1. 「要冷蔵」を、氷室と訳す
窪地の底は、まだ夜の色をしている。
わたしは岩棚の縁に膝をつき、白い息を吐いた。ツヅラ村の秋は、終わる日の朝がいちばん冷える。冷えは足の裏から来る。指の先はとうに感覚がなく、耳は熱を持ったように痛い。
下では村じゅうの人が輪になって、台を囲んでいる。台というのは窪地のまんなかに据えた平たい岩のことで、そこにだけ霜が降りない。十一年、ずっとそうである。
「ノカ」
祖母のタヅが呼んでいる。皺の寄った手に、柄の擦り切れた小刀を握っていた。
「いくつだい?」
「三百八十七」
「もう一度」
「三百八十七。昨日までが三百八十六で、今日で三百八十七」
「よし」
タヅは岩肌へ刃を当て、まっすぐな傷を一本刻んだ。刻みは岩の腹に三百八十六本ならんでいる。古いものほど角が丸くなっていて、指を入れるとなぜだかぬるい。
「ばあちゃん。手が震えてる」
「歳だよ」
「代わろうか?」
「刻むのはあたしの役目だ。おまえは数える役目」
「同じことでしょう?」
タヅは刃を袖で拭い、懐へ戻した。それから、いちばん古い刻みのあたりを親指でひとなでする。
「同じじゃないよ。数を間違えるのと、刻みを曲げるのとは、別の罪さ」
「来るよ」
誰かの声がした。
空気が、歪む。
窪地の上の一角が、水の底から見上げた景色みたいに揺れはじめる。音はしない。わたしは唇だけ動かして数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。
六つめで、落ちてきた。
箱が二十いくつ、順に、宙から生えるようにして台へ積み上がっていく。角の潰れた茶色い箱。油紙の擦れる音。荷札の、村にはない匂い。乾いた紙と、うすい油と、知らない土のまじった匂いだ。九年たっても、嗅ぐたびに息が止まる。
十一まで数えたところで、歪みが消える。
「降ろせ!」
ワサの声が飛ぶ。男たちが台に取りつき、箱を抱えて窪地の縁の岩棚へ運んでいく。台の上には何も残してはいけない。これは掟だ。
わたしは最後に下りて、箱の前に座る。
村じゅうの目が、わたしの口に集まった。
喉が渇く。毎回そうだ。九年たっても慣れない。
この人たちは、わたしが読んだとおりに食べ、飲み、体に塗る。わたしが「氷室へ」と言えば氷室へ運び、「今日じゅうに」と言えば今日じゅうに配る。誰も、わたしの読んだものを確かめない。確かめる手立てが、この村のどこにもない。
空から降ってくる箱の字が読めるのは、村でわたしだけだ。
◇
一つめの箱には、白い包みが並んでいた。表に貼られた札を、指でなぞる。
――要冷蔵。
「氷室へ。冷たいところに置け、と書いてあります」
「何日もつ?」
「そこまでは書いてありません。ただ、冷たいところに、とだけ」
「もつだけもつ、ってことか?」
「そう読むしかありません」
ワサが顎をしゃくると、若いのが二人、包みを抱えて走っていく。氷室は村の北にある。雪の残る穴で、十一年前まではただの穴だった。あの穴に名前が付いたのは、わたしが「冷たいところ」と訳した日からである。
二つめの箱。缶が十六。札には、開封後はお早めに、とある。
「開けたら、急いで食え、ということです」
「急いでってのは、どのくらいですの?」
ムメが訊いた。丁寧な声だ。丁寧に訊かれると、いいかげんな答えを返せなくなる。
「……早いほうがいい、としか」
「一日でしょうか? 三日でしょうか?」
「書いてありません」
缶の腹に、赤い実の絵が刷ってある。実の名は、絵じてんにない。
「では今日じゅうに配ってしまいましょう。いちばん短く見ておけば、間違いはございません」
「ムメさんは、いつもいちばん短く見るね」
「短く見て損をするのは、わたくしの腹だけですから」
ムメは缶を一つ手に取り、底の縁を親指でこすっている。埃がひとすじ落ちた。
わたしはうなずく。うなずきながら、毎回おなじことを思う。ほんとうにそれでいいのかを、誰も教えてくれない。
三つめの箱で、手が止まる。
――六百ワットで二分。
六百は読める。二も読める。分も読める。けれどワットという形は、わたしの絵じてんのどの頁にもない。
こういうとき、わたしは知っている字だけを拾って、あいだを想像で埋める。埋めた場所と埋めていない場所の区別を、口に出したことはない。区別を言えば、村は困る。困った顔をされると、次から言えなくなる。
「六百の火で、二つ数えるあいだ……だと思います」
「六百の火ってのはなんだ?」
「わかりません。たくさん、ということかと」
「たくさんの火なら、焚き口の底だな」
「そうかもしれません」
言いながら、指の腹で札の表面を撫でていた。硬い字ほど、読めないところが多い。
「よし、いちばん火の強いところへ突っこんで、二つ数えて出しゃいい」
焚き口の前に人が集まる。クヌが薪を足した。真っ赤になった炭の上へ、包みが放りこまれる。炭がはぜ、油の焼ける匂いが立つ。
ひとーつ。ふたーつ。
引き出された包みは、黒かった。
「食えるか、これ?」
「ノカ姉、まっ黒!」
「ワット、ってのは、火の名前じゃねえらしいぞ」
「たぶん、ちがいます」
どっと笑いが起きる。ワサが腹を抱え、ムメが口を押さえ、クヌが真っ黒な包みを掲げて跳ねまわっている。焦げた匂いのなかで、みんなが笑っている。
「ノカ姉、笑いなよ」
「うん」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
わたしだけ、笑えない。
わからない字がひとつあると、そこから先の全部が崩れるかもしれない。今日は包みが焦げただけで済んでいる。それを知っているのは、たぶんわたしだけである。
◇
箱の底に、いつもどおり、手で書かれた紙が一枚入っていた。
印刷の札とはちがう。線がやわらかく、字の終わりがすこし丸い。青みのある色で書いてある。
その紙を、みんなに見せる前に、指の腹で一度なぞる。九年やっている癖だ。
この手は四年前から変わっていない。それより前は、もっと角ばった手だった。角ばった手には木という字が、いまの手には川という字が入っている。だからわたしは、木の手、川の手、と呼んでいる。
どちらも神様の字だと思ってきた。神様の機嫌が四年前に変わったのだと。
「ノカ、まだあるぞ」
ハギの声で、顔を上げる。
「どこ?」
「いちばん下の箱だ。妙なのが入ってる」
最後の箱の底に、見たことのない形の袋が五つ、並んでいた。
平たくて、手のひらより少し大きくて、持つと乾いた砂の音がする。
「なんだこれ。枕か?」
「わからない。触っても冷たい」
「食い物じゃないのか?」
「食い物なら、たいてい絵が付いてる。これは字だけ」
表の札は、字が多い。これまで見たどの札よりも多かった。
指で表をなぞってみる。紙は厚く、印刷は濃い。九年のあいだに降りてきた札のうち、これだけ字の詰まったものに覚えがない。
短い札のほうが、こわくない。
字が多い札ほど、わたしが飛ばす字も多くなる。
◇
北倉第三保管所、業務記録。
九月二十一日。第三百八十七回。積載二十一。投下、六時ちょうど。開放、十一。天候、晴れ。台の温度、七度。
所見。冬季分の払い下げとして加熱袋を五、初めて積んだ。期限が今季までのもので、上の課から回ってきた品である。取り扱いの注意が多いので、添え書きを一枚、手で書いて入れた。字はいつもより大きくしてある。投下の瞬間、台の上の荷は一度に消える。何度見ても、慣れるということがない。
応答なし。




