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『お転婆おイネの幕末カルテ』 ~シーボルトの娘に転生したけれど、現代医学のほうが効きますが何か?~  作者: 楠木 悠衣


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第4話 黒き船の影

なるべく描写を減らしてみたのですが、葛藤を描いた結果、5000文字になっています。

お時間がある際にでも読んでいただければ幸いです。

黒船が来た。


その報せは海よりも早く、人の口から卯之町へ流れ込んできた。


「異国の大船じゃと」


「煙を吐いて走るらしいぞ」


「江戸の沖が真っ黒になったそうじゃ」


朝市はその話で持ちきりだった。


魚屋の親父が言えば、豆腐屋が頷き、隣の婆さまが「世も末じゃ」と念仏のように呟く。


わたしは大根を抱えたまま立ち止まった。


来たか。


とうとう。


歴史が。


嘉永六年。


ペリー来航。


教科書の中にあった出来事が、今この国で起きている。


胃の奥が重くなった。


黒船そのものは怖くない。


怖いのは、その先だ。


人が動く。


物が動く。


金が動く。


そして病が動く。


感染症はいつだって人の流れに乗る。


現代でも。


幕末でも。


それは変わらない。


「おイネ」


声がした。


振り向く。


蔵六だった。


相変わらず音もなく現れる。


猫なのかこの人は。


「顔が怖いぞ」


「先生ほどじゃありません」


「そうか」


そうかじゃない。


少しは否定してほしい。


この人と話していると、自分が十四歳なのを忘れそうになる。


医学所へ戻ったのは昼前だった。


その時だった。


土間へ男が転がり込んできた。


「先生ぇ……!」


四十を少し過ぎた漁師だった。


顔は土気色。


額には脂汗。


身体をくの字に折り曲げている。


「腹が……!」


敬作先生が立ち上がる。


わたしも駆け寄った。


「どこです」


「右だ……」


「いつから」


「昼過ぎ……」


「吐いた?」


「三度……」


「下痢は」


「ねえ……」


しゃがみ込む。


見る。


触る。


考える。


救急外来で何千回も繰り返した順番だった。


右下腹部。


強い圧痛。


押す。


男が呻く。


離す。


悲鳴。


反跳痛。


筋性防御。


腹膜刺激症状。


頭の中で警報が鳴った。


典型的だった。


あまりにも典型的だった。


虫垂炎。


しかも進行している。


下手をすれば穿孔寸前。


現代なら迷わない。


採血。


CT。


抗菌薬。


外科コンサルト。


緊急手術。


それで終わりだ。


だが。


ここは嘉永六年だった。


CTどころか電気もない。


わたしは拳を握った。


夕方。


患者の家族が集められた。


妻。


老いた母。


弟。


そして幼い子供が三人。


末の娘は父親の袖を握って泣いていた。


その姿を見た瞬間。


嫌な予感がした。


「先生」


妻が言う。


「助かりますよね」


わたしは一瞬だけ言葉に詰まった。


敬作先生がこちらを見る。


答えろ。


そういう目だった。


医者として。


わたしは口を開く。


「助かる可能性はあります」


家族の顔が明るくなる。


だが。


次の言葉で凍り付いた。


「腹を開けば」


沈黙。


誰も意味が分からなかった。


理解した瞬間。


部屋が騒然となった。


「腹を開く?」


「生きたままか?」


「正気か!」


怒号が飛ぶ。


当然だった。


江戸時代の人間にとって。


腹を切るとは死ぬことだ。


生きるためではない。


「切らなければ助かりません」


わたしは言った。


「切っても死ぬではないか!」


弟が怒鳴る。


「可能性はあります」


「可能性だろう!」


返せなかった。


その通りだからだ。


ここは現代ではない。


麻酔もない。


抗菌薬もない。


輸血もない。


百パーセント助かる保証などどこにもない。


今まで黙っていた母親が口を開いた。


皺だらけの手が震えていた。


「先生」


小さな声だった。


だが重かった。


「息子は漁に出ねばならぬ」


誰も口を挟まない。


「この子らを食わせるのはあの子じゃ」


孫たちを見る。


「腹を裂かれて死んだら」


声が詰まった。


「この子らはどうなる」


部屋が静まり返る。


反論できなかった。


無知だからではない。


愛情だった。


責任だった。


家族を守ろうとする言葉だった。


だからこそ苦しい。


弟が続ける。


「先生方は立派な方だ」


拳を握る。


「だが兄貴が死んでも先生方は生きていける」


空気が重くなる。


「俺たちは違う」


震える声。


「兄貴が死ねば終わりなんだ」


その言葉は。


わたしの胸に深く突き刺さった。


正しい。


全部正しい。


家族には生活がある。


明日の飯がある。


子供たちの未来がある。


病気だけ見ていていいわけじゃない。


そんなことは救急医だった頃から知っている。


知っているのに。


悔しかった。


現代なら助かる。


本当に。


助かるのだ。


救急車が来る。


採血をする。


CTを撮る。


外科を呼ぶ。


抗菌薬を入れる。


手術室へ運ぶ。


たったそれだけ。


三十分。


いや。


一時間もあれば十分だった。


何百人も見た。


何千人も見た。


若者も。


老人も。


漁師も。


会社員も。


学生も。


みんな助かった。


なのに。


わたしは目の前のたった一人を救うことさえできない。


知識はある。


診断もできる。


治療法も知っている。


それなのに。


手が届かない。


医者になって初めて味わう無力感だった。


患者が助からないことはあった。


救急医だから当然だ。


死は何度も見た。


だが。


それは全力を尽くした後だった。


今は違う。


助ける方法を知っている。


それなのに。


時代が邪魔をする。


百七十年。


たったそれだけの差が。


こんなにも大きい。


わたしは拳を握った。


爪が掌に食い込む。


絶対に助けたい。


それは医者としての意地だった。


夜。


医学所は静まり返っていた。


蝋燭の火が揺れている。


外では虫の声が絶え間なく続いていた。


わたしは薬研の前に座ったまま動けなかった。


薬を挽く音だけが響く。


ぐるり。


ぐるり。


ぐるり。


頭の中では別の音が鳴っていた。


モニターのアラーム。


救急車のサイレン。


ストレッチャーの車輪。


もう二度と聞けない音。


帰れない場所。


胸の奥が痛んだ。


「負けた顔をしているな」


声がした。


振り向かなくても分かる。


蔵六だった。


縁側に腰を下ろしている。


月を見ていた。


わたしは苦笑した。


「負けました」


「そうか」


「そうですよ」


思わず棘のある声になる。


蔵六は気にした様子もなかった。


「正しい治療なのに」


ぽつりと漏れる。


「助かる病気なのに」


蔵六は黙っていた。


しばらくして。


「お前は病を見ている」


と言った。


わたしは顔を上げる。


「家族は人を見ている」


風が吹いた。


庭の木々が揺れる。


「どちらも間違っておらん」


静かな声だった。


責めるでもなく。


慰めるでもなく。


ただ事実を置くような声。


わたしは黙った。


悔しかった。


だが。


その通りだった。


その時。


自分でも驚くほど弱い声が出た。


「先生」


「なんだ」


「助かるんです」


蔵六がこちらを見る。


わたしは続けた。


「本当に助かるんです」


喉が詰まる。


「わたしの知る限り」


危うく口を滑らせそうになる。


慌てて言葉を飲み込んだ。


「こんな病気で死ぬ人はほとんどいません」


蔵六の目が細くなる。


「そんなにか」


「はい」


即答だった。


「診断できれば」


「切れば」


「ちゃんと治療すれば」


そこまで言って。


言葉が途切れる。


蔵六は黙って聞いていた。


わたしも黙った。


しばらくして。


ようやく絞り出す。


「だから」


声が震えた。


「死なせたくないんです」


月明かりが滲んだ。


泣くつもりはなかった。


だが。


視界が少しだけぼやけた。


蔵六は何も言わない。


慰めもしない。


ただ考えている。


いつものように。


蛇が獲物を見定めるみたいに。


長い沈黙のあと。


ぽつりと呟いた。


「外れたらどうなる」


わたしは答える。


「死にます」


「当たれば」


「助かります」


蔵六は鼻を鳴らした。


「なら試す価値はあるな」


それだけだった。


信じるとも言わない。


励ましもしない。


だが。


その一言が不思議と心に残った。


学者らしい。


この人らしい。


そして。


少しだけ救われた気がした。


その時だった。


奥の部屋から物音がした。


誰かが起き上がる気配。


慌てて立ち上がる。


患者だった。


漁師の男が布団の上で身体を起こしている。


顔は真っ青だった。


額から汗が流れている。


呼吸も浅い。


明らかに無理をしていた。


「寝てください!」


わたしが駆け寄る。


だが男は首を振った。


「話は聞いた」


かすれた声だった。


家族も集まってくる。


妻。


母。


弟。


全員が息を呑む。


男は苦しそうに呼吸を整えた。


そして。


わたしを見た。


真っ直ぐに。


逃げ場のない目だった。


「先生」


「はい」


「切るんだな」


部屋が静まり返る。


誰も口を開かない。


妻が小さく嗚咽した。


母親は首を振っている。


弟は拳を握り締めていた。


男はゆっくり息を吐く。


痛みで顔を歪めながら。


それでも。


小さく笑った。


「俺ぁ海の人間だ」


誰も動かない。


「嵐の日も船を出した」


苦しそうに言葉を続ける。


「魚が獲れねえ日にゃ」


「家族が腹を空かせる」


妻が泣き始めた。


男はそれを見て。


少しだけ困ったように笑った。


「賭けだって分かる」


わたしを見る。


「切っても死ぬかもしれねえ」


沈黙。


「だが」


その一言で。


部屋の空気が変わった。


「このまま死ぬのは嫌だ」


誰も声を出せなかった。


男は子供たちを見る。


長男。


次男。


末の娘。


一人ひとり。


目に焼き付けるように。


「まだ」


掠れた声。


「やることがある」


妻が泣き崩れた。


母親も顔を覆う。


弟は俯いたままだった。


男は最後に。


わたしを見た。


医者を見る目だった。


命を預ける人間の目だった。


「先生」


わたしの喉が詰まる。


「切ってくれ」


音が消えた。


虫の声も。


風の音も。


何も聞こえない。


聞こえるのは心臓だけだった。


どくん。


どくん。


どくん。


患者本人の意思。


医者がどれほど説明しても。


家族がどれほど反対しても。


最後に決めるのは本人だ。


わたしは深く頭を下げた。


「必ず」


声が震える。


「必ず全力を尽くします」


男は笑った。


弱々しい。


それでも確かな笑みだった。


その時。


今まで黙っていた敬作先生が立ち上がった。


部屋中の視線が集まる。


先生は患者を見た。


家族を見た。


そして。


静かに言った。


「ならば」


誰も息をするのを忘れる。


「医者の仕事をしよう」


その言葉で。


すべてが決まった。


明日。


腹を開く。


この時代では誰もやったことのない挑戦。


成功する保証はない。


失敗すれば。


鬼医者の名は本当になる。


それでも。


進むしかない。


患者が望んだから。


医者が諦めないから。


わたしは拳を握った。


運命の夜が始まる。


そして。


夜明けは近い。

明日からは1話更新を予定しています。

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