第12話:絶対的権力による蹂躙
空の光が、唐突に消失した。
分厚い雪雲がさらに暗く沈み込んだのではない。バルコニーに立つガーディアの足元から、インクを零したような漆黒の魔力の波動が、同心円状に辺境の凍土へと爆発的に広がったのだ。
直後、城門の前に陣取っていた王都の近衛騎士団の動きが、完全に凍りついた。
ガキン、ガシャァンという無数の硬質な音が連鎖する。
ガーディアが指先一つ動かしていないにもかかわらず、馬上の騎士たちは見えない巨大な鉄塊で頭上から殴りつけられたように、一斉に雪の上へと叩き落とされた。重装甲の軍馬たちでさえ、肺からヒューッと空気を漏らし、四肢をへし折られるかのような凄まじい重力に耐えきれず、腹を雪に擦り付けて泡を吹いている。
「な……っ、ぐ、あ……!」
過剰な装飾の施された馬車の傍らに立っていた王太子が、両膝から崩れ落ちた。
彼の纏っていた高価な毛皮のマントが、泥と雪の混ざった地面に無惨に広がる。王太子は立ち上がろうと雪に爪を立てたが、背骨の上に巨大な岩盤が乗っているかのように、首の角度を数ミリ上げるだけで関節が嫌な音を立てて軋んだ。
バルコニーの上。アルテはガーディアの腕の中に包まれたまま、眼下の光景を静かに見下ろしていた。
彼女の周囲だけは、ガーディアの緻密な魔力制御によって無風状態に保たれている。凍えるような外気とは無縁の、彼の体温と麝香の匂いに満ちた絶対的な安全圏。
ガーディアは、眼下で這いつくばる王都の精鋭たちを見下ろし、ひどく退屈そうに薄い唇を開いた。
「……証拠を撒け」
その低く冷酷な声が空気を震わせた瞬間、城壁の影から十数人の黒装束の暗部たちが音もなく姿を現した。彼らの手には、木箱や分厚い麻袋が抱えられている。
暗部たちは、王太子とセリアの頭上から、その中身を容赦なくぶちまけた。
バサバサと、雪の舞う空中に無数の紙片が舞い散る。
それは、王室の正式な印が押された何百枚もの帳簿の写しだった。さらに、空のガラス小瓶、偽造された神殿の認可印、そしてセリアが聖女の奇跡と偽って使用していた、アルテの調合した薬草の絞り滓。
一枚の羊皮紙が、地を這う王太子の顔の前にベチャリと張り付いた。
そこに記されていたのは、辺境の防衛費として計上されていた莫大な予算が、セリアのドレス代や王太子の個人的な遊興費へと不正に流用されていた事実を証明する、裏帳簿の記録。
「国家の防衛網を故意に弱体化させた反逆罪。並びに、魔力を持たない女を聖女と偽り、民草から寄付金を巻き上げた大規模な詐欺。……加えて」
ガーディアの瞳の奥で、真紅の炎がドロリと粘り気を帯びて燃え上がった。
「俺の番であるアルテの功績を不当に奪い、公文書を偽造して無実の罪を着せた上、極寒の路地裏へと追放した、万死に値する大罪」
絶対零度の声が、雪原に響き渡る。
王太子の喉が、ヒクッと痙攣した。彼の土気色の顔からさらに血の気が引き、青紫に変色した唇が小刻みに震え始める。カチカチと、上下の歯がぶつかる音がバルコニーまで聞こえてきそうだった。
彼は状況を理解したのだ。己が隠蔽したはずのすべての罪状が、辺境伯の諜報網によって完全に掌握されていたという事実を。
「で、殿下……っ、息が、できません……っ!」
少し離れた場所で、セリアが首を掻きむしりながらヒステリックな金切り声を上げた。
彼女の顔を覆っていた分厚い白粉は、恐怖から吹き出した脂汗と冷気によってひび割れ、醜い斑模様を作っている。枯渇した魔力を補うための薬膳の供給が途絶えた彼女の肌は、老婆のようにくすみ、抜け落ちかけた金髪が泥水にまみれていた。
「だ、騙されたのだ……!」
不意に、王太子が雪に顔を押し付けたまま、引き攣った声を張り上げた。
「私ではない! すべて、その女……セリアが唆したのだ! 聖女の力が弱まっているから、アルテの技術を奪えと、私を誘惑して……っ! 私は、国を守るために利用されただけの被害者だ!」
セリアの目が見開かれた。
「何を……っ、殿下がアルテを疎ましく思って、真っ先に私に……!」
「黙れ、この薄汚い詐欺師め! 貴様のせいで、私は……!」
圧倒的な力と証拠を前にして、かつてアルテをあざ笑っていた加害者たちは、もはや王族の尊厳も貴族の誇りも投げ捨て、互いに泥を投げつけ合う醜悪な獣へと成り下がっていた。
王太子は必死に首を巡らせ、バルコニーの上のアルテを視界に捉えた。
彼の瞳に、見苦しいほどの懇願の光が宿る。
「ア、アルテ……! 昔のよしみだ、頼む! 私は君の婚約者だった男だぞ! 君なら、私がこんな悪逆非道な真似をする人間ではないと分かっているはずだ! どうか、辺境伯を止めてくれ……っ!」
泥まみれの腕が、アルテに向かって伸ばされる。
しかし、その腕が天を指した瞬間。
ピキリ、という硬質な音が空間を切り裂いた。
「──あ、アアアァァァァッ!!」
王太子が絶叫し、雪の上を転げ回った。彼がアルテに向かって伸ばした右手の掌を、地面から突き出した氷の槍が貫き、そのまま凍土へと深く縫い付けていたのだ。
鮮血が雪を赤く染めるが、それすらも瞬時に凍りつき、黒い染みへと変わっていく。
ガーディアの右手が、微かに持ち上がっていた。
「……誰に向かって、その汚らしい口を開いている」
殺気という言葉すら生ぬるい。それは純粋な「消滅」の意志だった。
「お前が俺の妻に気安く呼びかけることすら、万死に値する。その腕を根元から引き千切り、豚の餌にでもしてやろうか」
ガーディアがさらに指先を動かそうとした時、アルテは彼の上着の袖をそっと引いた。
ガーディアの動きがピタリと止まり、真紅の瞳がアルテへと向けられる。冷徹な死神の顔が、アルテの指先が触れただけで、一瞬にして忠実で甘やかな顔へと切り替わる。
「……もう、十分です。ガーディア様」
アルテの声は、雪原の風よりも澄み切っていた。
彼女は、右手を貫かれて汚物を漏らしながら泣き叫ぶ王太子と、白目を剥いて泡を吹いているセリアを見下ろした。
そこにあるのは、憎しみでも、怒りでも、同情でもなかった。
完全な、そして永遠の「無関心」。
かつて彼女のすべてを支配していた恐ろしい存在は、今や、視界の隅の染みほどの価値もない、ただの汚れた肉の塊だった。
彼らがどれほど泣き叫び、許しを乞おうとも、アルテの心臓の鼓動は一ミリも乱れることはない。
「彼らの処遇は、王国法に則り、辺境伯としてのあなたにすべて委ねます。……私にはもう、一切関係のないゴミですから」
アルテが静かにそう言い切った瞬間。
ガーディアの喉の奥から、低く、腹の底を震わせるような歓喜の笑い声が漏れた。
彼はアルテの肩を強く抱き寄せ、その髪に狂おしいほどのキスを落とす。
「ああ……その通りだ。お前の美しい瞳に、これ以上この汚物を映す必要はない」
ガーディアはアルテを自らの胸に隠すように抱き込むと、眼下の騎士たちに向けて冷酷な宣告を下した。
「聞け、王の犬ども。この男と女から身分を剥奪し、罪人として北の永久凍土の鉱山へ送れ。休むことすら許さず、死ぬまで魔力石を掘り続けさせろ。……もし逃がすようなことがあれば、王都そのものを氷の棺に沈める」
王太子とセリアの口から、ヒュー、という絶望の音が漏れた。
永久凍土の鉱山。それは、重罪人だけが送られる、生きて出ることの決してない生身の地獄。
彼らは恐怖で完全に失禁し、凍りつく泥の中でガチガチと歯を鳴らしながら、もはや言葉にならない鳴き声を上げ続けている。
しかし、その醜悪なノイズは、アルテの耳にはもう届いていなかった。
彼女の聴覚を支配しているのは、自らを抱きしめるガーディアの力強い心音と、彼が落とす熱い吐息だけ。
重厚なバルコニーの扉が閉ざされ、惨めな敗者たちの断末魔は、辺境の深い吹雪の中へと完全に掻き消されていった。










