2. わたしは、絵から字を覚えた
夜になると、箱送りの火が焚かれる。
村の広場のまんなかに空箱を積み上げて、油紙も包みも札も、まとめて燃やすのだ。降り物の器を返すのは、施しを疑うことになる。十一年前にそう決まった。
火が高く上がる。油紙が燃えるときの、甘くて焦げくさい匂いがする。子どもが火のまわりを走り、年寄りが手を合わせ、男たちが空箱を崩して足していく。
箱が崩れるたび、火が形を変える。九年、この火を見てきた。降ってきたものを受け取るのと、器を焼いてしまうのとが、村では同じ一日のうちに起きる。
わたしは輪のいちばん外に立って、燃えていくのを見ている。
ほんとうは、見ているのではない。狙っている。
人がいっとき火から目を離す。そのわずかのあいだに、灰の際から札を一枚、二枚と抜くのだ。九年やってきた。指の腹には薄い火傷の痕がならんでいる。
「今日は、三枚か」
後ろでハギが言った。
「四枚」
「欲張るな」
「字の多いのが来たの」
「多いと、なんで欲しくなる?」
火の粉が上がる。誰かが空箱を一つ、崩れた山の上へ足す。
「読めない字がたくさんあるから。並べておけば、いつか同じ字が別の札に出てくる。出てきたら、前と後ろの並びで、意味が絞れる」
「九年やって、いくつ増えた?」
「八百くらい」
「八百?」
ハギは口の中で数を転がすように言い、それから火のほうへ向き直る。この人は村でただひとり、わたしのやっていることを知っている。知っていて、九年、誰にも言わずにいてくれている。
「ハギは、こわくないの?」
「なにが?」
「わたしが読み違えてること」
「考えたことねえな」
ハギは灰の際を見ている。わたしが次にどこへ手を出すか、見当がついているらしい。
「見つかったら、ばあちゃんに殺されるぞ」
「殺されない。たぶん、板を焼かれるだけ」
「そっちのほうが痛いだろ」
ハギは足元の枝を拾い、火のほうへ放った。届かず、手前の草の上に落ちる。
「……そう」
「そうって、なんだ?」
「痛いほうが痛い、って言った」
言い返せない。
◇
崖下の小屋は、板の隙間から風が入る。
灯心に火を移すと、壁に立てかけた三枚の板が浮かび上がった。読み板と呼んでいる。九年ぶん、抜いてきた札を膠で貼り重ねたものだ。厚みは指の二本ぶんになる。
抱え上げると、板は冷たい。九年ぶんの冷たさだと思うことがある。
この板が見つかれば、燃やされる。燃やされたら、わたしは字を失う。字を失えば、村は札を読む者を失う。順に並べれば、これは村のためにやっていることになる。
けれど、はじめに札を抜いたときのわたしは、七つだった。村のためなど、考えていない。ただ、絵じてんの外にも同じ字があるのを見つけて、うれしかっただけである。
いちばん下に、絵じてんが置いてある。
九年前――わたしが七つの年の、春のいちばんはじめの便で降ってきた。ほかの箱に混ざり、それだけが子どもの持ち物みたいに薄くて、誰も欲しがらなかったのだ。父も母もまだ生きていて、母は「絵がきれいだね」とだけ言った。
開くと、絵と字が一つずつ並んでいる。りんごの絵の横に、りんご。火の絵の横に、火。手の絵の横に、手。
はじめの冬は、絵だけを見ていた。字は、絵のまわりに生えた黒い草のようなものだと思っていたのだ。
あるとき、りんごの絵が二つの頁に出てきて、字の並びもそっくり同じだった。それで、これは同じものを指す印なのだと気がついたのである。
村にも字はある。木札に刻む数と印だ。ただ、それは向こうの字とはまるでちがう形をしている。だからわたしは、字が読めない子だったのではない。向こうの字を知らない子だっただけだ。
九年かけて、絵と字を突き合わせた。数え方も、かなも、カタカナも覚えている。
巻末の何頁かは、はじめから無い。破れた跡だけが残っている。そこに何が書いてあったのかを、わたしは知らない。
落ちてくるあいだに破れたのか、はじめから破れていたのか。それすら分からない。ないものを惜しんでも仕方がないので、わたしはその跡に指を置くだけにしている。
◇
新しい袋の札を、灯りの下へ持ってきた。
字が多い。詰まっている。
わたしは知っている字を拾っていく。
水。読める。
熱。読める。
火。読める。
湯。読める。
入れる、出る。動作の頁にあった。
残りは、絵じてんのどこにもない形をしている。
こういうものを、わたしは飾りだと思ってきた。字のまわりに置く模様のようなものだと。九年、飾りを飛ばして訳しても、誰も困らなかったのだから。
箱の底に入っていた手書きの紙も、同じように読む。
湯。つかう。あたためる。ふた。
拾えたのは、その四つだけだ。
板の裏に、爪の先で線を引いて書き写した。筆はない。膠の乾いた面に、細い傷として残していく。
「入るか?」
戸口でハギが言った。
「入って」
ハギは板を跨ぎ、灯心の反対側に座る。片方の膝を立て、そこに顎をのせる。
「読めたか?」
「半分」
「半分でいいのか?」
「よくない。でも、いつもそう」
「いつもそうって、おまえ」
灯心の火が、風で一度だけ大きく揺れる。板の上の札が、影といっしょに動く。
「九年、そうだった。半分読んで、それで足りてた」
「足りてた、ってのは、誰が決めるんだ?」
「……誰も」
「じゃあ足りてねえだろ」
「そうかもしれない」
わたしは拾えた字を、指で押さえて順に並べる。手のひらの上に、四つの字が横一列にならぶ。
水を入れると、熱くなる。
声に出してみた。
小屋の中が、急に狭くなった気がする。
「なんだって?」
「水を入れると、熱くなる」
「……薪なしでか?」
「たぶん」
「たぶんで言うなよ」
ハギが膝を崩し、板の一枚を指でつついた。爪が札の縁に当たって、乾いた音がする。
「じゃあ、なんて言えばいい?」
「知らねえ」
「知らないのに、言うなって言うの?」
外で風が鳴った。板の隙間から入った風が、灯心を細くする。
「たぶん、としか言えない。でも、たぶんでも、言わないよりはいい」
冬が来る。薪はいつも足りない。村じゅうが火を惜しんで、汁を一度しか温めない季節が来る。
その前に、水を入れると熱くなるものが、五つ。
「言うのか、みんなに?」
「言うつもり」
「明日か?」
「二日、置く。三度読み直してから」
これを村に言えば、みんなが喜ぶ。喜ぶ顔が浮かぶ。浮かんでしまってから、わたしは自分の指が札の下半分を隠していることに気づいた。
隠したのではない。押さえていただけだ。そう思うことにして、灯心を吹き消す。
◇
北倉第三保管所、業務記録。
九月二十二日。天候、曇り。
所見。加熱袋は取り扱いの注意が多いので、昨日、添え書きを手で書いて入れた。印刷の札は字が細かく、濡れれば読めなくなる。手で書けば太い。読む者がいるかどうかは分からない。十一年、分かったことがない。倉の戸を閉めるとき、いつも同じことを考える。あの穴の向こうに人がいるとして、その人はいま、何を読んでいるのだろうか。
応答なし。




