くたびに、むせ返るような不快な甘さが辺境の澄んだ空気を汚染していく。
アルテは、バルコニーの石の欄干にそっと両手を乗せた。
かつてなら、王太子の姿を遠目に見るだけで、あるいはセリアの甲高い声を聞くだけで、胃の腑が鉛のように重くなり、呼吸が浅くなっていたはずだった。自分は無能で、彼らの役に立たなければ生きていく価値がないのだという呪縛。
しかし今、アルテの呼吸は驚くほどに深く、静かだった。
指先は温かく、心臓の鼓動は一定のリズムを保っている。
彼女の背後には、巨大な熱源が張り付いていた。
「……あのようなゴミの放つ異臭で、お前の鼻腔が汚れるのは我慢がならんな」
アルテの腰に回された太い腕が、彼女の身体を微かに後ろへと引き寄せる。
ガーディアだった。
漆黒の軍服を纏った彼は、眼下に広がる王国の精鋭たちなど視界に入っていないかのように、ただアルテのうなじに顔を近づけ、彼女の銀色の髪の毛先を指に絡めて遊んでいた。
彼から放たれる純度百パーセントの魔力は、アルテの周囲の空間だけを春の陽だまりのように温かく保っている。彼が背後に存在するだけで、この世界でアルテを害することができるものは何一つ存在しないという絶対的な事実が、彼女の足元を強固に支えていた。
「辺境伯ガーディア!」
王太子が、声を張り上げた。
バルコニーから見下ろすガーディアの姿を認め、彼は傲慢に顎をしゃくった。
「出迎えもなしに、そのような高所から私を見下ろすとは、辺境の番犬も随分と躾を忘れたようだな。今すぐ下に降りてきて、私の足元に跪き、忠誠を示せ!」
王太子の血走った目が、ガーディアの腕の中にいるアルテを捉えた。
「そして、その女だ! 国家に呪いを仕掛け、私から健康を、セリアから聖女の光を奪った大罪人、アルテ・ル・グランジット! 貴様のくだらない虚言がいつまでも通用すると思うな。私はすべてを見抜いているのだ」
王太子は、自らの聡明さに酔いしれるように、マントを大仰に翻した。
「私が直々に足を運んでやったのだ。今すぐその女を鎖に繋ぎ、私の前に引きずり出せ。そうすれば、お前の監督不届きの罪は不問に付してやろう」
セリアもまた、王太子の腕にすがりつきながら、アルテに向けてヒステリックな声を上げた。
「お姉様! これ以上、殿下を困らせないで! あなたが神殿に仕掛けた呪いのせいで、私の尊い祈りが届かないのよ! さっさと戻ってきて、元通りに裏の仕事をこなしなさい!」
城門の前に広がる、圧倒的な静寂。
辺境伯側の騎士たちは、誰一人として動かない。彼らは城壁の上から、まるで知能の低い魔獣の群れでも観察するかのような、冷ややかで無機質な視線を王太子たちに注いでいた。
アルテは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
彼らの言葉は、もはやアルテの心になんの波紋も投げかけなかった。ただ、あまりにも滑稽で、底知れぬほど浅はかだった。自分たちがアルテの調合した薬膳に生かされていたという事実にすら気づかず、自らの無能さを他者の陰謀にすり替えることでしか自我を保てない、哀れな泥人形たち。
アルテの腰を抱くガーディアの腕が、微かに力を込めた。
彼の手の甲に青筋が浮き上がり、眼下の愚者どもを消し炭にしようとする明確な殺意が、彼の足元から黒い陽炎のように立ち上り始める。
アルテは、自らの腰を抱く彼の手のひらに、そっと自分の両手を重ねた。
そして、バルコニーの欄干から身を乗り出すことはせず、ガーディアの胸に背中を預けたまま、静かに、しかし冷気を切り裂くようによく通る声で紡いだ。
「……お断りいたします、殿下」
アルテの声が、雪原に反響した。
王太子とセリアの動きが、一瞬にして凍りついた。彼らは、いつも自分たちの前で縮こまり、反論一つしなかった無力な公爵令嬢が、これほどまでに澄み切った声で明確な拒絶の意志を示したことに、脳の処理が追いついていないようだった。
「私はすでに、この辺境伯領の女主であり、ガーディア様の妻です。王都のいかなる権力も、私に命令を下すことはできません」
アルテの視線は、王太子を通り越し、はるか遠くの吹雪の彼方を見据えていた。
「あなた方の体調不良も、聖女の力の枯渇も、私には何の関係もないことです。……すべては、あなた方自身が蒔いた種。ご自身で刈り取られるのがよろしいでしょう」
言い訳も、弁明もしない。
ただ、純粋な「事実」と「決別」の宣告。
アルテの言葉を聞いたガーディアの喉の奥から、甘く、深い満足の唸り声が漏れた。彼がアルテの首筋に顔を埋め、チュッと微かな音を立てて口づける。
「聞いたか、王都の虫けらども。俺の番は、お前たちとの対話に一秒の価値も見出していない」
ガーディアが、ゆっくりとバルコニーの欄干を見下ろした。
彼の真紅の瞳が、初めて王太子とセリアの姿を正面から捉える。
その瞬間、城門前の空気が、凄まじい質量を持って王太子の軍勢の頭上に圧しかかった。
「な、なんだ……! 貴様、王太子であるこの私に向かって……!」
王太子が顔を真っ赤にして怒鳴り散らそうとするが、彼の喉からはヒューッという空気が漏れるだけで、言葉にならない。
ガーディアの薄い唇が、三日月のように美しく、そして残酷な弧を描いた。
「俺の領土に土足で踏み入り、俺の妻を罪人呼ばわりしたこと。……その絶望的なまでの知能の低さを、お前たちのその肉体に直接刻み込んでやろう」
彼の指先から、黒く澄み切った絶対的な魔力が、音を立てて空間に広がり始めた。
アルテは自らの足でしっかりと立ち、吹き荒れる魔力の暴風の中で、ただ静かに、かつての加害者たちが自らの足元から崩れ落ちていくその瞬間を待っていた。










