第3話:条件付きの庇護と、重暗き契約結婚
暖炉の中で爆ぜる薪の音が、重厚な石造りの執務室に規則的なリズムを刻んでいた。
窓の外では相変わらず、空を削り取るような猛吹雪が吹き荒れている。しかし、アルテが身を置くこの室内には、微かな隙間風すら入り込む余地がない。足首まで沈み込むような毛足の長い絨毯と、部屋の四隅に配置された魔力炉が、春の午睡のような濃密な温熱を空間に充満させていた。
アルテは、手元に置かれた分厚い羊皮紙の束と、目の前の黒檀のデスクに座る男を交互に視界に収めた。
ガーディア・フォン・ルヴェリア。
昨夜、絨毯を血が滲むほど掻きむしり、獣のように喘いでいた姿はそこにはない。漆黒の軍服には一糸の乱れもなく、銀色の髪は冷たい光を反射して滑らかに撫で付けられている。背筋を伸ばし、組んだ指の上に顎を乗せてアルテを見据えるその姿は、冷徹な辺境の支配者そのものだった。
「条件に不服があるなら、今すぐ修正させよう。遠慮はいらない」
地鳴りのように低く、一切の揺らぎを持たない声。
アルテは視線を落とし、羊皮紙に羅列されたインクの文字列を再びなぞった。
『第一項:辺境伯ガーディアは、アルテ・ル・グランジットに対し、辺境伯領内における最高位の衣食住、および全権を以てその身の安全を生涯にわたり完全に保障する』
『第二項:アルテを害するいかなる存在(王族、国家機関を含む)に対しても、辺境伯軍はこれを明確な敵対行為とみなし、徹底的な排除を約する』
『第三項:代償として、アルテは辺境伯の妻としての座に就き、その命が続く限り、彼のための魔導薬膳の調合を専任する』
文字の連なりを追うアルテの網膜の裏に、昨夜の豪雨と、泥水の冷たさがフラッシュバックする。
王太子から投げつけられた「無能」という単語。氷点下の路地裏で、ドレスを通して骨の髄まで浸透してきたあの死の気配。
今、アルテが身に纏っているのは、昨夜メイドたちによって用意された、極上の雪羊の毛で織られた滑らかな真新しいドレスだった。肌に触れる裏地には保温の魔術式が丁寧に縫い込まれており、少し動くたびに、かすかな陽だまりの匂いがする。
公爵家で何年も着古した、裾の擦り切れたドレスを繕いながら夜を明かしていた日々。誰にも評価されず、ただすり減るだけだった自らの技術に、これほどの対価が提示されている。
提示された条件は、破格などという言葉では収まらない。これは、辺境伯という国家の最大武力が、一人の女のために国そのものを敵に回す可能性を明文化したものだ。
アルテの静かな呼吸が、一度だけ深く止まった。
合理的だ、と彼女の思考は冷徹に結論を下す。
相手は呪いの痛みに長年苛まれてきた最強の武力。自分は、その苦痛を取り除ける唯一の技術を持つ逃亡者。需要と供給は完全に一致している。王都からの理不尽な追手から逃れ、最低限の尊厳を保って生き延びるための、これ以上ない生存戦略。
「……不服など、あろうはずがありません。私のような身分を失った娘に、これほどの待遇をご用意いただき……」
「言葉などいい。サインをしろ」
ガーディアが片手をわずかに動かすと、羽根ペンが自律してアルテの手元へと滑ってきた。インク壺には、微かに魔力の光を帯びた、契約専用の緋色のインクが満たされている。
アルテは羽根ペンを手に取った。
薬草を刻み続けたことで無数の細かい傷跡が残る己の指先が、純白の羽根と対比されて異様に目立つ。彼女は迷うことなく、羊皮紙の最下段に自らの名を走らせた。
カリ、カリ、という硬質な音が、温かい室内に吸い込まれていく。
最後の文字の跳ねを書き終えた瞬間。
背後に、巨大な影が落ちた。
いつの間にかデスクから立ち上がっていたガーディアが、アルテの背後、息がかかるほどの至近距離に立っていた。
ヒュッ、とアルテの喉が微かに鳴る。
彼の長躯が放つ圧倒的な体温と、オゾンと古い血の混ざった匂いが、アルテの全身を檻のように包み込む。逃げ場はない。左右を彼の太い腕が塞ぎ、アルテの手首を、革手袋に包まれた大きな手が上からすっぽりと覆い隠した。
びくり、とアルテの肩が跳ねる。
ガーディアの指先は、サインを終えたアルテの羽根ペンを取り上げるわけでもなく、ただ彼女の細い手首の脈打つ部分に、親指の腹を押し当てていた。
「閣下……?」
アルテが戸惑いを声に滲ませて見上げると、すぐ真横に彼の端正な横顔があった。
ガーディアは羊皮紙のサインなど、一瞥もしていなかった。
彼の真紅の瞳は、アルテの首筋から鎖骨にかけての無防備な白い肌を、まるで獲物の急所を見定める肉食獣のように、微動だにせず見下ろしている。その瞳の奥には、冷徹な支配者の顔とは完全に切り離された、昏く、粘つくような熱が渦を巻いていた。
手首の脈を抑える彼の親指の力が、ほんのわずかに強くなる。
ドク、ドク、と速まるアルテの脈拍を、直接その皮膚から味わい尽くすかのような、執拗で、ねっとりとした触れ方。
アルテは息を詰めた。この圧倒的な威圧感は、彼が契約の重みを自分に刻み込もうとしているのだと、彼女の理性は必死に解釈を試みる。強大な力を持つ者は、裏切りを何よりも許さない。これは彼なりの、威嚇なのだと。
「……これで、お前は俺のものだ」
耳元に落とされたその囁きは、アルテの鼓膜を甘く、そして重く震わせた。
威圧の言葉であるはずなのに、彼の声帯はひどく微睡んだように震え、アルテの髪の束をすくう大きな手は、恐ろしいほどに優しかった。
アルテの手首を握る彼の手のひらの温度が、火傷しそうなほどに上がっていく。
外の吹雪を完全に遮断した、密室の熱気。
アルテは、自分が今、どれほど重く、決して開くことのない巨大な鳥籠の扉を自らの手で閉ざしたのかに、未だ気づいてはいなかった。










