6. 絵じてんに、ない
三日、眠らなかった。
小屋に読み板を三枚とも運びこみ、床いっぱいに並べる。九年ぶんの札が、板の上で重なりあっている。膠の匂いがした。ずっと好きな匂いだったのに、いまは、嗅ぐと喉の奥が上がってくる。
外は雪になった。板戸の隙間から粉のような雪が入りこみ、床の上でしばらく形を保ってから消える。火は焚いていない。焚くと膠が緩むし、いまは寒さのほうが楽だ。
わたしはあの札を、もう一度読んだ。
水を入れると発熱します 火気厳禁 密閉した容器で使用してはいけません 高温の蒸気が出ます
拾えるのは、水、熱、火、入れる、出る。
飛ばしたのは、厳禁、密閉、容器、使用、蒸気。
そして――してはいけません。
わたしは絵じてんを開く。
最初の頁から、破れた巻末まで、一枚ずつめくっていった。
たべる。のむ。ねる。あるく。きる。あらう。
どこにも、たべない、が無い。
のまない、も、ねない、も無い。
「ない」という項が、この本には一つも載っていなかった。
考えてみれば、この本は語と絵をひとつずつ並べた表でしかない。りんごの絵に、りんご。火の絵に、火。ものの名を教える頁ばかりで、言葉のつなぎ方を教える頁が一枚もないのだ。
「ない」は、ものの名ではない。だから載っていない。
けれど札に書いてあるのは、たいてい、してはいけないことのほうである。
◇
板を、順に見ていく。
九年ぶんの札を、古いほうから。
三年目の春。粉の袋。誰かが腹をこわして三日寝こんだ回だ。
札の下のほうに、八つの字が並んでいる。
してはいけません。
五年目の夏。油の缶。灯りにくべたら火が跳ね、納屋の壁を焦がした回。
同じ八つの字が、ある。
七年目の冬。塗り薬。塗った者の肌が真っ赤になり、三日ひきつった回。
ある。
九年目。加熱袋。
ある。
わたしは板の前に座ったまま、動けなくなった。
この八つの字が載っている回に、必ず、誰かが痛い目に遭っている。
意味は、わからない。
どう読むのかも、わからない。
わかるのは、これが並んでいるとき人が危ないということ、それだけだ。
九年ぶんの札のうち、この八つの字が載っているものを数えた。
二十六枚である。
板をもう一度、はじめから見ていく。今度は札の字ではなく、手書きの紙のほうを数えた。
角ばった手が、二十二枚。やわらかい手が、三十六枚。
川の手のほうが、多い。
木の手を抜きはじめたのは、絵じてんが降ってきた年からだ。だから手元にあるのは、木の手の最後の五年ぶんでしかない。それでも、川の手はまだ四年しか経っていない。四年で、五年ぶんを追い越している。
この人は、前の人より、たくさん書いているのだ。
なぜ、そんなことを数えているのだろう。数えても、ハギの顔は戻らない。それでも指は止まらなかった。
「なにしてんだ?」
戸口にハギが立っている。顔の左に布を巻き、右の目にも布を当てていた。歩けるようになったらしい。
「……数えてた」
「なにを?」
「手を。書いた人の手を、二つに分けて数えてた」
「そんなの数えて、どうなる?」
「どうにもならない。ただ、数えてた」
二十六枚のうち、村で何かが起きたのは四回である。あとの二十二枚では、たまたま、何も起きなかっただけかもしれない。腹をこわさなかったのも、焦がさなかったのも、わたしが正しく訳したからではない。運が良かっただけだ。
そう思ったとき、はじめて手が震える。
九年、自分のことを、字が読める子だと思ってきた。村でただひとり読める子だと。
ほんとうは、読める字だけを読んで、読めない字を見なかった子である。
その二つは、まるでちがう。ちがうと分かるまでに、九年かかった。
◇
夜が明けてから、家へ戻る。
タヅが囲炉裏の前にいる。わたしの顔を見て、何も訊かない。
「ばあちゃん」
「なんだい」
「わたし、九年、半分しか読んでなかった」
タヅは火箸で炭を寄せる。
「半分ってのは?」
「札の、後ろのほう。危ないことが書いてある場所。そこを全部、飾りだと思ってた」
「飾りねえ」
「模様みたいなものだと思ってた。読まなくていいものだと」
囲炉裏の煙が、天井の隅へ細く流れていく。
「そう思う理由があったのかい?」
「九年、飛ばしても、誰も困らなかったから」
タヅは火箸を灰に立て、そのまま手を離した。柄がゆっくりと傾いて、倒れる。
「困らなけりゃ、正しいのかい?」
「……ちがう」
タヅは炭をひとつ、火の中央へ押しやった。赤い粉が舞い上がり、天井の梁のあたりで消える。
「ハギの顔は、わたしが飛ばしたところに書いてあったの」
「そうかい……」
「怒らないの?」
「怒って、どうなる?」
「わたしなら、怒る」
囲炉裏の火が、ひとつ小さく音を立てる。
「怒って字が読めるようになるなら、朝まで怒ってやるよ」
言われて、黙った。
涙が出るかと思ったのだ。
出なかった。
出ないのが、こわい。
泣けば、少しは楽になるのだろう。楽になってはいけない気がして、わたしは奥歯を噛んだ。噛んでいると、涙は出ない。九年ぶんの札の重さが、そのまま顎に乗っている。
◇
昼すぎ、ワサが戸口に立った。右手に布を巻いている。
「明日、集まる」
「はい」
「もらうか、断るか、決める」
「はい」
「おまえも来い。板も持ってこい」
わたしは戸口の柱に手を置いたまま、動けなくなった。九年、誰にも見せずにきたものである。
「板を?」
「見せてやれ。見せなきゃ誰も分からん」
ワサの声は、怒っているようにも、疲れているようにも聞こえる。
「掟破りです」
「掟破りで人が助かるなら、おれが叱られてやる」
ワサは行きかけ、立ち止まった。右手の布に、汁の染みが残っている。
「ノカ」
「はい」
「おまえのせいじゃねえ」
戸が閉まる。
わたしは、その言葉のどこが間違っているのかを、うまく言えなかった。
言えないまま、板を布でくるんだ。
九年、誰にも見せずにきたものである。明日、三十人の前でこれを開く。開けば、わたしが何を隠していたかも、同時に開くことになる。
布の結び目を、二度、結び直した。
◇
北倉第三保管所、業務記録。
十月三日。天候、晴れ。
所見。倉庫の掃除の者に、なぜ添え書きを手で書くのかと訊かれた。印刷でよいだろうと。答えられなかった。あれを読む者がいるという証拠は一つもない。それでも次の便のぶんは、もう書いてある。理由の欄には、慣例と記した。前任の梶さんも同じ欄に同じ二字を書いていたことを、今日はじめて綴りのなかに見つける。
応答なし。




