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『お転婆おイネの幕末カルテ』 ~シーボルトの娘に転生したけれど、現代医学のほうが効きますが何か?~  作者: 楠木 悠衣


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第5話 腹を開く

夜が明ける前から。


わたしは眠れなかった。


蝋燭の火だけが揺れている。


窓の外はまだ暗い。


静かだった。


嫌になるほど静かだった。


わたしは両手を見つめた。


小さい手だった。


十四歳の少女の手。


救急医だった頃の手ではない。


何百人もの患者を診た手でもない。


何千人もの命に触れた手でもない。


ただの子供の手だった。


その手で。


今日は人の腹を開く。


震えが止まらなかった。


知識はある。


病気も分かる。


治療法も知っている。


解剖も知っている。


だが。


知っていることと。


できることは違う。


もし失敗したら。


男は死ぬ。


もし出血が止まらなければ。


男は死ぬ。


もし感染したら。


男は死ぬ。


そして。


それは病が殺すのではない。


わたしが殺す。


胃の奥がきりきりと痛んだ。


逃げたい。


正直に言えば。


逃げ出したかった。


その時。


障子が静かに開いた。


敬作先生だった。


何も言わず座る。


しばらく沈黙が続く。


やがて。


「怖いか」


と聞いた。


わたしは少し笑った。


笑えていたかどうかは分からない。


「はい」


正直に答える。


敬作先生は小さく頷いた。


「そうか」


それだけだった。


慰めもない。


励ましもない。


だが。


少しだけ楽になった。


怖いのは自分だけではない。


そんな気がした。


夜が明けた。


患者が運ばれてくる。


昨日より顔色が悪い。


腹は板みたいに硬い。


脂汗が止まらない。


時間がない。


穿孔が先か。


手術が先か。


紙一重だった。


家族も来ていた。


妻。


母親。


弟。


そして三人の子供たち。


誰も泣いていない。


昨日。


覚悟を決めたからだ。


患者がわたしを見る。


「先生」


「はい」


男は苦しそうに笑った。


「ひとつ頼みがある」


胸がざわつく。


嫌な予感がした。


こういう時の頼み事は。


たいてい遺言だ。


男は子供たちを見る。


長男。


次男。


末娘。


一人ずつ。


目に焼き付けるように。


「もし俺が死んだら」


妻が顔を上げる。


母親が息を呑む。


部屋が静まり返る。


男は続けた。


「子供らに海を嫌わせないでくれ」


誰も声を出さない。


「海は怖え」


男は弱く笑う。


「嵐の日は死ぬかと思う」


息を整える。


そして。


「だがな」


遠くを見るような目になった。


「海のおかげで俺たちは生きてきた」


長男の頭を撫でる。


「親父は海に殺されたって思わせたくねえ」


胸が締め付けられた。


絶対に失敗できない。


そんな重さが肩に乗る。


「分かりました」


それしか言えなかった。


男は安心したように目を閉じた。


手術が始まる。


酒。


阿片。


出来る限りの鎮痛。


だが足りない。


患者は意識を保ったままだった。


布を噛む。


汗が流れる。


わたしは井戸水と焼酎で何度も手を洗った。


皮膚が赤くなるほど。


現代なら。


滅菌手袋がある。


消毒液がある。


無影灯がある。


ここには何もない。


何も。


それでもやるしかない。


わたしは深呼吸した。


一回。


二回。


三回。


そして。


メスを握る。


「始めます」


誰も答えない。


切開。


男が悲鳴を上げた。


妻が顔を背ける。


母親が念仏を唱える。


弟が拳を握り締める。


血が滲む。


思ったより多い。


心臓が速くなる。


焦るな。


焦るな。


自分に言い聞かせる。


だが。


虫垂が見つからない。


見つからない。


見つからない。


汗が目に入る。


蝋燭の光が揺れる。


視界が滲む。


まずい。


本当にまずい。


その時だった。


「閉じろ」


蔵六が言った。


部屋が静まる。


「出血が増えている」


冷静な声だった。


「このままでは死ぬ」


敬作先生も黙っている。


否定しない。


つまり。


同じことを考えている。


頭が真っ白になった。


ここで閉じれば。


患者は助からない。


続ければ。


手術死するかもしれない。


今。


決めなければならない。


蔵六が聞く。


「根拠は」


蛇みたいな目だった。


「まだ続ける根拠はあるのか」


唇を噛む。


ある。


本当はある。


だが説明できない。


未来の知識だから。


「どこにある」


わたしは答えた。


「わたしの頭の中です」


沈黙。


数秒。


永遠みたいに長かった。


やがて。


蔵六が鼻を鳴らす。


「変な答えだ」


そして一歩下がった。


「なら証明してみろ」


胸の奥で何かが燃えた。


もう一度傷を見る。


血を拭く。


腸を辿る。


焦るな。


探せ。


考えろ。


救急医だろ。


そこで。


見つけた。


紫色に腫れ上がった虫垂。


今にも破れそうだった。


「ありました!」


思わず叫ぶ。


だが。


その瞬間だった。


ぷつり。


小さな音だった。


あまりにも小さい。


だが。


わたしはその音を知っていた。


全身から血の気が引く。


虫垂の先端が裂けた。


黄色い膿が滲み出る。


時間が止まった。


穿孔。


頭の中で言葉が響く。


虫垂穿孔。


最悪の事態だった。


現代なら。


抗菌薬を投与する。


大量輸液を流す。


腹腔を洗浄する。


必要なら集中治療室へ送る。


だが。


ここにはない。


抗菌薬も。


点滴も。


ICUも。


何もない。


何も。


本当に何もない。


漏れた膿が腹の中へ広がる。


その光景が。


わたしには死神が歩き出したように見えた。


「おイネ!」


敬作先生の声。


はっと我に返る。


まだ終わっていない。


患者は生きている。


今ここで諦めたら終わりだ。


「洗います!」


声が裏返る。


腹腔を洗う。


何度も。


何度も。


何度も。


足りない。


全然足りない。


知っている。


こんな程度では足りないことを。


それでも。


手を止めるわけにはいかなかった。


長い時間だった。


永遠みたいに長かった。


やがて。


最後の縫合が終わる。


針を置く。


誰も動かない。


患者を見る。


呼吸している。


生きている。


妻が泣いた。


母親も泣いた。


弟も顔を覆った。


助かった。


誰もがそう思った。


その時だった。


患者が薄く目を開ける。


まだ意識が残っていた。


男は弱々しく笑った。


「先生」


「はい」


「海を嫌わせるなよ」


かすれた声だった。


それでも。


不思議なほどはっきり聞こえた。


「約束だ」


わたしは頷く。


声が出なかった。


男は満足そうに目を閉じた。


静かに。


眠るように。


部屋の空気が緩む。


誰もが安堵していた。


だが。


わたしだけは笑えなかった。


患者の額に触れる。


熱い。


嫌な熱だった。


脈を測る。


速い。


速すぎる。


傷口の周囲も赤い。


胃の奥が冷たくなる。


蔵六が気付く。


「どうした」


答えられない。


医者なのに。


何も言えなかった。


窓の外では夕暮れが始まっていた。


赤い光が障子を染める。


妻が濡れた手拭いで患者の額を拭く。


何度も。


何度も。


熱を追い出そうとするみたいに。


その手が震えていた。


小さな娘が母親の袖を握っている。


何も分かっていない顔だった。


ただ。


父親のそばにいたかっただけなのだろう。


わたしはその光景を見つめた。


何も言えなかった。


言葉が見つからなかった。


障子の向こうで。


日が沈んでいく。


赤い光が少しずつ薄れていく。


その中で。


患者の額に浮いた汗だけが。


妙に光って見えた。


そして。


その汗を拭う妻の手は。


最後まで震え続けていた。

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