第4話:辺境の食卓と、失われた尊厳の回復
巨大な薪が爆ぜる音と、鉄鍋の中で沸騰する重い水音が、城の地下に広がる大厨房の空気を震わせていた。
アルテは、分厚い麻の布で取っ手を掴みながら、自分自身の背丈ほどもある大鍋の縁から立ち上る湯気を見つめていた。王都の絢爛な厨房とは違う、無骨で実用的なだけの石造りの空間。
だが、ここには生ゴミの淀んだ匂いも、アルテを蔑むような舌打ちも存在しない。
大鍋の中で煮込まれているのは、辺境の硬い岩塩と、城の裏手で採れた野草、そしてアルテが調合した「浄化」の効能を持つ魔導薬膳の粉末を練り込んだ羊肉のスープだった。
王宮では、彼女の調合した滋養薬はすべて「不純物」として義妹のセリアに奪われ、美しいガラス瓶に詰め替えられていた。アルテの手元に残るのは、火傷の跡と、爪の間にこびりついた薬草の灰だけだった。
「奥様。そろそろ、兵舎の者たちが戻る時刻にございます」
背後からかけられた声に、アルテの肩がビクッと跳ねた。
振り返ると、顔の半分に巨大な獣の爪痕を残す、熊のように大柄な騎士団長が、恭しく首を垂れて立っていた。彼の纏う分厚い鉄の鎧からは、辺境の森に漂う瘴気と、冷たい雪の匂いが微かに発せられている。
「……はい。火加減は、ちょうど良いはずです」
アルテの声は、まだ微かに掠れていた。
契約の翌日。何もしなくていいというガーディアの言葉に反し、アルテの身体は「有用性を示さなければ捨てられる」という長年の強迫観念に突き動かされるように厨房へと向かっていた。
突然現れた正体不明の女が厨房に立つことを、彼らは当然拒絶し、蔑むだろうとアルテは身構えていた。王都の料理長がそうしたように、煮え湯を浴びせられるかもしれないと、ドレスの裾を強く握りしめていた。
しかし、騎士団長を始めとする厨房の者たちは、アルテの姿を認めるなり、全員が一斉に膝をつき、道を空けたのだ。
配膳台の前に、訓練を終えた数十人の騎士たちが一列に並ぶ。
誰もが、アルテの前まで来ると、一度深く頭を下げてから、両手で木製の椀を差し出す。アルテは重いお玉を両手で持ち、一人ひとりの椀に琥珀色のスープを注いでいった。
熱いスープが注がれるたびに、立ち上る湯気がアルテの視界を白く染める。
ふと、一人の若い騎士が、スープの入った椀を顔の高さまで持ち上げ、震える息を吐き出した。
「……信じられない。身体の芯にこびりついていた重い鉛が、一瞬で溶けていくような……」
若い騎士の言葉に、周囲の屈強な男たちも次々と椀に口をつけ、目を丸くしていた。
辺境の森に充満する瘴気は、呼吸するだけで兵士たちの肺を濁らせ、末端の血管から徐々に体温を奪っていく。しかし、アルテの調合した『陽炎の根』と『白夜草』の成分は、血液に溶け込むことで体内の瘴気を中和し、強制的に心拍数を正常値へと引き上げる作用を持っていた。
「奥様」
騎士団長が、空になった椀を両手で持ち、アルテの真正面に立った。
アルテは反射的に身を引き、視線を床の石畳へと落とした。味が薄かったのか、それとも身分不相応な真似をしたことへの叱責か。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘のように鳴り始める。呼吸が浅くなり、指先から急速に温度が失われていく。
しかし、降ってきたのは、怒声でも嘲笑でもなかった。
「……我々は長年、閣下がどれほど深い呪いの苦痛に苛まれておられるかを知りながら、ただ見ていることしかできませんでした」
足元の石畳に、ポツリ、と黒い染みが落ちた。
アルテが恐る恐る視線を上げると、顔に深い傷を持つ大柄な男の瞳から、大粒の涙が零れ落ちていた。
「閣下の痛みを……我々の絶望を救ってくださったこと。そして今日、辺境の冷え切った我々の身体に、これほどの温もりを与えてくださったこと。ルヴェリア騎士団一同、この御恩は命に代えても忘れません」
ガシャン、と重い金属音が厨房に響き渡った。
騎士団長がその場に片膝をつき、右手を左胸に当てる最敬礼の姿勢をとったのだ。それに呼応するように、周囲にいた数十人の騎士たちが、一斉に椀を置き、地鳴りのような音を立てて膝をついた。
「奥様に、大いなる感謝と忠誠を!」
野太い、しかしはっきりとした熱を帯びた声の波が、アルテの全身を打ち据えた。
アルテの瞳孔がわずかに開く。
視界の端で、お玉を握る自分の両手が小刻みに震えているのが見えた。
誰も、彼女の技術を「不純物」と呼ばなかった。
誰も、彼女の存在を「無能」と切り捨てなかった。
胸の奥底で、固く結ばれ、長年血を通わせることのなかった冷たい結び目が、音を立てて解けていくような感覚があった。
喉の奥から、熱い塊が込み上げてくる。アルテは必死に奥歯を噛み締め、呼吸を整えようとしたが、まばたきをするたびに、視界を覆う湯気が異様に滲んで見えた。
彼女の視線が、床の石畳から、目の前で頭を垂れる騎士たちのつむじへ、そして、厨房の高い窓から差し込む、辺境の澄んだ冬の陽射しへと、ゆっくりと引き上げられていく。
「……お粗末様、でした」
絞り出すように発した声は、震えていた。
しかし、その声は誰に遮られることもなく、静かな厨房に確かな響きを持って落ちた。アルテの肺に、ひどく冷たく、けれど澄み切った空気が、数年ぶりに深く吸い込まれていく。
その光景を、遥か上方の内回廊から見下ろしている影があった。
ガーディア・フォン・ルヴェリア。
漆黒の軍服を纏った彼は、分厚い石の欄干に片肘をつき、厨房で騎士たちに囲まれるアルテの姿を、瞬き一つせずに凝視していた。
彼の真紅の瞳は、領民たちを労うアルテの柔らかい横顔の輪郭、湯気に濡れた銀色の髪の毛先、そして、重いお玉を握る彼女の華奢な手首の動きに至るまで、そのすべてを網膜に焼き付けるように粘着的に這い回っている。
「……誰にも、触れさせるものか」
薄い唇から漏れたその呟きは、誰の耳にも届かない。
欄干を掴む彼の手のひらの下で、分厚い石材がメキメキと音を立てて微かにひび割れていた。
彼が与えた「安全」という名の強固な鳥籠の中で、アルテが少しずつ本来の羽を伸ばし始めている。その事実がもたらす圧倒的な独占の快楽と、彼女の笑顔が他者に向けられることへの氷のような嫉妬。
辺境の穏やかな食卓の熱気の上で、死神の重暗い執着は、誰にも気づかれることなく、静かに、そして確実にその根を深く張っていた。










