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無能と虐げられた令嬢は、狂血の魔王の呪いを解いて激重溺愛される~愚かな元婚約者の破滅など、もう私の視界には入りません~  作者: あとりえむ


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第2話:氷の城塞と、孤独な英雄の秘密

馬車の車輪が、凍てついた大地を踏み砕く重い音が止んだ。

天を衝くような黒曜石の城壁が、分厚い雪雲に覆われた辺境の空を鋭く切り裂いている。王都の豪奢で繊細な白亜の宮殿とは対極にある、ただ外敵を拒絶し、血と氷にまみれることのみを目的として建造された、巨大な重力を持つ要塞。


巨大な鉄の扉が、鼓膜を圧迫するような低い摩擦音を立てて開く。

ガーディアの黒い外套に包まれたまま城の広間へと足を踏み入れたアルテの頬を、剃刀のように冷たい空気が撫でた。

天井の至る所に青白い魔力石の灯りがともっているが、広間には死に絶えたような静寂が横たわっていた。壁沿いに控える大勢の甲冑姿の騎士や使用人たちは、ガーディアの姿を認めるなり、弾かれたように膝をつき、深く頭を垂れる。彼らの鎧が擦れる微かな音には、絶対的な主君に対する敬畏よりも、明確な「恐怖」の振動が混ざっていた。


ガーディアは彼らに一瞥もくれることなく、アルテの肩を抱き寄せたまま、凍りつくような石の階段を登っていく。

アルテは、自らの肩を抱く彼の手のひらから、尋常ではない熱が発せられていることに気づいていた。氷点下に迫る城内の空気の中で、彼が呼吸をするたびに、微かな血の匂いと、空気が焦げるようなオゾンの匂いが強くなっていく。


最上階。重厚な黒檀の扉が開かれ、彼の私室に足を踏み入れた瞬間だった。

「……っ」

ガーディアの巨大な体が、唐突にぐらりと傾いた。

アルテの肩から腕が外れ、男は厚い絨毯の上に膝をつく。同時に、部屋の空気が一瞬にして凍りついた。パキ、パキリと、窓ガラスや壁のタペストリーの表面に、黒い霜が這うように広がっていく。


「閣下……!」

扉の外で控えていた従者が悲鳴のような声を上げたが、彼らは誰一人として部屋に踏み込むことができない。ガーディアの体から溢れ出すどす黒い瘴気が、見えない壁となって彼らを拒絶しているのだ。

ガーディアは喉の奥で獣のような低い唸り声を殺し、己の胸ぐらを鷲掴みにしていた。彼の青白い首筋に、漆黒の血管が脈打ちながら浮かび上がり、まるで生き物のように皮膚の下を這い回っている。


呪いの発作。

王都の文献で読んだことがある。極限の魔力を行使し続けた代償として、術者の肉体を内側から喰い破ろうとする強大な呪毒。

周囲の空気を凍結させながら、男自身の体は発熱で赤黒く染まり、その額には玉のような汗が浮かんでいた。骨が軋み、筋肉が断裂するほどの痛みが彼を襲っていることは、絨毯を掻きむしる指先から血が滲んでいることからも明白だった。


アルテは、自分の足が微塵も震えていないことに気づいた。

理不尽に怒鳴り散らす王太子や、冷笑する義妹の前ではあんなにも強張っていた身体が、今は奇妙なほどに静まり返っている。

彼女の視線が、部屋の隅にある暖炉と、サイドテーブルに置かれた銀のティーセット、そして保温のための魔力器に注がれた湯を捉える。


ドレスの裏地、コルセットの隙間に縫い付けられていた小さな絹の袋を、アルテは躊躇いなく引き千切った。

実家で何度となく持ち物を没収され、燃やされてきた彼女が、唯一肌身離さず隠し持っていたもの。圧縮され、乾燥した「陽光の欠片」と呼ばれる希少な葉と、魔力を帯びた銀樹の樹皮。

アルテは流れるような動作でティーセットに駆け寄り、銀の匙の背を使って樹皮を粉々に砕いた。そこに茶葉を入れ、微かに自らの指先から温かい魔力を流し込みながら、適温の湯を注ぎ込む。


ジュッ、という微かな音と共に、部屋を支配していた鉄と血の匂いが、柑橘に似た甘く鋭い香りに塗り替えられていく。湯気は普通の白ではなく、微かに黄金色を帯びていた。


アルテは琥珀色の液体が満ちたティーカップを両手で包み込み、猛吹雪の中を歩くように、呪いの瘴気が渦巻くガーディアの元へと近づいた。

一歩近づくごとに、皮膚が切り裂かれそうな冷気がアルテの頬を打ち据える。しかし彼女は瞬き一つせず、膝をついてうずくまるガーディアの傍らに身を沈めた。


濁った真紅の瞳が、アルテを睨みつける。

近づけば殺す、と言わんばかりの、理性を失いかけた猛獣の眼光。

だがアルテは、その凶暴な視線を真っ直ぐに受け止めながら、空いた片手を、黒い血管が浮かび上がるガーディアの頬にそっと添えた。


氷のように冷たく、同時に火のように熱い、矛盾した皮膚の感触。

アルテの手のひらから伝わる微かな温もりに、ガーディアの眼光がほんのわずかに揺らいだ。

その隙を見逃さず、アルテはカップの縁を彼の薄い唇に押し当てた。

コク、と。

ガーディアの喉が動き、黄金色の香茶が彼の体内に流れ込んでいく。


沈黙が落ちた。

数秒後。

窓ガラスを覆っていた黒い霜が、春の陽射しに炙られたように一瞬にして溶け落ちた。

ガーディアの首筋を這い回っていた漆黒の血管が、引く波のようにスッと皮膚の下へと消えていく。部屋を圧迫していた瘴気が嘘のように霧散し、暖炉の火の温もりが、本来の温度を取り戻す。


ガーディアの体から、ふっと力が抜けた。

巨体が傾き、アルテの華奢な肩に重い頭がもたれかかる。

アルテはカップを絨毯に置き、男の重みをその小さな体で受け止めた。彼の吐息が、アルテの首筋に熱く当たる。荒々しかった呼吸は、今は嘘のように穏やかで、深い規則性を持っていた。


ゆっくりと、ガーディアが顔を上げる。

至近距離で交わる視線。

先ほどまでの殺気を帯びた狂乱は消え失せている。真紅の瞳はひどく微睡んだように潤み、その奥には、これまで誰にも見せたことのない無防備な疲労と、圧倒的な安堵が揺蕩っていた。


「……お前が、やったのか」


掠れた、ひどく甘い低音だった。

アルテは無言のまま、彼の乱れた銀の髪にそっと触れた。指先に絡みつく柔らかい髪の感触が、彼女の胸の奥底で長年凍りついていた何かを、静かに溶かしていく。

不要だと言われ続けた自分の手が、今、国で最も恐れられる男の苦痛を取り除いている。その事実が、アルテの指先の微かな震えをピタリと止めた。


ガーディアの大きな手が、アルテの背中に回された。

最初は探るように、そして次には、決して逃がさないと誓うかのように、万力のような力で彼女をきつく、きつく抱き寄せる。

アルテのドレスを掴む彼の指の関節が白く浮き上がる。絶対的な権力と暴力の象徴である男が、まるで親鳥の温もりを求める雛のように、アルテの肩口に顔を埋め、深く、重い息を吐き出した。


冷酷な支配者の、あまりにも脆く、幼いほどの執着。

アルテの首筋に落ちた彼の吐息の熱さは、窓の外の極寒の景色とは対照的に、いつまでも消えることはなかった。

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