5. 蓋を押さえていたのは
十月一日の明け方、わたしはワサの家の土間にいた。
降りの日の朝である。空が白む前に降り口へ行かねばならないから、村じゅうが早く起きている。戸口の外で、誰かが手をこすり合わせる音がしている。
土間には灯心が一つ。壺が竈の脇に据えてある。汁を入れて、五つめの袋を沈めて、水を注いだところだ。最後の一つである。
昨日の晩から、村じゅうがこの朝を待っていた。山へ持っていく温かい汁。それが、この十日で村がいちばん楽しみにしていたものである。
ワサが蓋をのせ、縄をかける。
クヌが土間の隅で眠そうに立っていた。ハギは壺の横にしゃがみ、縄の結び目を見ている。
「縄が緩んでる」
「いいよ、山まで持たねえと困る」
「持たねえと困るから、締めるんだろ」
「じゃあ押さえとけ」
「押さえとく」
ハギが両手を蓋の上に置いた。土間の冷たい空気のなかで、壺のまわりだけが、ゆらりと温かい。
しゅう、と音がする。
その音が、だんだん高くなっていく。
湯気が、蓋と壺の隙間から、細く、鋭く出はじめた。白い筋が、灯心の火をまっすぐに横切っていく。
「ノカ姉、変な音」
「うん」
「これでいいの?」
わたしはそれを見ている。
見ていて、何も言わなかった。
なぜ言わなかったのかというと、その音を、わたしは知らなかったからだ。
湯気の筋が、灯心の火の向こうで、細く、まっすぐに立っている。きれいだと思った。それが、あの朝わたしが最後に思ったことだ。
知らない音は、正しい音か、間違った音か、わからない。知らないものを危ないと言うには、危ないと書いてある字を読めていなければならないのだ。
わたしは、読めていなかった。
読めない場所があることは知っている。そこに危ないことが書いてあるとは、思っていなかっただけだ。
◇
音が、消える。
消えた、と思った次の瞬間に、世界が白くなった。
破裂した音は、聞こえていない。あとから何度思い出そうとしても、そこだけ抜け落ちている。
気がつくと、土間に座りこんでいた。
顔の左半分が熱い。首に何かが垂れている。手で拭うと、汁である。
耳の奥で、細い音が鳴りつづけている。その音の向こうで、誰かが叫んでいるらしい。らしい、というのは、言葉として聞こえないからだ。
ハギが、いない。
いや、いる。竈の向こう側に、仰向けに倒れている。
わたしは這っていった。膝が滑る。破片を踏んでも痛くない。土間の土は汁を吸って黒くなり、そこらじゅうに壺のかけらが散っている。厚い底の破片が、竈の脇まで飛んでいた。
ハギの顔の左半分が、赤い。ちがう、赤いのではない。皮が白く浮いている。右のまぶたが切れ、血が耳のほうへ流れていく。
右腕は、肘から先が汁で濡れていた。
「ハギ」
返事がない。
「ハギ!」
ハギの唇が動く。何か言った。聞こえない。
「なに? もう一度」
音が遠い。ワサが叫んでいる。クヌが泣いている。人が土間に入ってくる。誰かがわたしを退け、水を運び、布を裂いていく。
わたしの指は、動かない。
◇
誰も、わたしを責めなかった。
それが、いちばんこたえる。責められたら、謝ることができる。謝れないまま、みんなの親切のなかに置き去りにされている。
ワサは自分の右手を焼いていて、それでも「おれが縛った」と繰り返している。ムメはハギの顔に布を当てながら、一度もわたしのほうを見なかった。見ないでいてくれたのだと思う。
わたしは土間の隅に座っている。誰かが何度も水を替えに出入りする。焼けた汁の匂いが、いつまでも消えない。ハギの息の音だけを、わたしは数えていた。
空が白む。窓の紙が、灰から薄い青に変わっていく。
降りの日の朝だ。誰かが行かなければ、降り物は台の上に残る。
誰も、降り口へ行かなかった。
わたしは一人で窪地へ下りる。歪みはもう終わっていて、台の上に箱が積まれている。霜の降りた岩の上で、茶色い箱だけが乾いて見える。
あとからタヅが来て、岩に刻みを一本入れる。三百八十八本目である。
「降ろすよ」
「開けないの?」
「開けない。台には置かない。それだけだ」
「置いたら、どうなるの?」
「持っていかれる。昔、そうだった」
タヅの声は低く、平たい。怖がっている声ではなかった。何十年も同じ話を、同じ抑揚で言い慣れてきた人の声である。
「持っていかれるって、どこへ?」
タヅは答えず、箱の一つを抱え上げて、寄せ場のほうへ歩いていく。背中が、いつもより丸く見えた。
「知らないよ。あたしは見ただけだ」
わたしたちは二人で、箱を一つずつ台から降ろし、寄せ場へ積む。誰も開けない箱を、掟どおりに降ろしていく。箱は冷たくて、角が指に食いこんだ。中身がなんであるかを、わたしは知らないままだ。
「ばあちゃん」
「なんだい」
「これ、開けないままだと、どうなるの?」
「置いとくだけさ。腐るものは腐る」
タヅは箱の一つに手を置き、雪をひとなでして落とす。
「もったいない」
「もったいないと思うなら、おまえが読めばいい」
開けなければ、これはただの茶色い塊である。開ければ、何かの役に立つ。役に立つかどうかを決めるのは、わたしの口だ。
日はもう高い。降ろし終えるころには、朝の霜が寄せ場の岩から消えていた。
最後の箱を置いたとき、クヌが窪地の縁に立っているのが見える。
目が真っ赤である。
「ノカ姉」
「クヌ」
「ノカ姉、あのふくろ」
「うん」
「あれ、なんて書いてあったの?」
◇
北倉第三保管所、業務記録。
十月一日。第三百八十八回。積載十九。投下、六時ちょうど。開放、十・七五。天候、霜。
所見。加熱袋については前回、添え書きを一枚入れてある。ふたはしないで、と書いた。そこだけ字を太くし、二度なぞって、強く書いてある。伝わったかどうかは分からない。分かったことは、十一年、一度もない。今朝の投下でも、台の上の荷が消えるまでの数を、いつもどおり測って記した。
応答なし。




