9. 東は、四月でも雪だそうでございます
四月二十日の昼。厩の前には、行李が二つ、旅立ちを待つように並んでいた。乾いた藁と馬の汗、それに日に温められた革の匂いが混じり、屋根の隙間からこぼれる光が、擦れた表面へ細い筋を引いている。おばあ様の荷は、来たときよりずいぶん小さい。減ったぶんは、この家のあちらこちらへ、何食わぬ顔で置いていかれたのだろう。あの方なら、別れの言葉より先に、ご自分の気配を残しておかれる。
背後で砂利がかすかに鳴り、お父様が、わたくしの後ろから出ていらっしゃる。足音まで迷いがなく、もう何かをお決めになった方の歩き方である。
「お母上は二十八日にお発ちだ。同じ日に、お前をフォーゲル家へやる」
「……フォーゲル家へ、でございますか?」
「うむ。先方も、そろそろ落ち着いた席をと言うておられる。まあ、そのほうが収まりがよい。はは」
訊かれてはいない。わたくしの都合も気持ちも、決まったことを二つまとめて告げる言葉の外に置かれている。おばあ様が発つその日に、わたくしはあの家の卓につく――日の選び方まで、誰も相談してくださらなかった。胸の内で何かが小さく反発したけれど、長く身についた微笑みが、それを唇の手前で行儀よく座らせる。厩の暗がりでは、馬が蹄で床を鳴らしていた。硬い音は石壁にぶつかり、言えなかった返事のように、思ったより長く残っている。
同じ日にしたのは、たぶん、そのほうが片づきがよいからである。片づきのよさというものを、わたくしはこの十年で厭というほど教わってきた。誰も泣かず、誰も声を荒らげず、日取りだけが棚の皿のようにきれいに揃う。けれど、その脇でわたくしまで、黙って飾られている必要はないのではないか。そんな考えが、不作法な芽のようにひょいと顔を出す。揃った日取りの中で、わたくしはいつも、揃えられる側に立っている――だからこそ、そろそろ自分で足を動かしてもよいはずだ。
行李の革は、ところどころ白く擦れ、街道の泥を薄い染みとして抱えている。拭いても落ちなかったのだろう。旅をしてきた跡は、磨いたところで消えないらしい。この二つが門を出ていく朝、わたくしも同じ門から外へ出る。そう思うと厩の暗がりがひときわ濃く感じられたが、その向こうにある昼の光は、先ほどよりも鮮やかだった。
おばあ様が厩の中から出ていらして、靴の先で藁をさっと払われる。旅支度の途中だというのに、その動きには別れを惜しむ湿っぽさなど、これっぽっちもない。
「二十八日はあたしが決めた日だよ。あんたのお父さんが決めたんじゃない」
「……はい」
「発つ日は先に言う。東じゃ、そういう決まりでね」
わたくしは、いつものように「ええ、そのほうが」と申し上げる。口が先に覚えている返事である。ところが、言い終えた途端、指の先の冷たさに気づいた。十年、この返事で困ったことは一度も無い。相手の望む形へ自分を畳んでしまえば、何事も丸く収まったからだ。それなのに今日はじめて、返事のあとに、畳みきれない気持ちが残っている。飲み込んだものが喉のどこかに引っかかり、下りていこうとしない。どうやらわたくしの心にも、そろそろ行儀を守るのに飽きたところがあるらしい。
◇
夕の庭。楡の下では、ラーシュがほどけた縄を編み直していた。黒に近い茶の短髪に日の名残りが赤く差し、うつむくたび、硬そうな髪の先で火の粉のように揺れる。節の目立つ指は迷いなく動き、追いかけるわたくしの目のほうが先に降参しそうである。
「東は、四月でも雪だ」
「まだ、でございますの?」
「まだだ。屋根から落ちるやつが、いちばん重い。あれで人が埋まる」
「……掘るのですわね」
「掘る。おれの村は、雪が解けてから麦を蒔く。だから四月は何もない。何もないから、みんなよく喋る」
ラーシュは縄の端を歯で噛み、きゅっと締める。この方の喩えは、いつも東の暮らしから生まれる。雪の重みも、麦を蒔く時も、手のひらに載せて見せるように話されるのだ。王都の方の喩えなら、たいてい他所の家の噂から始まるのに――その違いが可笑しくて、肩の力が少しだけほどける。
雪の下から人を掘る話を、この方は夕餉の話題のようになさる。重い雪の見分け方、掘る順番、掘り出したあとに火をどう焚くか――どれも、考えるより先に身体が動く人の言葉である。声は少しも高くならない。それでも聞いているうちに、わたくしの背中には冷たい筋が走り、夕風まで雪国から届いたもののように思えてくる。東ではそれが特別な出来事ではなく、その日その日を越えていくための暮らしなのだと、緑がかった目が静かに告げている。
この方の話には、いつも誰かが雪の下に埋まり、いつも誰かが迷わず掘りに行く。助ける理由を並べるより、まず手を動かす――それが当たり前だという顔で、ラーシュは縄を編んでいる。わたくしの十年のあいだ、固く積もった沈黙を掘りに来た人は一人もいなかった。けれど、いま目の前で縄を編んでいるこの方が、たぶん最初の一人である。その気づきは痛みより先に、凍った窓に指で小さな穴を開けたように、向こう側の光を見せてくれた。
その暮らしの中へ、この方はやがて帰っていく。わたくしはその村を見たことがなく、これから見ることもないのだろう――そう決めつけようとすると、胸の奥で、先ほど芽を出した何かがむっとする。楡の葉のあいだから夕の光が細くこぼれ、ラーシュの指と縄の上を行き来していた。まるで、まだ見ぬ道の形を、そっと編み上げているようである。
「……いつまで、いらっしゃいますの?」
訊いた途端、その言葉が引き止める手のように聞こえなかったかと、胸が跳ねる。けれどラーシュの横顔は変わらず、わたくしだけが、自分の声の余韻に耳を澄ませていた。
引き止める言葉を、わたくしは持っていない。
庭の入口には、いつから聞いていらしたのか、おばあ様が立っておられる。白髪を短く切り、藍の布で巻いている。こちらを見抜く目には、夕暮れにも負けない笑いの色がある。風が吹くと布の端がふわりと持ち上がり、楡の影へ細い藍をひるがえした。
「あんた、いま、何か言いかけたろ?」
「……いいえ」
おばあ様はそれきりわたくしから目を離し、口元に笑いを隠したまま、ラーシュのほうを向かれる。逃げ道を塞ぐというより、閉じた戸を景気よく蹴り開けるような向き直り方である。
「ラーシュ。あんたは、帰りたいのかい?」
「用が済めば、帰る」
「訊いてるのは、用のことじゃないよ」
ラーシュの手が、ぴたりと止まった。張っていた縄の端が力を失い、膝の上でゆっくりほどけていく。楡の葉がさらさらと鳴り、夕の土と若い草の匂いが、急に濃くなった。わたくしは息をするのも忘れそうになり、忘れたと悟られぬよう、そっと吸い直す。
「……帰りたいとは、思ってない」
それだけである。誰のためとも、なぜとも、この方はおっしゃらない。東の言い方はいつも短い。短いぶん、あとには何も残らないはずなのに、その言葉だけは胸の内へ真っすぐ落ち、いつまでも消えずにいる。耳のうしろがまた熱くなり、掌には汗が滲んだ。わたくしは裾でそっと押さえながら、これは夕陽のせいだと誰にも聞かれぬ言い訳をする。庭の空気まで急に明るくなった気がして、困るのに、少しも嫌ではない。
◇
同じ日の夜、王都の東門にある駅逓の詰所。煤けた壁では油灯の火が頼りなく揺れ、外に繋がれた馬の鼻息が、閉じた戸の向こうから響いていた。そこで、昔の訪問の話が静かに掘り起こされている。
「オステンへ人を出した家が、三十年前に幾つもあったよ」
「お会いになったので?」
「誰にも会わなかったそうだ」
「門前払いでございますか?」
「いいや。門は開いていたそうだ。ただ、奥方が、どうしてもお会いにならなかったとか」
◇
庭は、もうすっかり夜に沈んでいる。楡の影が芝の上へ長くほどけ、湿りはじめた土と夜の草の匂いが、足元から静かに立ちのぼる。灯を手にした女中が母屋の窓を一つずつ明るくしていき、そのたび、木のあいだから四角い金色がこぼれた。けれど楡の下だけは薄闇のままで、ラーシュの横顔が近いのか遠いのか、うまく測れない。
ラーシュが発ってしまえば、この家で、わたくしに理由を訊く人はいなくなる。その光景を思い浮かべた途端、胸のあたりが急に忙しくなり、指はわたくしの許しも得ず袖口をつまんでいた。この方を引き止めたい――たぶん、それが、この落ち着かなさの名前である。名を与えた気持ちは、急に輪郭を持って広がるのに、肝心の声だけが喉の奥で小さく座り込んでいる。なんとも礼儀正しく、困った反抗である。
口に出せば、この方の用を止めることになる。用を止めてよい理由が、わたくしにはやはり見つからない。夜の草の匂いはいよいよ濃く、風が袖の内側へ忍び込む。指先の冷たさだけはいつもの場所へ戻ってきたが、その奥で脈が、やけに元気よく打っている。
二十八日。その日にわたくしが立つのは、この庭ではなくフォーゲル家の卓の前である。それを決めたのも、わたくしではない。引き止められないものが、今日は二つある。決められた日取りと、帰ろうとする人と。そう指を折って並べてみるだけで、指の先がわずかに強張る。
「で、あんたは」
「……わたくしは、お引き止めできる者ではございませんもの」
申し上げた途端、その言葉が本当なのか、どこかで問い返す声がした。できないのではない。わたくしが、言わないだけである。十年、そうやって「できない」と「言わない」を丁寧に混ぜてきた。混ぜておけば、言わなかったことは、言えなかったことになってくれる。けれど今、その便利な言い換えを、おばあ様の目があっさり見抜いている。頬が熱い。恥ずかしいからだけではない――ようやく自分で自分のごまかしを捕まえたことが、少し可笑しかったのだ。
「二十八日だよ。それまでに、一つ呼びな」




