4. あとで読む、と言った
初雪の前の匂いがする。
土が凍る前の、水っぽくて重たい匂いだ。これがしてから十日ほどで、村道は白くなる。
わたしは小屋にこもり、札の下半分と読み板を突き合わせていた。
密。閉。容。器。使。用。蒸。気。
どれも、絵じてんにない。読み板の九年ぶんにもない。
板を三枚とも裏返し、貼りついた札を端から順に指でたどっていく。三日かけて、一つも出てこなかった。
わたしの知っている字は八百ある。八百というのは、多いほうだと思っていたのだ。
この八つが出てこないだけで、八百が急に小さく見える。
八百というのは、絵にできるものの数だ。りんご、火、手、水、鍋、糸。目で見えて、指で触れて、絵にできるもの。
では、絵にできないものは、いくつあるのだろう。数えたことがない。数えようがない。
◇
村道でハギとすれ違った。背中に縄を山ほど背負っている。
「読めたか?」
「まだ」
「まだって、いつまでだ?」
「わからない」
「わからないって、おまえ」
ハギは荷を下ろし、道の脇の石に腰かけた。石は霜で白くなっている。
「無い字は、探しても無いの」
「みんなもう使ってるぞ」
「知ってる」
ハギは荷の縄をゆるめ、膝の上で結び目を作り直しはじめる。
「ワサんとこが、あれからもう一つ使った。うちも一つ」
「じゃあ、残りは一つ?」
「一つだ。ワサさんが山へ持ってくと言ってる」
「うまいぞ。汁が朝まで温い」
わたしは足元の凍りかけた泥を、爪先で崩す。崩れた泥のあいだから、去年の落ち葉の黒い縁が出てきた。
村道の向こうで、子どもが二人、走っていく。片方が転んで、笑い声が上がる。この村では、笑い声のほうが遠くまで届く。
「ハギ」
「ん」
言おうか言うまいか、三度、口を開いて閉じた。四度目に、風が止んだ。
「もしわたしが間違ってても、誰も気がつかないと思う」
「どういう意味だ?」
ハギの息が白く出て、すぐに散る。
「そのままの意味。誰も読めないんだから、間違ってても、そのまま使う。使って何も起きなければ、正しかったことになる」
「起きたら?」
風が谷を渡って、縄の匂いを運んでくる。ハギは膝の上で指を組み、それをじっと見ている。
「起きたら、そのときはじめて、間違ってたってわかる」
言ってから、奥歯を噛んだ。
言葉にすると、こんなに悪い形をしているとは思わなかったのだ。九年、この形のものを胸に抱えて歩いていたことになる。
「……おまえ、ずっとそれでやってきたのか?」
「九年」
「誰にも言わずに?」
「言っても、どうにもならないから」
「おれに言えよ」
ハギは石から立ち上がり、縄を担ぎ直した。担ぎ直してから、こちらを見ないで言う。
「読めねえけど、聞くことはできる」
「聞いて、どうなるの?」
「どうにもならねえ。けど、おまえが一人じゃなくなる」
◇
その晩、ワサの家に呼ばれた。
外はもう暗い。戸を開けると、竈の火の色が足元まで伸びてきた。汁の匂いと、炭の匂いと、干した菜の匂いがまざっている。
土間に釉薬の壺が出してある。腹の張った、大きなやつだ。冬に漬け物を仕込む壺で、蓋には縄をかける溝が彫ってある。
「明日から山だ」
ワサが言った。
「上の杉を伐る。朝から日暮れまで山にいる。飯は冷える」
「はい」
「これに汁と、あの袋と、水を入れて、蓋をして縄で縛る。山まで担いでいって、昼に開けりゃ、温かい汁が食えるだろう?」
わたしは壺を見る。
肌のうすい茶色に、火の光がのっている。厚みのある、頑丈な壺だ。この壺はワサの父の代からあると聞いている。漬け物を三十年ぶん抱えてきて、欠けひとつない。
それから、懐の札を思い出す。
ふた、という字が、あった。
あれは、蓋をしろと書いてあったのだろうか。それとも、ちがうのだろうか。下の半分が、まだ読めていない。
「ノカ」
「はい」
「なんか書いてあったか。蓋のことは」
喉のあたりで、何かが詰まった。
読めていません、と言えばいい。たった八文字だ。八文字を言うだけで、この壺は今夜、蓋をされずに済む。
「……ふた、という字は、ありました」
「あったんだな?」
「ありました。ただ、まわりの字が読めていません」
ワサは壺の蓋を持ち上げ、溝に指をかけて、重さを確かめるように上下させる。木の蓋が、こつん、と鳴る。
「まわりってのは、飾りだろう?」
「たぶん」
「たぶんでいい。おまえが読んだんだ」
土間の隅で、ワサの女房が黙って炭を足している。誰もこちらを見ていない。見ていないのに、返事だけを待たれている。
「ワサさん。あと十日、待てませんか?」
「山は待たねえよ」
「十日待てば、下の半分が読めるかもしれません」
「かもしれません、で山は止まらねえ」
ワサは蓋を壺に戻し、溝に縄をかけて、両手で引いた。慣れた手つきで、結び目を二重にしていく。
いい、とは言っていません。
そう言おうとして、言えなかった。
言えなかった理由を、わたしはいまでもうまく説明できない。たぶん、あの日わたしは、村じゅうが笑った顔を消したくなかったのだ。
「読めていません」と言えば、みんなが黙る。黙ったあとで、たぶん誰かがこう言う。じゃあ、九年ぶんはどうだったんだ。
九年ぶんは、どうだったのか。
わたしにも、答えられない。
◇
北倉第三保管所、業務記録。
九月二十八日。天候、雨のち曇り。
所見。次の便の割り当てに毛布が入っていなかったので、期限切れ間近の分から一枚足した。理由の欄に書くことがなく、余剰処分と記す。十一年、向こうがどうなっているのか分かったことがない。分からないまま毛布を足すのは、業務ではないのだろうと思う。それでも、寒い場所であることだけは荷の減り方から分かるのである。
応答なし。




