7. いっそ妹と取り替えては、と申し出がございました
四月十六日の昼。客間では活けかえたばかりの花がみずみずしく香り、その向こうにヘドヴィヒさまがおいでになっている。赤みを帯びた茶の髪には、そろいの櫛が二つ。開け放した窓から、風にざわめく楡の葉音と菓子の甘い匂いが、仲よく連れ立って忍び込んでくる。
お母様は同じ卓につき、灰色の目を伏せたまま茶を注いでいらっしゃる。指輪のない手は、揺れもなく静かに動く。細い水音が、耳の底まで探るように、いつもより長く尾を引いていた。おばあ様は少し離れた椅子で、いつもの干した果物を噛んでいる。ラーシュは扉のそばに立ち、黙って部屋じゅうを見渡している。
「一昨日、こちらの奥方さまにお話ししたのですけれど、やはり、皆さまの前でもう一度」
ヘドヴィヒさまは、そこから長い説明をお始めになる。この方のお話は、いつも三つの言い方で同じところを丁寧に巡り、出発した場所へきちんと戻ってくる。ご自分でも、どれが本当なのか、言葉を重ねながらお探しになっているように聞こえた。
「でも、考えてみましたのよ。あの子とシルヴィさんは、どうも歩幅が合いませんのね」
「歩幅、でございますか?」
「そうそう、歩幅。……ですからね、奥さま」
ヘドヴィヒさまが、お母様のほうへ身を乗り出す。赤みのある茶の髪に挿された櫛が二つ、せわしなく光を弾く。
「いっそ、お相手をエルザさんとお取り替えになっては」
そのひと言で、部屋の空気がすうっと平らになる。窓の外では楡の葉音だけが変わらず続き、茶碗の湯気は何も知らぬ顔で細く立っていた。お母様は茶碗を音もなく置き、しばらく何もおっしゃらない。やがて、春の日ざしほど静かな声で、こうおっしゃる。
「……それも、一つの道ですわね」
その声は、初めて聞くものではない。お母様は一昨日から、この話を胸の内に置いていらしたのだろう。驚きもせず、退けもせず、二日ぶん考えたものを、いま卓の上へ静かに差し出されたのである。伏せられた灰色の目は、わたくしのほうへ一度も上がらない。そのことだけが、小さな棘のように引っかかった。
「オステンの奥方さまからも、ひとつお口添えをいただけましたら」
そう言って、ヘドヴィヒさまは部屋の隅のおばあ様へ向き直る。おばあ様は干した果物をゆっくり噛んだまま、うなずきもなさらない。甘みを確かめるほうが、よほど大事とでもいうお顔である。
わたくしの名は、まだ一度も呼ばれていない。呼ばれないまま、わたくしの十年が、卓の上で菓子皿ほど気軽に右から左へ動かされようとしている。膝の上では、片方の手がもう片方をきつく押さえ込んでいた。背筋だけはまっすぐに保てているのに、指の先はやはり冷たい。どうやら指先だけは、わたくしよりずっと正直らしい。
「シルヴィさんには、もっと落ち着いた方が向いていらっしゃるわ。ねえ、そうでしょう?」
「エルザは、わたくしより物覚えがようございますから」
申し上げたとたん、自分の言葉が耳の奥へ戻ってきて、ちくりと刺さる。本当のことである。妹は覚えが早いし、そのことを誇らしく思ってもいる。ただ、いまは、それを言う場ではなかったのだ。肩のあたりへ、目には見えない重しがまたそっと乗ってくる。自分で自分を小さく包んで差し出すなど、ずいぶん気前のよい真似をしたものだ。
「まあ、お庭が見事ですこと。この楡は、いつごろの木ですの?」
ヘドヴィヒさまは窓の外を指さし、その勢いのまま席をお立ちになる。困ったお話を風景で包み、きれいに結んだことになさるのが、この方はたいそうお上手である。お母様が女中を呼び、卓ごと庭へ移すよう、静かな声でお命じになった。どうやら楡まで、この話のお相手をさせられるらしい。
◇
庭の卓には、あらためて茶が並べられる。四月の日ざしが芝の先を白くきらめかせ、風が渡るたび、楡の葉裏が淡い銀色に翻った。湿った土と若い草の匂いが、部屋にこもっていた菓子の甘さを、ぐんぐん押しのけていく。皆さまが腰を下ろすなか、おばあ様だけは座ろうとなさらない。ただ立っていらっしゃるだけなのに、庭の中心までおばあ様の足元へ移ったように見えた。
卓には水差しが足りない。女中は菓子を取りに戻っているため、わたくしが空の水差しを手に、生垣の向こうの井戸端へ回ることになる。皆さまの視線から外れられるなら、このお使いはむしろありがたい。
「シルヴィ」
名を呼ばれ、思わず振り返る。ラーシュは荷を持っていない。左の眉を横切る古い傷が、日ざしの下で細く白んで見えた。その下の目だけは、まっすぐにわたくしを見ている。
「シルヴィ。いま、自分を値切ったな」
「……値切る、とは」
「東の市でな、売る側が自分から値を下げることがある。あれは、早く終わらせたい顔だ」
「……早く終わらせたいのは、本当ですわ」
「そうか。おれの村じゃ、先に値を下げた者から、荷を積まされる」
耳のうしろから、じんと熱が広がる。名を呼ばれたのは初めてである。この方はこれまで、わたくしを「あんた」としか呼ばなかった。それなのに、わたくしの名という短い響きが、思いがけず深いところへ落ちてくる。生垣の青い匂いまで、急に濃くなったように感じられた。呼ばれただけで、なぜ首の後ろまでこんなに熱くなるのか、わたくしには分からない。水差しの取っ手が掌の中でつるりと滑り、危うく足元へ落ちかけた。
卓へ戻ると、ヘドヴィヒさまは同じお話を、三つ目の言い方で念入りになさっている。おばあ様は座らないまま、獲物のまわりを測る猫のように、卓のまわりをゆっくり歩いていらした。足音は芝へやわらかく吸い込まれ、裾のこすれる音だけが風の合間にかすかに鳴る。誰もそちらを見ないふりをしているのが、かえってよく分かる。
「で、それが、あんたを取り替える理由かい?」
今度は、わたくしへまっすぐお尋ねになったのである。喉まで出かかった言葉を選べずにいると、おばあ様はヘドヴィヒさまの後ろでぴたりと足をお止めになる。その小さな動きだけで、庭の風まで続きを待つように弱まった。
「その話は、誰に先におっしゃったんだい?」
「……え?」
「順に、おっしゃってごらん」
「まず、こちらの奥方さまに。それから、うちの人へ相談を」
おばあ様の首が、卓の向こうへゆっくりめぐる。干した果物を噛んでいた口元には、笑っているのかいないのか分からない、細いしわが浮かんでいる。
「奥方。あんたは、いつ聞いたんだい?」
「……一昨日の夜でございます」
「ふうん。よく分かったよ」
おばあ様は、それきり何もおっしゃらない。ただ、口の端がほんのわずかに上がった。黙ったまま、皆さまの胸の内を順にひっくり返して眺めているようなお顔である。
わたくしが聞いたのは、いちばんあとだった。
誰も嘘をついていない。ヘドヴィヒさまは順序どおりに礼を尽くし、お母様は落ち着いてお聞きになった。どこにも無礼はなく、どなたの手袋も汚れていない。ただ、その整った順序のいちばん終わりに、わたくしだけが、忘れ物のように置かれている。それだけのことなのに、喉のあたりだけが重くなり、庭の茶の香りが急に遠のいた。けれど、先ほど呼ばれた自分の名だけは、耳の奥で思いのほかあざやかに残っている。
ヘドヴィヒさまが、はっとしたように扇をお閉じになる。ぱちん、と乾いた音が庭へ響き、ご本人までその音に驚いたお顔をなさった。
「……あの、わたくし、そういうつもりでは」
「そうでございましょうとも」
お母様は取り下げない。灰色の目をまっすぐ前へ据えたまま、茶を一口召し上がる。取り下げないことと、押し通すことは違う。この方はただ、いったん置いたものを、置いたままにしておかれるだけである。波さえ立てずに流れを変える、それがお母様のやり方なのだ。わたくしはその静けさをよく知っているからこそ、どこへ運ばれるのかを考えずにはいられない。
◇
同じ日の夕、王都の仕立て屋の裏である。西日を吸った煉瓦壁のそばで、仕事上がりの女たちが糸くずを払いながら声を潜めていた。とはいえ、好奇心というものは、潜めた声ほどよく通る。
「オステンの奥方が、王都の縁組に口を出しなすったって?」
「三十年、そんな話は聞いたことがないよ」
「では、今度が初めてで」
「初めてだね。……あの方が動くと、たいてい、どこかの家が静かになる」
◇
庭の光は、いつのまにか低くなっていた。楡の長い影が卓の上まで伸び、茶碗の縁を斜めに切っている。風はぬるく、昼よりも草の匂いを濃く運んでくる。
「で、あんたは」
三人の目が、いっぺんにこちらを向く。ここで「ええ、そのほうが」と申し上げれば、今日のうちに全部が丸く収まる。十年、そうしてきたのだから、その言い方なら舌のほうがよく覚えている。考えるより先に笑ってうなずき、誰にも手間をかけさせない。わたくしが得意としてきた、たいそう便利な答えである。けれど、先ほどラーシュに言われた「値切ったな」が、小石のように靴の中へ残っていた。
息を吸う。ぬるい風と草の匂いが胸に入り、ゆっくり吐き出す。それから、舌が選んだのは、いつもの答えではない。
「……少し、考えさせてくださいまし」
申し上げた瞬間、誰より近くで聞いたわたくし自身が、その声に驚いた。断ってはいない。承知もしていない。ただ、今日のうちに決めないでほしいと申し上げただけである。それだけのことなのに、胸の奥は柵を越えた馬のように跳ね、膝の上の手は汗ばんでいた。掌を裾でそっと拭う。それでもまだ湿っているのが、少しおかしくて、ほんのわずかに口元がゆるむ。
ヘドヴィヒさまが、扇を持ったまま目を丸くなさる。お母様は何もおっしゃらない。ただ、灰色の目がほんのわずかに上がり、今度こそわたくしを映した。
生垣の向こうに、蜂蜜色の髪を巻いた頭がのぞいている。エルザである。若葉の隙間から見えるその姿は、春の光へ溶けそうに淡い。いつからそこにいたのかは分からない。青みの灰色の目が、こちらを見ていたのかどうかも分からない。それでも、妹の指が生垣の葉を強くつまんでいるのだけは、はっきり見える。
「明日は、あの子の番かねえ」




