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無能と虐げられた令嬢は、狂血の魔王の呪いを解いて激重溺愛される~愚かな元婚約者の破滅など、もう私の視界には入りません~  作者: あとりえむ


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第5話:与えられすぎる寵愛と、溶けゆく警戒心

天蓋付きの巨大なベッドの上が、光の海に沈んでいた。

アルテは、分厚い絨毯の上に立ち尽くしたまま、目の前に広げられた異常な光景から視線を外すことができなかった。


深い蒼色をした最高級のベルベットのドレス。真珠を砕いて織り込んだとされる、月光のように鈍く光る夜着。辺境の極寒を一切通さない、魔力を帯びた純白の雪狐の毛皮。それだけではない。マホガニーのサイドテーブルには、王都の大図書館でも最奥にしか保管されていないはずの、古代魔導薬膳の原書が山のように積まれている。古い羊皮紙とインク、そして防虫のための香木の匂いが、部屋の空気を重く満たしていた。


どれ一つとして、アルテが「欲しい」と口にしたものではない。

ただ、数日前に城内の書庫を通りかかった際、背表紙にほんの一秒だけ視線を向けただけの本。食事の際、ほんの少しだけ指先が冷えてこすり合わせた瞬間に着ていた衣服の薄さ。

彼女自身すら無意識の領域にあった微細な動作のすべてを、あの男は網膜に焼き付け、そして翌日には、世界中からその最適解をかき集めて物理的な形にして叩きつけてくる。


「……サイズは合っているか」


背後の重厚な扉が開く音もなく、突然、地鳴りのような低い声が落ちた。

アルテの肩がびくりと跳ねる。振り返ると、部屋の入り口に、空間の光をすべて吸い込むような漆黒の軍服を纏ったガーディアが立っていた。

彼はちょうど、廊下に控えていた側近の騎士に対し「二度とそのような下らない報告で俺の時間を割くなら、首を落とすぞ」と、氷点下の声音で言い放ち、扉を閉めたところだった。扉越しにすら伝わるその絶対的な殺意と冷酷な気配に、廊下の空気が凍りつく音が聞こえた気がした。


しかし。

アルテへと向き直った瞬間、彼の周囲に渦巻いていた死神のような気配が、嘘のように霧散した。


「閣下……あの、これは……」

「足りないものがあれば言え。王都の商人どもを、商会ごと買い上げてもいい」


ガーディアの長い足が、絨毯の音すら立てずにアルテとの距離を詰める。

逃げ場のない圧倒的な体格差。彼がアルテの目の前に立つと、窓から差し込んでいた冬の陽射しが完全に遮られ、アルテの視界は男の広い胸板と漆黒の布地だけで埋め尽くされた。

革手袋を外した大きな手が、アルテの銀色の髪に触れる。


「お前の指先が冷えるのは、見ていて腹立たしい。この城にあるものはすべてお前の所有物だ。遠慮などという無駄な機能は、今すぐ捨てろ」


言葉の字面だけを見れば、傲慢な命令に過ぎない。しかし、アルテの髪をすくう彼の指先は、恐ろしいほどに優しく、慎重だった。まるで、少しでも力を込めれば砕けてしまう薄氷を扱うかのような、ひどく臆病な触れ方。

彼の指先から伝わる強烈な熱に、アルテの首筋がカッと熱を帯びる。


実家では、新しいドレスを与えられることなど一度もなかった。与えられるのは常に、義妹のお下がりの、サイズの合わない古着と、終わりの見えない裏方仕事だけだった。

今、目の前に積まれた莫大な価値を持つ品々は、すべてアルテただ一人のために用意されたもの。彼女の生存を肯定し、彼女の思考を保護するための、重暗く、粘つくような執着の結晶。


アルテは、ゆっくりと息を吸い込んだ。

喉の奥の強張りが、少しずつ解けていくのがわかる。

「……ありがとうございます、ガーディア様。ですが、私にはこの本だけで、十分すぎるほどです」


アルテが古い薬草学の本の装丁にそっと指を這わせると、ガーディアの真紅の瞳が、その動きを射抜くように追った。彼の手がアルテの腰に回り、僅かにその身体を引き寄せる。

アルテは抵抗しなかった。ただ、彼の軍服から漂う、わずかなオゾンと冷たい雪の匂いの中に、静かに身を委ねていた。


夜の帳が下りる頃。

暖炉の火が赤々と燃えるガーディアの私室には、微かな薬草を煎じる音だけが響いていた。


アルテは、銀の乳鉢で『星屑の種』と『竜胆の根』をすり潰し、正確な温度管理のもとで琥珀色の香茶を抽出していた。呪いの発作を抑えるための、彼女にしか作れない魔導薬膳。

ティーカップに注がれた液体からは、甘く、そして深い森の奥のような清謐な香りが立ち上っている。


「……どうぞ」


アルテがソーサーを差し出すと、執務机で羽ペンを走らせていたガーディアが、ピタリと動きを止めた。

彼が顔を上げる。その表情は、先ほどまで書類の向こう側にいる仮想敵を睨みつけていた冷徹な支配者の顔だった。眉間には深い皺が刻まれ、瞳には血のような暗い光が宿っている。


しかし、アルテの手からティーカップを受け取り、その縁に唇をつけた瞬間。

魔法が解けたように、その厳格な輪郭が崩れ落ちた。


コク、と喉を鳴らして熱い香茶を飲み込んだガーディアの身体から、目に見えない強固な鎧が剥がれ落ちる。

深く、重い吐息が彼の薄い唇から漏れた。

眉間の皺が嘘のように平らになり、鋭い眼光を放っていた真紅の双眸が、春の陽だまりで微睡む猛獣のように、とろんと半開きになる。背もたれに深く体重を預け、彼自身の強大な魔力によって常に張り詰めていた肩の筋肉が、完全に弛緩しきっていた。


他者には決して見せることのない、絶対零度の男の、あまりにも無防備な姿。

国で最も恐れられる男が、アルテの淹れた一杯の茶によってのみ、呼吸を深め、その命の底から安堵している。


ガーディアはカップをデスクに置くと、そのまま長い腕を伸ばし、傍らに立っていたアルテの腰を引き寄せた。

アルテの身体が傾き、彼の厚い胸板に頬がぶつかる。

彼は何も言わず、ただアルテの肩口に顔を埋め、彼女の髪から漂う微かな薬草の匂いを、肺の奥底まで吸い込んでいた。


ドク、ドクと、彼の安定した力強い鼓動が、アルテの耳に直接伝わってくる。

アルテの身体は、もう震えていなかった。

彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、自分の右手を持ち上げた。躊躇うように空中で数秒間静止したその手は、やがて、彼女の肩に顔を埋める銀色の髪へと、静かに着地した。


指先を通して伝わる、硬質な髪の感触と、男の不器用な体温。

アルテがほんの少しだけその髪を撫でると、ガーディアの腕の力が、さらに強く、アルテを自分の中に閉じ込めるように強まった。

暖炉の火の爆ぜる音が、密室の深い静寂の中に、ひどく穏やかに溶けていった。

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