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『お転婆おイネの幕末カルテ』 ~シーボルトの娘に転生したけれど、現代医学のほうが効きますが何か?~  作者: 楠木 悠衣


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第3話 甘い息の少女

人は、自分が無力だと知ったときほど、頭が回る。


少なくとも、わたしはそうだった。


少女の寝息を聞きながら、わたしは土間にしゃがみ込み、ひたすら考えていた。


考える。


考える。


考える。


救急医とは、そういう生き物だ。


手がない。


薬がない。


設備もない。


だったら残っている材料で組み立てる。


それが救命だ。


「おイネ」


敬作先生が声を掛けた。


「顔色が悪いぞ」


「先生」


わたしは顔を上げた。


「この子はこのままでは死んでしまいます」


敬作先生の眉がぴくりと動く。


普通なら叱られる言葉だった。


患者の家族がいる場所で言えばなおさら。


だが今は違う。


土間にはわたしたちしかいない。


「理由を聞こう」


「身体が飢えています」


「飢え?」


「食べているのにか」


先生は黙った。


わたしは続ける。


「身体の中に、食べ物を身体へ取り込む仕組みがあるのです」


「ほう」


「それが壊れているのです」


もちろんインスリンなんて説明できない。


膵臓もランゲルハンス島も、この時代には存在しない概念だ。


だから言葉を選ぶ。


「蔵に米を運ぶ荷車があるとします」


「うむ」


「この子は米を持っています」


「うむ」


「けれど荷車が壊れている」


敬作先生が目を細めた。


「つまり」


「蔵は空っぽのままです」


沈黙。


そして。


「なるほど」


理解した。


やはり頭が良い。


だから敬作先生は好きだ。


話が早い。


「蔵が空っぽなので身体は飢えます」


「ゆえに痩せる」


「はい」


「それでいて食う」


「はい」


「水を飲む」


「はい」


「すると、小便が増える」


「はい」


先生は腕を組んだ。


「ならば治療は」


わたしは口を閉じた。


それが問題だった。


治療。


それがない。


インスリンがない。


点滴もない。


血糖測定器もない。


何より――ここは二十一世紀ではない。


先生は察したらしい。


「無いのか」


「……治療方法がありません」


初めてだった。


転生してから。


初めて。


現代知識では答えを出せない。


そのときだった。


背後から声がした。


「本当にそうか」


蔵六である。


いつからいた。


本当にこの男は足音がしない。


忍者か。


「盗み聞きは趣味ですか」


「学問だ」


真顔だった。


腹が立つ。


「知識とは、人の会話の中に落ちている」


「嫌な人ですね」


「よく言われる」


少しも堪えていない。


この人、将来絶対出世する。


人の神経を逆撫でする才能がある。


少女の名は、お咲といった。


十三歳。


半年前から痩せ始めた。


よく食べる。


よく飲む。


夜中に何度も厠へ行く。


狐憑きと呼ばれた理由は、その後だった。


突然倒れる。


痙攣する。


意識を失う。


目を覚ますと支離滅裂なことを言う。


村人は恐れた。


寺を呼んだ。


祈祷師を呼んだ。


それでも解決しなかったので、この娘には狐が憑いた。


そう結論付けた。


ありがちな話だ。


病気は昔からいた。


診断名だけが違う。


「お母さん」


わたしは尋ねた。


「最近、お咲ちゃんは何を食べていますか」


母親が答える。


「米を……」


「ほかは」


「米です」


嫌な予感。


「麦は」


「贅沢です」


「豆は」


「少し」


「魚は」


「月に一度ほど」


わたしは天を仰いだ。


ほぼ白米だけ。


栄養学の教科書なら赤ペンで全部丸を付けられる。


いや違う。


全部バツだ。


この時代では当たり前だが。


「先生」


「分かっている」


敬作先生が頷く。


「食を変える」


「はい」


「まずはそこからです」


夕方。


わたしは庭先に座っていた。


風が涼しい。


稲穂が揺れている。


嘉永三年。


黒船すらまだ来ていない。


世界は静かだった。


静かすぎるほど。


「悩んでいるな」


蔵六が隣に座った。


勝手に。


本当に勝手に。


「ええ」


「救えぬか」


「分かりません」


珍しく素直に答えた。


蔵六は少し黙った。


それから言った。


「不思議な娘だ」


「そうですか」


「昨夜の童は助けた」


「運が良かっただけです」


「だが今日は救えぬと言う」


わたしは笑った。


苦笑だった。


「神ではありませんから」


「ふむ」


「ですが、医者です」


蔵六はしばらく空を見ていた。


やがてぽつりと言った。


「わしは兵学を学んでいる」


「知っています」


未来の軍神だ。


知りすぎるほど。


「兵法にも勝てぬ戦はある」


「はい」


「だが」


視線がこちらを向く。


蛇の目。


冷たいのに。


不思議と嫌ではない。


「勝てぬから戦わぬ者は兵ではない」


その言葉に。


少しだけ胸が痛んだ。


現代でも聞いた。


救急科部長がよく言っていた。


助からない患者はいる。


だが。


助からないと決まるまでは助からない患者ではない。


戦え。


最後まで。


そういう人だった。


もう会えないけれど。


「……そうですね」


わたしは立ち上がった。


「まだ死んでいませんし」


「うむ」


「戦いますか」


「うむ」


まるで戦場へ行くみたいな会話だった。


医療は戦争じゃない。


そう言う人もいる。


だが。


実際の救急はだいたい毎日戦争だ。


その夜。


お咲が再び発作を起こした。


身体が震える。


呼吸が荒い。


汗が滲む。


そして。


あの臭い。


果実が腐ったような甘い臭い。


ケトン臭。


間違いない。


「水を」


わたしは叫んだ。


「水を持ってきてください!」


家族が駆ける。


桶が運ばれる。


お咲の唇を湿らせる。


少しずつ飲ませる。


少しずつ。


少しずつ。


現代なら点滴。


大量輸液。


インスリン。


電解質補正。


血液ガス分析。


だが今は違う。


口から入れるしかない。


それしかない。


「頼む」


気付けば声が漏れていた。


「まだ死ぬな」


医者は祈らない。


そう言われる。


嘘だ。


祈る。


どうしようもない時ほど。


誰より祈る。


夜明け。


障子の隙間から光が差した。


わたしは机に突っ伏していた。


いつの間にか寝ていたらしい。


まずい。


患者。


飛び起きる。


奥の間へ走る。


布団。


少女。


そして。


お咲が。


こちらを見ていた。


「……先生」


かすれた声だった。


けれど。


意識がある。


笑っている。


生きている。


わたしは一瞬動けなかった。


助かった。


まだ。


助かった。


完全ではない。


治ったわけでもない。


だが。


生きている。


それだけで十分だった。


「お腹……空いた」


お咲が言った。


わたしは吹き出した。


心底安心したとき、人は笑う。


「そう」


「はい」


「じゃあ食べましょう」


「狐じゃなかった?」


「違います」


「残念」


「残念じゃありません」


お咲はくすくす笑った。


十三歳の普通の女の子の笑い方だった。


わたしはその顔を見て思う。


病気は人を奪う。


名前も。


人生も。


未来も。


けれど。


医者の仕事は病気と戦うことじゃない。


人を取り返すことだ。


そう。


現代で教わった。


大事なことだ。


その日の帰り道。


蔵六がぽつりと言った。


「狐は居なかったな」


「いましたよ」


「ほう」


「人の頭の中に」


蔵六が少しだけ笑った。


初めて見た。


本当に少しだけだったが。


確かに笑った。


そして言う。


「お前は面白い」


「それ、褒めていますか」


「最大限にな」


わたしは肩をすくめた。


面倒な男だ。


だが。


少しだけ分かってきた。


この男もまた。


わたしと同じなのだ。


答えを探している。


時代より先の答えを。


空の向こうで。


朝日が昇る。


そしてそのずっと西。


海の向こうでは。


まだ誰も知らない大きな変化が始まろうとしていた。


蒸気船。


大砲。


開国。


コレラ。


そして黒船。


歴史の濁流は。


もうすぐそこまで来ていた。

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