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『お転婆おイネの幕末カルテ』 ~シーボルトの娘に転生したけれど、現代医学のほうが効きますが何か?~  作者: 楠木 悠衣


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第2話 狐憑きの娘

夜明け前の空は、まだ群青だった。


庄屋屋敷の縁側に腰を下ろしたまま、わたしは冷えた番茶をすすった。


まずい。


いや、正確にはまずくない。


ただ、救急外来の自販機で買う缶コーヒーのほうが百倍うまい。


「妙な顔をするな」


向かいから声が飛んできた。


村田蔵六である。


夜通し帰らなかったらしい。


暇なのか、この男。


いや違う。


観察しているのだ。


わたしを。


蛇が獲物を見つめるみたいに。


「お顔に出ていましたか」


「出ている」


即答だった。


腹が立つ。


十四歳の少女の身体だと、こういう無表情系の男に妙にペースを握られる。


現代なら絶対に仲良くならないタイプだ。


救急科にはいない。


だいたい脳外科か病理だ。


人の心より検体のほうに興味がある類。


そんな印象だった。


「さて」


蔵六が湯呑を置く。


「昨夜の続きだ」


来た。


わたしは内心で肩をすくめた。


医者という生き物は時代が違っても変わらない。


気になることがあると寝ない。


「土が毒を吐く根拠」


「ええ」


「述べよ」


本当に面倒くさいな、この人。


わたしは番茶を飲み干した。


それから言った。


「では逆にお聞きします」


「なんだ」


「天然痘は、なぜうつるのです」


蔵六の眉が僅かに動く。


「接触」


「なにが接触するのです」


沈黙。


わたしは続けた。


「疱瘡神ではありませんよね」


「無論だ」


「ならば何です」


答えはない。


当然だ。


ウイルスも細菌も、まだ誰も見たことがない。


顕微鏡はある。


だが病原体理論は未完成だ。


パスツールが活躍するのはまだ先。


コッホもまだ少年ですらない。


「見えないだけで、病を起こすものはいる」


わたしは言った。


「天然痘にも、梅毒にも、そして昨夜の病にも」


蔵六は黙ったまま聞いていた。


否定しない。


それだけで分かる。


この男は賢い。


自分が知らないことを認められる。


それが出来る学者は少ない。


「面白い」


ぽつりと言った。


「お前の話は、未来の学問を聞いているようだ」


心臓が跳ねた。


一瞬だけ。


だが蔵六は気づいていない。


たぶん。


たぶん。


その日の昼だった。


医学所へ、一人の女が飛び込んできたのは。


「先生ぇ!」


土間に崩れ落ちる。


三十前後。


着物は乱れ、髪は解け、顔は涙だらけだった。


「娘を……娘を助けてください……!」


敬作先生が立ち上がる。


わたしも続く。


「どうしました」


「また始まったんです……!」


また。


その一言が気になった。


女は震えながら言った。


「狐が……狐が娘に憑いて……!」


ああ。


来た。


江戸の定番である。


狐憑き。


現代で言うなら精神疾患や神経疾患や中毒症状を全部ひっくるめた便利な診断名だ。


熱が出ても狐。


暴れても狐。


幻覚を見ても狐。


人格が変わっても狐。


便利すぎる。


便利な診断ほど危険だ。


現代医療でも同じである。


「ストレスですね」


「自律神経ですね」


「心因性ですね」


この三つで片付けた患者の中に、何人の重症患者が紛れていることか。


だから。


わたしは聞いた。


「お嬢さんは、おいくつです」


「十三で……」


「いつから」


「半年ほど前から……」


「どんな症状が」


女の顔が青ざめる。


「突然、人が変わるんです」


土間が静かになった。


「男のような声で話して……」


「ええ」


「知らないことを喋って……」


「はい」


「身体を折り曲げて……」


わたしは眉をひそめた。


折り曲げる?


「時には泡を吹いて……」


その瞬間。


頭の中で警鐘が鳴った。


てんかん。


あるいは。


別の神経疾患。


少なくとも狐ではない。


狐だったら脳波を持ってこい。


娘の家は卯之町の外れにあった。


着いた瞬間。


悲鳴が聞こえた。


「いやああああ!」


家の中。


少女が暴れていた。


身体を強張らせ。


手足を突っ張り。


口から泡を吹き。


周囲の大人が必死に押さえている。


わたしは叫んだ。


「押さえないで!」


全員が固まる。


「頭だけ守ってください!」


少女の身体が激しく震える。


眼球が上転している。


呼びかけへの反応なし。


典型的な全般性強直間代発作。


救急外来なら誰でも見る。


だが。


ここは江戸だ。


誰も知らない。


少女の祖父が震える声で言った。


「狐では……ないのか」


「違います」


わたしは即答した。


「脳の病です」


その瞬間。


背後から。


低い声が聞こえた。


「脳」


振り返る。


蔵六だった。


いつの間に来た。


本当に暇なのかこの男。


「脳が、人を狂わせると?」


「狂わせます」


「心ではなく」


「心も脳の仕事です」


蔵六の目が細くなる。


危ない。


今のは十九世紀に言う話じゃない。


でも止まらなかった。


救急医として。


患者を前にすると。


説明より先に診断が口をつく。


少女の痙攣が徐々に収まる。


呼吸が戻る。


意識はまだない。


発作後状態。


わたしは脈を測った。


その時だった。


ふと。


首筋に違和感を覚えた。


皮膚。


汗。


そして。


かすかな甘い臭い。


……待って。


甘い?


わたしは少女の口元に顔を近づけた。


果実が腐るような。


独特の匂い。


背筋が冷たくなる。


まさか。


いや。


でも。


あり得る。


この時代だからこそ。


あり得る。


わたしは少女の手を取った。


痩せている。


異常に。


そして。


ここ数か月で急激に痩せたのではないか。


そんな確信があった。


「お母さん」


女が振り向く。


「娘さん、最近よく水を飲みませんか」


「え……」


「小便が増えていませんか」


女の顔色が変わった。


当たった。


「どうして……」


わたしは答えなかった。


答える暇がなかった。


なぜなら。


わたしは今。


幕末の農村で。


本来なら発見されるはずのない病気を見つけてしまったからだ。


一型糖尿病。


そして。


糖尿病性ケトアシドーシス。


放置すれば、ほぼ確実に死ぬ。


だが。


問題はそこじゃない。


もっと大きな問題がある。


インスリンはまだ存在しない。


発見されるのは七十年以上先だ。


つまり——


現代知識を持つわたしですら。


救えない可能性がある。


少女の寝顔を見つめながら。


わたしは初めて、この時代の恐ろしさを知った。


破傷風は戦えた。


傷を洗えた。


痙攣を抑えられた。


だが。


病気によっては。


未来の医者ですら。


武器を持たない。


障子の外で風が鳴る。


その向こうで。


村田蔵六が言った。


「どうした」


わたしは答えなかった。


答えられなかった。


救急医になって十年。


何度も患者を失った。


だが。


それでも。


治療法を知りながら使えない絶望は。


初めてだった。

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