第8話:崩壊の足音
──ガシャン!
薄手の白磁で作られたティーカップが、大理石の床に叩きつけられ、無残な破片となって飛び散った。
飛び散った赤褐色の液体が、王室の紋章が織り込まれた豪奢な絨毯に醜い染みを作っていく。王太子は、デスクに突っ伏すようにして荒い息を吐き出しながら、震える右手で己のこめかみを強く押さえた。
頭蓋骨の内側を、重い鉛の玉が転がり回っているような鈍痛。
眼球の裏側が焼け付くように熱く、視界の端が脈打つたびに明滅を繰り返している。
「……こんな泥水のような茶を、私に飲ませる気か」
執務室の壁際に控えていた従者が、血の気を失った顔で床に這いつくばる。
王太子は舌打ちをし、デスクの上に雪崩のように積み上げられた羊皮紙の山を忌々しげに睨みつけた。
数週間前まで、彼の執務机がこれほど混沌に支配されることはなかった。朝、彼が執務室に入る頃には、全国から寄せられた陳情書や決済書類は重要度順に美しく分類され、要旨だけが別の紙に簡潔にまとめられていた。そして彼が席につくと同時に、頭の芯まで澄み渡るような、完璧な温度と香りを持つ琥珀色の茶が差し出されていたのだ。
今はどうだ。
インクの染みがついた書類は日付も内容もバラバラに積まれ、決済を求める貴族たちの長ったらしい前置きを読むだけで、王太子の視界は文字の羅列に耐えきれず歪んでいく。
彼の呼吸は浅く、指先は氷のように冷たかった。ここ数日、原因不明の倦怠感が再び彼の肉体を蝕み始めていた。以前、この症状が出た時は、特別な滋養薬を飲むだけですぐに快方に向かったはずなのに、侍医が処方する薬はどれも、胃を荒らすだけで微塵の効果も発揮しない。
その時、執務室の重い扉が、ノックの音もなしに乱暴に開かれた。
「殿下……!」
甲高い、ヒステリックな声。
王太子は眉間の皺を深くして顔を上げた。そこに入ってきたのは、純白のドレスを身に纏った義妹、セリアだった。
しかし、王太子の網膜に映った彼女の姿は、以前の「白百合のような聖女」という輪郭から、致命的に何かが欠落していた。
彼女が踏み出した瞬間、執務室の淀んだ空気を切り裂いて、むせ返るような強烈な香水の匂いが王太子の鼻腔を殴りつけた。
複数の高価な香油が混ざり合った、頭痛を誘発する重い甘さ。それは、彼女自身の体から発せられる、埃と古い水が混ざったような淀んだ体臭を誤魔化すための、悪あがきのような香りだった。
結い上げられた豪奢な金髪は、毛先が箒のようにパサついて色が抜け落ちている。白く透き通るようだった肌は土気色にくすみ、それを隠すために分厚く塗りたくられた白粉が、首との境界線に不自然な層を作っていた。
「どうした、セリア。そのように顔を強張らせて」
「王都の南区画に、瘴気が……! 結界の魔力炉に祈りを捧げても、私の光が、少しも吸い込まれていかないのです!」
セリアの震える両手が、王太子の執務机の縁を強く掴んだ。彼女の爪の先が欠け、ささくれ立っているのが見えた。
王太子のこめかみの鈍痛が、さらに激しく脈打つ。
瘴気の漏出。
グランジット王国は、中央に座す聖女の浄化の光によって、国境の外に広がる瘴気から守られている。その絶対的な防壁が、王都の居住区にまで浸食し始めているという報告だった。
「……お前の魔力が、枯渇しているというのか?」
「違います!」
セリアは、金切り声を上げて否定した。
彼女の大きく見開かれた目には、血走った赤い糸が幾重にも走っている。
「私の魔力は完璧です! ただ……あの女が、アルテがいなくなってから、神殿の空気の循環がおかしいのです。私が浴びるはずだった香木も、飲むべき丸薬も、神官たちが用意するものはすべて紛い物ばかり! あの無能な姉が、出て行く前に神殿の設備に細工をしたに決まっています!」
王太子は、深く息を吐き出した。
セリアの言葉は、彼の脳内にあったパズルの最後のピースを完璧に埋め合わせた。
そうだ。そうとしか考えられない。
自分がこれほどまでに体調を崩し、国政が停滞しているのも、セリアの聖女としての力が発揮されないのも、すべてはあの魔力を持たない無能な公爵令嬢が、己の地位を追われた腹いせに、国の中枢に致命的な呪いを仕掛けていったからだ。
彼女がいなくなった途端に、これほどの不具合が同時に起きるなど、偶然にしては出来すぎている。書類の整理が滞っているのも、彼女が去り際に文官たちを買収し、自分の執務を妨害させているに違いない。
「……底意地の悪い女だ」
王太子は、冷たい汗が滲む額を手の甲で拭いながら、低く唸った。
無能であるだけでなく、国に仇なす反逆者。そのような女を、婚約破棄という寛大な処置だけで済ませてやったというのに、どこまでも恩知らずな本性を見せつけたというわけだ。
「報告によれば、アルテは辺境伯領に潜伏しているという噂だ。あの野蛮で呪われた『狂血の魔王』の領地に」
「辺境伯……あの、恐ろしい男の元に?」
「ああ。おそらく、得意の小賢しい嘘で辺境伯を取り入り、かくまわせているのだろう。力しかない愚鈍な辺境の番犬など、あの女の虚言に乗せられるにはちょうどいい」
王太子は、デスクに両手をついてゆっくりと立ち上がった。
視界がぐらりと揺れたが、彼は奥歯を噛み締めてそれに耐えた。自分は、この美しく偉大な国の次期国王なのだ。無能な女の姑息な罠などに、膝を屈するわけにはいかない。
「近衛騎士団を編成しろ」
王太子の言葉に、床に這いつくばっていた従者がビクッと肩を跳ねさせた。
「で、殿下……? 辺境伯領に、武力を差し向けるとおっしゃるのですか?」
「当たり前だ。国家の危機を招いた大罪人を、野放しにしておくわけにはいかない。辺境伯とて、王室の正式な命令と軍の威容を前にすれば、薄汚れた女一人などすぐに差し出すに決まっている」
王太子の唇の端が、歪に釣り上がった。
「アルテを引きずり戻し、仕掛けた呪いのすべてを解かせた上で、地下牢に繋ぐ。彼女には、一生をかけて我々の足元で罪を償わせなければならない。……セリア、安心しろ。お前の聖女としての輝きは、私が必ず取り戻してやる」
「ああ、殿下……! あなた様だけが、私の本当の光ですわ」
セリアが王太子の胸にすがりつく。彼女の厚化粧と重い香水の匂いが、王太子の弱った胃の腑を不快に逆撫でした。しかし彼は、その生理的な嫌悪感を自らの体調不良のせいだと解釈し、義妹の細い肩を抱き寄せた。
澱みきった執務室の中で、二人の浅はかな決意だけが、ひどく熱を帯びて反響していた。
自らの足元を支えていた強固な大黒柱を自らの手で切り倒したことに気づかないまま、彼らは泥舟の上で高らかに勝利の凱歌を上げている。
辺境に座す、理性を手放した絶対的な死神の逆鱗。
それに触れることがどのような破滅を意味するのかを想像する知能すら、すでに彼らの脳からは完全に抜け落ちていた。










