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8. お姉様が下がると、わたしの行き場が無くなります

 四月十七日の朝。自室の窓の下で、誰かが水を撒いている。石畳を濡らすやわらかな音に続いて、雨上がりにも似た石の匂いが立ちのぼり、朝の冷たい空気へ溶けてきた。窓枠に肘を預けると、ひやりとした感触が袖越しに腕をのぼり、ぼんやりしていた頭まで目を覚まさせる。それでも、わたくしは昨日から髪を結い直していない。蜂蜜色の房は耳のあたりで気ままにほつれ、いつもの自分より少しだけ頼りなく、それでいて妙に正直な姿を窓ガラスへ映している。


 昨日の庭で起きたことが、朝から胸の内を行ったり来たりしている。そもそも、立ち止まって考えるという習慣が、わたくしには無い。十年、考えるより先に返事をしてきたのだから、考えるとは、返事を急がず、自分の心が追いつくのを待つ時間なのだと、いま初めて知った。その時間は呆れるほど長く、慣れない靴のようにどうにも居心地が悪い。黙っているあいだ、部屋の空気がじわじわ厚みを増し、息をどこへ置けばよいのかさえ迷ってしまう。窓の外では、撒かれた水が石畳の目に沿って細い道を作り、朝の光をきらりと運んでいく。わたくしは答えの代わりでも探すように、その小さな流れをいつまでも目で追っている。


 控えめな音を立てて扉が開き、お母様が入っていらした。最初に目へ飛び込んでくるのは、冷たさも温かさも読み取れない灰色の目である。灰がかった金の髪は朝から乱れひとつなく結い上げられ、その整い方だけで、わたくしのほつれた髪を咎められたような気がした。指輪をしていない手が卓へ伸び、置かれた櫛をほんの少し動かす。かすかな木の擦れる音が、やけに大きく耳に残った。


「昨日のお話です」


「……はい」


「あなたが、エルザを説得なさい」


 それは問いかけではない。すでに形を与えられた決まりを、わたくしへ手渡す声である。十年、この声が響くたび、家の中のすべては決まってきた。わたくしの返事まで、初めからその決まりの一部であったかのように。


「……エルザを、でございますか?」


「あの子は、まだ物の分からぬ齢です。あなたが言えば聞きます」


「……はい、お母様」


 断る言葉を探そうともしない。探すより早く、聞き慣れた返事が唇をすり抜けてしまう。うまく答えられたはずなのに、喉の奥だけは冷たい風に晒されたあとのようにひりつき、飲み込んだ言葉の形を訴えていた。お母様が出ていらして扉が閉まると、部屋にはまた朝の匂いと静けさが戻る。わたくしはしばらく、卓の上で斜めになった櫛を見つめていた。動かされた櫛が、もとはどこにあったのか、どうしても思い出せない。ほんの少しずれただけなのに、部屋まで別の場所になったようで、座りどころが妙に落ち着かなかった。


       ◇


 昼の居間には、春の白い光ばかりが先に来て、エルザの姿はまだ無い。ラーシュは窓辺に立ち、頼まれてもいない窓を黙々と拭いている。この方は手持ち無沙汰というものに負けるのがお嫌いらしく、目を離すたび何かしら働いていらっしゃる。桟に溜まった埃は布の跡に沿って細い筋となり、磨かれたガラスの向こうでは、庭の若葉が風に揺れていた。静かなはずの部屋で、布の擦れる音だけが、わたくしの返事を待つように往復している。


「あんたは、何がしたいんだ?」


「……妹に、話をしなければなりませんの」


「それは頼まれたことだろ。訊いてるのは、あんたのことだ」


「……」


「理由は、この前訊いた。今日は望みのほうだ」


 望み、という言葉が耳の内側でころりと転がり、行き先を見つけられずにいる。窓の外で雲がほどけると、床板の上へ明るい帯がすっと伸び、その中を細かな埃が、急ぐ理由など無いようにゆるゆる流れていく。十年ぶん、わたくしはこの家の望みを聞き、それを自分の役目としてきた。お父様の望み、お母様の望み、リヒャルトさまの望み。どれもすぐに答えられるのに、自分の番が回ってきた途端、卓の上のその場所だけがぽっかり空く。いいえ、空いたのではない。初めから何も置かれていなかったのだ。そのことに今さら気づいてみると、寂しさより先に、どうして今まで見落とせたのだろうという可笑しさが、小さな泡のように浮かんでいた。


 おばあ様が、居間の隅にある椅子へゆっくり腰を下ろされる。膝の上で組まれた手は、指の節がひとつずつ太く、長く働いてきた木の根のように頼もしい。藍の布の端が椅子の背へ垂れ、窓から差す光を深い色で受け止めていた。口を挟まずとも、そこにいらっしゃるだけで、部屋の空気に芯が通る。


「その役は、あんたが引き受ける役かい?」


 それだけおっしゃると、あとは何も足されない。問いは短いのに、胸の奥へ置かれた重みは、お母様の言葉よりずっと大きかった。答えを急かさない沈黙が、今のわたくしにはかえって逃げ場を無くす。


 やがて廊下から、足音が二つ重なって近づいてくる。先に入っていらしたのはお母様で、室内を見回すこともなく、ラーシュが拭き終えた窓のほうを向いた椅子へ進まれた。背をこちらへ向けて腰を下ろされると、きっちり結われた髪が、近寄りがたい線を描く。話し合うための席なのに、その背中はもう結論を告げているようだった。


 少し遅れて、エルザが入ってくる。青みを帯びた灰色の目は、扉のところで一度こちらを捉えたものの、触れれば痛むものでも見るようにすぐ伏せられた。小柄な肩はいつもより強くこわばり、薄い息を胸の内へ閉じ込めている。声をかけたいのに、わたくしの口にはお母様から預かった言葉しかなく、それが急にひどく不似合いに思える。


「お姉様。お母様から、伺いました」


「エルザ。あのね」


「わたし、要りません」


 部屋の空気がぴたりと止まる。妹がお母様の言いつけを断るところなど、わたくしは一度も見たことがない。十五になるこの子が、用意された返事ではなく自分の声を返したのは、わたくしの知るかぎり、これが初めてである。その細い声は、窓辺の光よりもまっすぐに部屋を横切り、わたくしの胸を思いがけず明るく打った。


 椅子の布がかすかに鳴り、お母様がようやく振り向かれる。灰色の目がエルザを捉え、そのまま動かない。


「そういうものではありません」


「そういうもの、って、どなたが?」


 エルザの声は細く、わずかに震えている。それでも震えに負けて消えることなく、まっすぐお母様へ届く高さを保っていた。おばあ様が一度だけ目を上げ、妹を見つめる。その口もとには、笑みになる手前の気配がほんのり宿っている。


「そういうものは、そういうものです」


 お母様は言い直さない。ただ同じ言葉を同じ形のまま、もう一度、動かしようのない重しのように置かれただけである。妹の真似は、やはりこの方には届かない。それでも、エルザの差し出した問いは、その下へ素直に収まりはしなかった。エルザの喉が小さく動き、押し返されそうな言葉を、それでも呑み込むまいとしているのが見える。


「……いいえ。要りません」


「エルザは、まだ十五でございますから」


 考えるより先に、わたくしはお母様と妹のあいだへ割って入る。妹の側を庇い、その代わりに自分の側を一段下げる。十年、そうして場を収めてきたし、その手順なら目を閉じても間違えない。今日もそのつもりで口を開いた。これで丸く収まるのだと、疑うことすらなく。


 けれど、いつものように収まるはずだった場で、妹だけがこちらを向いた。その目には怯えよりも、わたくしを逃がすまいとする強い光がある。


「お姉様が下がると、わたしの行き場が無くなります」


「……エルザ」


「お姉様が一段下がるでしょう。そうしたら、わたしの立つところは、お姉様の上にしか無くなるんです。ずっと。十年、ずっとです」


 わたくしが一段下がるたびに、この子の立つ場所が無くなっていたのだ。


 喉のあたりがきゅっと締まり、すぐには息が通らない。妹は十年、姉が下がる姿を見て、そのぶん自分が望まぬ高さへ上げられるのを見てきた。数えていたのは、贈り物の数だけではなかったらしい。姉の沈黙も、譲った席も、笑って飲み込んだ言葉も、きっとこの子の中には残っている。庭のほうからは、水を撒く音が絶えず届いていた。石を洗う澄んだ音が、部屋の静けさをかえって深めている。


       ◇


 同じ日の夕、エルトハイム邸の台所。煮炊きの熱と香草の匂いが残る中、磨かれた鍋へ傾いた日の光が鈍く映っている。


「オステンの奥方が王都へお見えにならなくなってからも、娘だけは王都に残っていなすった」


「お一人で?」


「さあ。それは、あたしらの知ることじゃないよ」


「聞いたことがございませんね」


「聞いてどうする。おまえさん、聞いてどうするんだい?」


      ◇


 夕の居間には、灯がひとつだけ入れられ、その淡い明かりが卓と椅子の縁をやわらかく撫でている。エルザは扉のそばに立ったまま、まだ裾を握りしめていた。力のこもった指の先は白く、ほどけば声までこぼれてしまうとでもいうようである。窓の外はもう青く暗く、庭の木々も影へ沈んでいるのに、部屋の中だけが橙色に浮かび、わたくしたちの顔を逃げ場なく照らしている。


「で、あんたは?」


「……わたくし、エルザの行き場を塞いでおりました」


 庇ったつもりでいた。けれど、十年かけて上手になったその手つきは、この子の足もとまで一段ずつ削っていたのである。上手だったのは本当で、迷いなく譲り、波風を立てず、誰からも咎められないほど見事だった。だからこそ、削れた量も十年ぶんある。気づいた途端、申し訳なさが胸を刺す。


 そのあたりで、お母様は話が済んだとばかりに席をお立ちになる。娘二人には、もう用が無いという顔で、衣擦れの音だけを連れて出口へ向かわれる。


「では、あなたがエルザをなだめておしまいなさい。フォーゲル家へのお返事は、わたくしがいたします」


 取り替えのお話が消えたわけではない。フォーゲル家へのお返事をなさるのはお母様で、わたくしへ回ってきたのは、妹をなだめる役だけである。こちらの気持ちを尋ねられないまま、役目だけが手際よく配り直されていく。その鮮やかさに、腹が立つより先に呆れてしまい、口の端から乾いた笑いがこぼれた。


 扉が閉まると、居間にはわたくしと妹と、おばあ様とラーシュが残る。灯の芯がひとつ、小さくはぜて、橙の光をふるわせた。お母様の足音が遠ざかるほど、部屋の空気は不思議と軽くなっていく。エルザはまだこちらを見ないまま、裾からゆっくり手を離す。白くなっていた指へ血の色が戻り、それを見たわたくしの肩からも、知らず力が抜ける。


「あんた、下がるのをやめたら、どこに立つんだい?」

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