第1話:裏切りの雨と、黒き死神の微熱
無数の蝋燭がシャンデリアのクリスタルに乱反射し、視界を焼き尽くすほどの黄金の光を王宮の夜会に降り注いでいた。
弦楽器が奏でる優雅なワルツの旋律と、何百種類もの香水が混ざり合った甘くむせ返るような空気が、突然、鋭い刃物で断ち切られたように止まる。
「アルテ。貴様との婚約は、今この瞬間をもって破棄する」
大理石の床に反響したその声は、驚くほどよく通った。
ホールの中央。王家の紋章が刺繍された真紅の絨毯の上で、王太子は冷ややかな見下ろすような視線をアルテに向けていた。彼の腕には、白百合のように儚げな純白のドレスを纏った義妹、セリアがすがりついている。
「お姉様……ごめんなさい。私が至らないばかりに、殿下を煩わせてしまって……」
セリアの震える声が静寂に落ちる。彼女の目元には薄い涙の膜が張っていたが、アルテの位置からしか見えないその口角は、扇の陰で微かに、しかし確実に釣り上がっていた。
周囲を取り囲む貴族たちのひそやかな囁きが、さざ波のように広がる。扇で口元を隠し、あるいは露骨な冷笑を浮かべ、彼らは一斉にアルテという存在を切り離しにかかっていた。
アルテは、銀糸を編み込んだ自らのドレスの裾が、少しだけ重く感じられるのを自覚した。
瞬きを一つする。王太子の袖口に施された金糸の刺繍が目に入る。それは、彼が先月の隣国との会談で着用していたものと同じだった。あの会談の三日前、王太子は原因不明の倦怠感でベッドから起き上がることすらできなかった。アルテは自室の地下に籠り、古文書をめくり、指先を火傷で爛れさせながら、夜明けまで乳鉢を挽き続けた。
三百年前に失われたとされる魔導薬膳。白夜草の根と、魔力を帯びた竜胆の種をすり潰し、微量の魔力を流し込みながら抽出した澄んだ琥珀色の茶。それを「王室特製の滋養薬」と偽って飲ませ、王太子の顔色に赤みが戻ったのを確認してから、彼女はこっそりと自室に戻り、泥のように眠った。
セリアの白く透き通るような肌も、彼女から放たれる「聖女」としての清らかな波動も同じだった。
月に一度、アルテが調合する星屑花の丸薬と、特別な香木を焚き染めた蒸気浴がなければ、セリアの魔力は濁り、肌は枯れ葉のようにくすむはずだった。アルテの指先には、今でも強い薬草の匂いと、小刀で刻んだ細かい傷跡が染み付いている。
「この期に及んで申し開きもないか。魔力を持たぬ無能な公爵令嬢よ。裏でセリアの聖女としての活動を妨害していたこと、すでに調べはついている。ただちにこの場から立ち去れ。二度と私の視界に入るな」
王太子が手を軽く振るうと、待機していた近衛兵たちが重い足音を立ててアルテの両脇を固めた。
アルテは、言葉を発しなかった。
喉の奥がカラカラに乾き、舌が上顎に張り付いている。弁明の言葉を紡ごうとしても、肺に空気が入ってこない。ただ、王太子とセリアの足元に落ちる濃い影だけが、異様に鮮明に瞳に焼き付いていた。
装飾的な鉄格子が、背後で重々しい金属音を立てて閉ざされた。
豪雨だった。
王宮の勝手口から裏路地へと突き飛ばされたアルテの体は、濡れた石畳の上に無防備に投げ出された。掌が泥と擦れ、鈍い痛みが走る。
頭上から叩きつける冷たい雨粒は、アルテが纏っていた夜会用のドレスを一瞬にして重い枷に変えた。銀糸の刺繍は泥水を含んで濁り、綺麗に結い上げられていた髪は水分で重く垂れ下がり、首筋に冷たく張り付いている。
吐き出す息は白く、周囲には生ゴミと雨水が混ざったような淀んだ匂いが立ち込めていた。
どこかで野犬が吠える音がする。
アルテは膝を抱え、石畳の冷たさがドレスの薄い布地を通して皮膚の奥、骨の髄まで浸透していくのを感じていた。
何年もの間、睡眠時間を削り、指先を血で染めながら調合し続けた日々。誰にも知られることなく、誰からの感謝を求めず、ただ実家の公爵家と、国を背負う王太子のために尽くしてきた。
そのすべての時間が、濁流のような雨水に混ざって、排水溝へと流れ落ちていく。視界が徐々に狭まり、雨音以外の音が耳から遠ざかっていく。
凍えるような冷たさの中で、アルテの体は小刻みな震えを止めることができなくなっていた。世界から完全に切り離された、という事実だけが、冷たい泥となって彼女の足元に広がっている。
その時だった。
頬を叩いていた激しい雨粒が、ふつりと消えた。
雨が止んだわけではない。視界の端では、相変わらず灰色の水柱が石畳を叩きつけている。しかし、アルテの頭上だけ、まるで目に見えない巨大な天蓋が覆い被さったように、水滴が空中で静止していた。
不自然なほど、気温が急激に下がった。
雨の匂いが消え、代わりに鋭いオゾンの匂いと、古い血、そして凍てつくような夜の冷気が混ざった特異な香りが鼻腔を突く。
チャプ、という重い水音がした。
アルテがゆっくりと視線を上げると、泥水の中に、漆黒の革靴が立っていた。
そこから見上げるほどの長躯。光をすべて吸い込むような、底知れぬ漆黒の外套。
豪雨の裏路地という空間において、その男の存在はあまりにも異質だった。周囲の雨粒は、男から放たれる圧倒的な魔力の圧力に耐えきれず、男に触れる前に空中で凍りつき、パラパラと氷の粒となって砕け散っている。
「……こんな所で、何を震えている」
地鳴りのように低く、鼓膜の奥を直接震わせるような声だった。
男の顔は、夜の闇と外套のフードに隠れてよく見えない。しかし、その奥底で獲物を値踏みするように光る、氷のように冷たく、けれど奥底に昏い熱を孕んだ真紅の双眸だけが、アルテを真っ直ぐに射抜いていた。
王太子が放っていたような、薄っぺらな権力の威圧ではない。数多の命を刈り取り、血の海を歩んできた者だけが持つ、絶対的な「死」の気配。グランジット王国最強にして最大の禁忌、「狂血の魔王」と恐れられる辺境伯、ガーディア・フォン・ルヴェリア。
アルテは息を呑んだ。恐怖からではない。彼の周囲を取り巻く、目に見えないほどの濃密な呪いの気配。それはアルテが長年触れてきたどの毒薬よりも禍々しく、そして、どこか悲痛な振動を伴っていたからだ。
ガーディアは無言のまま、ゆっくりと片膝をついた。
泥水が彼の漆黒の外套の裾を汚すことも厭わず、アルテの目の前へと顔を近づける。真紅の瞳が、泥にまみれ、小刻みに震えながらも、決して目を逸らそうとしないアルテの双眸を覗き込む。
彼の大きな手が伸びてきた。
死神の鎌のようなその手が、アルテの首を絞めるのかと思った次の瞬間。
バサリ、と重く温かいものが、アルテの華奢な肩を包み込んだ。
男が纏っていた、分厚い黒の外套だった。微かに残る血の匂いと、凍えるような外気とは裏腹な、男自身の強烈な体温が内側にこもっている。
寒さで強張っていたアルテの体が、その不器用で暴力的なまでの温熱に包まれ、わずかに力が抜ける。
ガーディアは、凍りついた雨粒が散る夜の闇の中で、血の通わない彫刻のような冷たい美貌を微かに歪ませた。
「拾ってやる」
一切の拒否を許さない、絶対者の響きだった。
革手袋に包まれた指先が、アルテの泥に汚れた頬を、ひどく壊れ物を扱うかのように、そっと撫でる。
「お前は今日から、俺の所有物になれ」
暗い路地裏。凍りつく雨。全身を包み込む男の熱と、有無を言わさぬ宣言。
アルテの瞳孔に、自分を覗き込む真紅の瞳だけが、ただ鮮烈に焼き付いていた。










