第6話:英雄の疵と、夜陰に響く本音
分厚い雲が月を隠し、窓の外は底なしの暗闇に沈んでいた。
暖炉の中で、燃え尽きかけた薪がパチンと小さな音を立てて崩れる。その微かな音がやけに大きく響くほど、深夜の私室は深い静寂に包まれていた。
アルテは、銀のトレイに乗せたティーカップの微かな振動を両手で抑え込みながら、部屋の奥へと足を踏み入れた。
就寝前の、呪いを抑え込むための最後の一杯。
しかし、天蓋ベッドの傍らに立つ巨大な影を視界に捉えた瞬間、アルテの足は床の絨毯に縫い付けられたように止まった。
ガーディアだった。
彼は軍服の上着を脱ぎ捨て、血と汗に塗れた白いシャツの胸元を大きくはだけさせていた。手には、黒く変色した包帯が握られている。先ほどまで、単騎で辺境の森の深部へ赴き、強大な魔獣の群れを間引いてきたのだと、廊下の騎士たちがひそやかに囁いていたのを思い出す。
アルテの視線は、彼のはだけた胸板と、背中から肩にかけて刻まれた無数の痕跡に釘付けになった。
それは、名誉ある剣傷などではない。
刃によって裂かれた肉は癒える間もなく瘴気に晒され、どす黒く変色してケロイド状に盛り上がっている。そして何より異様なのは、心臓の真上から首筋、そして左腕にかけて、まるで毒蛇が這い回ったかのように刻み込まれた、漆黒の魔術紋様だった。
王室が用いる、最高位の「封印指定」の術式。対象の肉体を器とし、強大な厄災をその命ごと縛り付けるための、生贄の刻印。
ガーディアは、背後の気配に気づき、ゆっくりと振り返った。
はだけた胸の傷を隠そうとする素振りは、一切なかった。ただ、暗闇の中で燃えるような真紅の瞳が、アルテの顔色を冷徹に、そしてひどく臆病に値踏みしている。
「……醜悪だろう」
深夜の冷気を孕んだ、ひどく掠れた声だった。
彼は手の中の汚れた包帯を床に落とし、自らの胸に刻まれた漆黒の紋様を、自嘲するように指先でなぞった。
「十年前だ。北の国境が瘴気に飲まれかけた時、当時の国王は、俺の肉体を核としてこの地の瘴気を丸ごと封じ込める儀式を行った。王国最強の盾は、最も便利な『ゴミ箱』だったというわけだ」
平坦な声色だった。怒りも、恨みも、そこにはない。ただ、長年その重すぎる事実を一人で咀嚼し続け、完全に摩耗しきった人間の、空虚な振動だけがあった。
グランジット王国。何百年もの間、平和と繁栄を謳歌してきた白亜の王都。
その光の裏側で、彼がどれほどの血を流し、どれほどの孤独な夜を、この呪いの激痛と共に耐え抜いてきたのか。
アルテの網膜の裏に、王宮の地下室で、指先から血を流しながら薬草を擦り潰し続けた自らの記憶が重なる。
国を支えるための献身はすべて「不純物」として義妹に奪われ、最後には無能と切り捨てられた。
王族たちは、いつだってそうだ。彼らは美しい光だけを貪り、汚れ仕事と苦痛を、圧倒的な暴力と権力で他者に押し付ける。
アルテは、手元のトレイを、すぐ横のサイドテーブルに音を立てずに置いた。
呼吸が、深くなる。
喉の奥が焼け付くように熱い。しかし、視界は奇妙なほどに澄み切っていた。
彼女は、音もなく絨毯の上を歩き、ガーディアの正面へと立った。
彼の見下ろす視線が、微かに揺らぐ。
アルテは何も言わなかった。ただ、自らの両手をゆっくりと持ち上げ、その小さな掌を、ガーディアの分厚い胸板──最も醜く盛り上がった、漆黒の呪いの刻印の真上へと、迷いなく押し当てた。
ビクン、と。
巨大な男の肉体が、雷に打たれたように大きく跳ねた。
アルテの掌を通して伝わってくるのは、尋常ではない熱と、呪いが立てる嫌な脈動。そして、幾度も肉が裂け、癒着した硬く歪な皮膚の感触だった。
王都の貴族令嬢たちであれば、悲鳴を上げて逃げ出すであろうその悍ましい傷跡を、アルテの薬草の匂いが染み付いた指先が、ひどく慈しむように、ゆっくりと、ゆっくりとなぞっていく。
「……何をしている」
ガーディアの声が、低く震えた。拒絶ではない。それは、予期せぬ熱に触れた者が、混乱と恐怖に陥った時の音色だった。
「冷たかったでしょうね」
アルテの口から零れたのは、同情でも哀れみでもなかった。
彼女は、彼を見上げなかった。ただ、指先の皮膚感覚だけに全意識を集中させ、彼の傷の奥底に眠る、十年間誰にも触れられることのなかった孤独の塊に語りかけていた。
「血を流しても、痛みに耐えても、誰も気づいてはくれない。誰も、本当のあなたを見てはくれない。……この傷は、あなたがこの世界を繋ぎ止めてきた、確かな証です」
アルテの親指の腹が、彼の心臓の上で止まった。
ドクン、ドクンという、異常なほど早い鼓動が、アルテの手首まで伝わってくる。
「私は、契約のためにここに来たのではありません。……あなたの痛みを、これ以上、一人にはしません」
アルテがようやく顔を上げ、彼の真紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返した瞬間だった。
ガーディアの中で、何十年もの間、彼を縛り付けていた分厚い理性の壁が、音を立てて粉々に砕け散った。
「──っ!」
視界が、反転した。
次の瞬間、アルテの背中は、天蓋ベッドの分厚い羽根布団の上に沈み込んでいた。
全身を覆い尽くす、圧倒的な質量と熱。
ガーディアの巨体が、アルテの小さな身体に覆い被さり、逃げ道を完全に塞いでいた。彼の太い両腕がアルテの肩口のシーツを深く掴み、その関節が白く浮き上がるほどの力が込められている。
「……お前が、触れたんだ」
アルテの耳元に落とされたその声は、もはや人間の言葉の形を保っていなかった。
飢え渇いた獣の唸り声。砂漠を彷徨い続けた者が、ついに見つけたオアシスにすがりつくような、泥臭く、凄まじい執着の響き。
彼の熱い吐息が、アルテの首筋を撫でる。
ガーディアの鼻梁がアルテの鎖骨のあたりに押し付けられ、深く、肺の底から空気を絞り出すような荒い呼吸が繰り返される。アルテの髪の匂い、皮膚の温度、その存在のすべてを、自らの内側へと取り込もうとするかのような、重暗く、粘つくような吸気。
「もう、二度と放さない。お前が俺を恐れても、泣いて拒絶しても……お前だけは、俺の骨の髄まで付き合わせる」
彼の手がシーツから離れ、アルテの背中に回り、その華奢な胴体を文字通り「圧し折る」ほどの力で抱き寄せた。
痛いほどの強さ。しかし、アルテの首筋に落ちた男の額からは、微かな震えが伝わってくる。
絶対的な支配者の、あまりにも脆く、狂気的なまでの縋りつき。
アルテは抵抗しなかった。
彼女の細い両腕が、ゆっくりとガーディアの広い背中に回り、その熱い身体をしっかりと抱き返す。
深夜の暗闇の中、呪いと孤独に塗れた獣は、ついに自らの唯一の安息の地を見出し、その重く強固な鎖を、彼女の魂に深々と絡みつかせた。










