第7話:理性を喰らう独占欲と、鳥籠の幸福
カリ、カリという羽根ペンが羊皮紙を引っ掻く硬質な音だけが、重厚な執務室に響いていた。
アルテは、分厚い黒檀のデスクと、巨大な男の胸板の間に挟まれた極端に狭い空間で、自分の手元にある古い薬草学の頁をめくることすら躊躇っていた。
彼女が座っているのは、椅子ではない。
分厚い軍服のズボンに包まれた、岩のように硬く熱いガーディアの左大腿の上だった。
昨夜、あの暗闇の中で彼の傷跡に触れ、その存在のすべてを受け入れた瞬間から、アルテの足が床の絨毯を踏む時間は極端に奪われていた。朝、目覚めた時から、ガーディアは彼女を自らの腕の中から一秒たりとも放そうとしない。食事の際も、そしてこうして領地の決済書類に目を通す執務の時間でさえも、彼はアルテを自らの膝の上に縫い付け、その細い腰に鉄の帯のような右腕を回して固定している。
アルテの背中には、彼の分厚い胸板が隙間なく密着していた。
彼が呼吸をするたびに、その深い肺の膨らみがアルテの背骨を通して直接伝わってくる。微かなオゾンと、最高級のシガー、そして彼自身の熱を帯びた麝香のような匂いが、アルテの鼻腔を濃密に満たし、思考の輪郭を甘く溶かしていく。
不意に、背後で羽根ペンの音が止まった。
アルテの肩口に、ふわりと銀色の髪が触れる。ガーディアが書類から視線を外し、アルテの首筋に深々と顔を埋めたのだ。
「……閣下、書類が、滞ってしまいます」
アルテの掠れた声は、自分でも驚くほど頼りなく空気に溶けた。
ガーディアは答えない。ただ、アルテの鎖骨のあたりに鼻梁を擦り付け、彼女の皮膚から立ち上る微かな薬草の匂いを、渇ききった砂漠が水を吸い込むように、深く、重く吸い込むだけだ。
彼の右腕に込められる力が微かに増し、アルテの身体がさらに彼の熱の奥へと沈み込む。
「……お前の体温がないと、インクの文字がただの虫の這った跡に見える。俺の視界から、一瞬でも消えないでくれ」
耳朶を直接震わせる、ひどく甘く、湿り気を帯びた低い声。
絶対的な権力と暴力を統べる辺境の支配者が、ただ一人の女の体温に縋りつき、命を乞うように囁いている。その常軌を逸した執着の重さが、アルテの脳髄を痺れさせる。
アルテは、もう抵抗することをやめていた。王宮でどれほど献身的に働いても得られなかった「自分という存在への渇望」が、ここには致死量を超えて満ち溢れている。彼の腕の中という、世界で最も恐ろしく、そして最も安全な鳥籠の中で、アルテの身体から長年の強張りが完全に抜け落ちていた。
その時、執務室の重厚な扉が、控えめに三度叩かれた。
「閣下。王都周辺の瘴気濃度に関する、定例の報告書をお持ちしました」
扉の向こうから、若い騎士の声が響く。
アルテの首筋に顔を埋めていたガーディアの動きが、ピタリと止まった。
「……入れ」
声の温度が、一瞬にして絶対零度へと反転した。
先ほどまでアルテに甘く囁きかけていたのと同じ声帯から発せられたとは思えない、空気を凍らせるような冷酷な響き。
重い扉が開き、書類の束を抱えた若い騎士が足を踏み入れる。
彼はデスクに向かって歩みを進めながら、主君の膝の上に抱き込まれるように座るアルテの姿に、ほんの一瞬だけ、驚きに目を見開いた。その視線が、アルテの銀色の髪と、華奢な肩のラインを無意識に撫でる。
時間にして、わずか一秒にも満たない交錯。
直後。
執務室の空気が、物理的な音を立てて軋んだ。
アルテは、急激な気圧の変化に耳の奥がツンと痛むのを感じた。
暖炉の中で赤々と燃えていた炎が、一瞬にして青白く変色し、チロチロと弱々しい光に縮み上がる。デスクの端に置かれていたクリスタルのインク壺の表面に、パキパキと音を立てて白い霜が張り巡らされていく。
アルテの腰を抱くガーディアの腕が、ギリリと、骨が軋むほどの力で締め付けられた。
背後から放たれる、息が詰まるほどの圧倒的な殺気。
ガーディアの視線はアルテの頭越しに若い騎士を射抜いていた。アルテには彼の表情を見ることはできない。しかし、部屋中の空気が氷点下へと急降下し、見えない無数の刃が騎士の喉元に突きつけられていることだけは、皮膚を刺す冷気を通して痛いほどに伝わってきた。
若い騎士の顔から、一瞬にして血の気が引くのが見えた。
彼は書類を抱えたまま、目に見えない巨大な圧力に押し潰されるように、その場にガクンと両膝をついた。喉からヒューッというひきつけを起こしたような音が漏れ、床の絨毯を掻きむしりながら、必死に酸素を求めて喘いでいる。
「……書類はそこに置け。そして、二度と俺の私室に近づくな」
静かすぎる、しかし明確な死の宣告だった。
騎士は震える手で書類を絨毯の上に置くと、這いつくばるようにして後ずさり、逃げるように執務室から転がり出た。重い扉がバタンと閉ざされ、再び部屋に静寂が戻る。
青白かった暖炉の炎が、ゆっくりと元の赤みを取り戻していく。
インク壺の霜が溶け、水滴となってデスクに落ちる音が響いた。
アルテの身体は、極度の緊張で微かに強張っていた。
他者に対する、容赦のない冷酷な暴力の片鱗。自分を抱くこの腕が、いつでも他者の命を容易く刈り取れる死神のものであるという事実。
しかし。
「……アルテ」
ガーディアの大きな手が、アルテの震える両手をすっぽりと包み込んだ。
先ほどの殺気が嘘のように、その手はひどく温かく、そして、微かに震えていた。
「見ないでくれ」
背後から、彼がアルテの耳の裏側に唇を押し当てる。
チュッ、という水音が立ち、熱い吐息が皮膚を焼く。
「他の男を、その瞳に映さないでくれ。お前の視界に入るものは、俺だけでいい。お前が俺以外の空気を吸うことすら、狂おしいほどに恐ろしいんだ」
アルテの肩口に顔を埋めたまま、彼は祈るように、懇願するように言葉を紡ぎ続ける。
他者には氷のような恐怖を与えながら、アルテに対しては決して声を荒げず、ただひたすらに己の脆弱な執着を晒け出して愛を乞う。
包み込まれた両手から伝わる、痛いほどの熱。
首筋に落とされる、数え切れないほどの甘い口づけ。
アルテの身体の芯から、甘く痺れるような熱が広がり始めた。
外の世界の冷たさも、王宮での理不尽な仕打ちも、もはやここには届かない。彼の異常なまでの執着が作り上げたこの絶対的な鳥籠の中だけで、自分は呼吸をしていればいい。
アルテはゆっくりと瞳を閉じ、自らの腰を抱く彼の太い腕の上に、そっと自分の手を重ねた。
彼女の指先が彼の腕に触れた瞬間、ガーディアの喉の奥から、甘い満足の唸りが漏れた。密室の濃密な熱気に溶けゆく意識の中で、アルテは自ら、その鳥籠の鍵を深い海の底へと沈めていった。










