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3. 水を入れると、熱くなる

 二日おいて、わたしは広場でそれを言った。


 言う前に、三度、読み直している。


「水を入れると、熱くなります。火のかわりになります。湯をつかわなくていいそうです。ふた、と書いてあります」


 三十いくつの顔が、いっせいにわたしを見た。息の音が消えて、遠くで鶏が鳴くのだけが聞こえる。


 村が、静かになる。


 それから、いっぺんに騒がしくなった。


「火なしで温まるのか?」


「試そう。いま試そう」


「危なくないのかね?」


「危ないなら、危ないと書いてあるだろ。なあノカ」


「……そう思います」


 ワサが土間から桶を持ち出してくる。ムメが柄杓(ひしゃく)を出した。クヌが袋を抱えて跳ねている。人が集まってきて、広場のまんなかに輪ができる。


 五つのうちの一つを開けて、灰色の粒を椀に空け、水を注いだ。


「なんか鳴ってるぞ」


「湯が沸くときの音に似てる」


「火もねえのに?」


 しゅう、と音がする。


 湯気が立った。椀の腹が、みるみる熱くなっていく。


 クヌが指で触って、飛び上がる。


「熱い! ノカ姉、ほんとに熱い!」


「馬鹿、触るな」


「だって熱いんだもん!」


「火傷したら、誰が薬を読むんだい?」


「ノカ姉が読む!」


 誰かが手を叩く。誰かが笑った。ワサが両手で顔をこすっている。


「五つありゃ、五回は薪を焚かずに済む」


 その一言で、村が沸いた。


 五回ぶんの薪。それだけのことである。それだけのことで、この村は沸く。


 三年前の冬、ワサの弟が薪の背負い荷ごと沢へ落ちた。見つかったのは春で、そのときにはもう、誰の骨か分からないほど流されていたという。


 薪は、この村では血の値がついている。伐りに行って崖から落ちた者を、わたしは三人知っている。凍えて指をなくした者なら、もっと多い。


 わたしは輪のまんなかに立たされ、肩を叩かれ、髪をくしゃくしゃにされる。耳が熱い。足の裏が地面から浮いているみたいである。


「ノカが読んだんだ」


「ノカが読んだんだよ」


「よく覚えたもんだよ、あんな字を」


「わたしは、拾っただけです」


「拾えるのが偉いんだよ」


 九年、札を読んできた。役に立ったことは何度もある。氷室に名前を付けたのも、油の使い方を変えたのも、わたしの口だ。


 でも、こんなふうに村じゅうが笑った日は、はじめてである。九年ぶんの札のなかで、今日の三枚がいちばん短かったのに、いちばん大きな返り方をしている。


 肩を叩かれるたび、体のなかで何かが軽くなっていく。役に立っている、というのは、こういう手触りのことなのだと思った。


 この日のことを、わたしは何度も思い出すことになる。思い出すたび、同じところで胸のなかが冷たくなる。


       ◇


 夕方、ワサの家で汁を温めた。


 鍋の下に火はない。二つめの袋と水を入れた椀を、鍋の底に沈めてあるだけである。これで残りは三つになる。


 湯気が上がる。大根の匂いが立った。土間の隅で、子どもらが順番を待って足踏みをしている。ワサの女房が椀に取り分け、まず年寄りへ配っていく。


 タヅは湯気を見て、それから、わたしを見る。


「おまえが読んだのかい?」


「うん」


「そうかい。ならいい」


「怒ってる?」


「怒っちゃいないよ」


 タヅは椀を両手で包み、しばらく黙っていた。湯気が皺の深い頬にあたり、そこだけ濡れたように光る。


「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」


「拝まずに食う汁は、味が薄い気がしてね」


 それだけ言うと、タヅは汁をすすった。褒めもしないし、咎めもしない。この人はいつもそうだ。


 汁は温かい。舌の上で大根が崩れる。冬のはじめに温かい汁を飲めた年が、この村に何度あっただろう。


「ノカ」


 ハギが縁側の端から呼んでいる。縄で切った指に布を巻き、その指で袋の札を指した。


「これ、下のほうは何て書いてある?」


 わたしは札を受け取り、灯りに近づける。


 拾えたのは、上の半分だけだ。下の半分は、知らない字が続いている。目で追っても、どこにも引っかかるところがない。


「……あとで読む」


「あとで?」


「うん。読み板と照らせば、どれか出てくるかもしれないから」


「出てこなかったら?」


「そのときは、そのときで」


 湯気が二人のあいだを上がっていった。誰かが笑い、誰かが椀を落として、また笑いが起きる。今日いちにち、この家で笑わなかったのは、わたしとハギだけだった。


「そのときで、って」


「……ハギ。今日くらい、いいでしょう?」


「今日くらい、か」


「うん」


「わかった」


 ハギは何か言いかけ、やめてしまう。


 わたしは札を折って、懐に入れる。


 あとで読む、と言ってしまった。


       ◇


 その晩、手で書かれた紙をもう一度出す。


 これはお湯をつかわずに、あたためられます。ふたはしないで。 早川


 拾えるのは、湯。つかう。あたためる。ふた。


 あとは飾りだ。


 ただ、この人の字が、去年より丁寧になっている気がする。


 線の終わりが、前より長く止まっている。急いで書いていない字だ。一枚の紙のために、わざわざ座り直したような字である。


 この人は、誰が読むとも知れない紙を、こんなに丁寧に書くのだろうか。


 わたしは指の腹を、字の終わりのところへ置いた。紙は冷たく、線は乾いている。書かれてから、ここへ落ちてくるまでに、どれだけの時間がかかったのかも知らない。


 九年、この人たちの手で、わたしは字を覚えてきた。印刷の札より、手書きのほうがずっと読みやすかったからだ。


 紙を板の裏へ挟み、灯りを消した。


       ◇


 北倉第三保管所、業務記録。


 九月二十三日。天候、晴れ。


 所見。加熱袋の添え書きを二度書き直した。一度目は文が長すぎたのである。読む者がいるとして、その者がどれだけの字を知っているのか、こちらには分からない。だから字は少なくした。少なくすれば伝わるというものでもないが、多くて伝わらないよりはましだろう。書き損じた一枚目は、捨てずに机の引き出しへ入れてある。


 応答なし。


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