6. では、どうすればよかったのか、と初めてお訊きになりました
四月十四日の朝。玄関広間の石の床には、夜の冷たさが薄青い影のように残っている。履の底から忍び上がる冷えは踝のあたりで行儀よく止まり、それより上へ来る気はないらしい。窓ぎわに立って外を見れば、庭の芝を淡い霧が名残惜しそうに這い、朝日を受けた雫がかすかに光っている。おばあ様がこの扉を外から蹴り開けたのも、ちょうどこんな時刻である。
昨日、フォーゲル邸から帰ってきてから、この家では誰も昨日のことを口にしない。お母様は朝の卓で一口も召し上がらず、匙を置いたまま、湯気の向こうに目を伏せていらした。お父様は種苗の話ばかりなさり、言葉が途切れるたび、部屋の空気まで音もなく薄くなる。わたくしはその頼りない隙間へ、いつものように当たり障りのない言葉を置こうとして、とうとう何も見つけられぬまま朝を過ごしている。沈黙を包む言葉なら得意だったはずなのに、今朝ばかりは包みの端さえつかめない。
今、広間に居るのは四人である。おばあ様と、ラーシュと、朝の新聞代わりに窓の外を眺めていらっしゃるお父様と、わたくし。お父様の顔は窓辺にきちんと向いたまま、こちらへ加わる気配がない。お母様は朝から奥の部屋にこもっていらっしゃり、閉じた扉の向こうだけが、この家から切り離されたように静かである。
おばあ様は広間の真ん中に立ったままでいらっしゃる。短い白髪の上には藍の布がきりりと巻かれ、旅装さえまだ解いていらっしゃらない。背は低いのに、この高い天井の下でいちばん大きく見えるのが、いつ見ても不思議である。旅装には街道の匂い――泥と、馬の汗と、どこかで焚いた火の匂いが染みつき、朝の冷気へ細い筋となって混じり、この家の行儀のよい空気を遠慮なく押しのけていた。ラーシュは荷を担いだまま、扉のそばで静かに待っている。黒に近い茶の短髪はまだ湿り、毛先の雫が首筋へ消えていく。
やがて、門の向こうで車輪が砂利を噛む音がし、リヒャルトさまがお一人でいらした。明るい金の巻き毛は朝の光をすくい取り、こんな朝にも申し分なく整っている。けれど、お父上もお母上も、今日はついてこない。馬車から降りるとき、この方の指は袖口を一度だけ直した。その小さな仕草だけが、整いすぎた姿の内側にある迷いを、うっかり外へこぼしている。
「シルヴィ嬢。……いえ、オステンの奥方さまに、伺いたいことがあって参りました」
誰も座らない。椅子を勧める者もいない。朝日だけが床を白く照らすなか、広間の高い天井へ、リヒャルトさまの声だけが場違いなほどよく響いた。返事を待つ静けさが、その余韻をゆっくり飲み込んでいく。
「では、どうすればよかったのか。教えていただきたい」
この方が誰かに教えを乞うところを、わたくしは見たことがない。十年、どんな出来事にも、いつも先にきれいな理由をお持ちだった方である。教えていただきたい、とその唇からこぼれるのを聞くのは、これが初めてだ。驚きが指の先まで小さく走り、そのあとから、名をつけにくい期待がそっと顔を出す。青い目は逃げずに、まっすぐおばあ様のほうを向いている。
おばあ様は答えない。袋から干した果物をもうひとつ取り出して、眺めもせず口へ放り込まれただけである。答えない、という形の、たいそう分かりやすい答え。噛む音が広間の石へわずかに響き、皆の耳がそこへ集まった気さえした。
「オステンの奥方さまが、私の家を、その……ほどいてしまわれましたので」
言い足されても、おばあ様は同じである。噛む口も、目の高さも、藍の布の端さえ変わらない。やがてリヒャルトさまの目が、答えの代わりを求めるようにこちらへ向く。幼いころから見慣れた目なのに、今日は受け止める場所が、どこにも見つからない。
わたくしは何か申し上げようとして、言葉を喉のところでのみ込む。言葉が無いのではない。この場を丸く収める言い方なら、花籠から花を選ぶほどたやすく、いくらでも浮かぶ。ご心配には及びません。行き違いでございましょう。どれも、口の形さえ作れば、笑みと一緒にするりと出てくるものばかりである。けれど、今朝だけはそれを差し出してはいけない、と小さな手が裾を引く。浮かばないのは、そのどれもが、この方の問いへの答えではないからだ。
沈黙が伸びていく。長い沈黙は、この家ではいけないものとされている。床に穴でも開いたように、誰かが急いで埋める。たいていは、わたくしの役目だ。けれど今朝は、息を吸っても途中でぶつかるばかりで、声のところまで届かない。怖いのに、埋めてしまうほうがもっと怖い。そのことが、わたくしには新しかった。
その沈黙を埋めたのは、結局、リヒャルトさまご自身である。問いを置いたその口で、すぐに答えまで差し出される。
「では、来月の初めに。今度こそ二人で参りましょう。埋め合わせは、それでよろしいでしょうか?」
「……お気遣い、痛み入ります」
そう申し上げた途端、口の中がいっそう乾いていく。いつものように場は丸く収まったはずなのに、胸の内には細かな砂でも残ったようなざらつきが消えない。わたくし自身の声で蓋をしたのに、その下から、これではない、と心がこつこつ叩いている。
「あぁ、良かった……」
そのとき、荷を担いだままのラーシュが、わたくしではなくリヒャルトさまへ顔を向け、口を開く。緑がかった目にはためらいがなく、まっすぐわたくしの婚約者の顔を見ている。その視線には、貴族への遠慮も、場を丸めるための飾りもなかった。
「訊いたなら、答えるまで待てよ」
広間の空気が、はたと止まる。窓辺の淡い光まで固まったようで、誰かの息がひどく近くに聞こえる。
「……いま、なんと?」
「訊いた口はあんたの口だ。待つのも、あんたの口でやることだ」
リヒャルトさまは眉をお寄せになり、それから、言葉を探すように立ったまま動かなくなる。けれど、ご自分の問いをまだ取り下げてはいらっしゃらない。庇われたのではない、とわたくしは思う。そう思うと、甘い安堵ではなく、背筋をまっすぐにするような熱が胸へ差した。この人はただ、訊いておいて待たないのは順が違う、と言っただけである。けれど、その当たり前をわたくしの前で口にした人は、これまでいない。
わたくしは、履の底で石の冷たさを確かめながら、広間の真ん中へ進み出た。心の臓が耳の裏で鳴り、襟元の布までかすかに震えている。襟飾りのことを申し上げたときは、廊下で、おばあ様と二人きりだった。今日は、当のご本人の前である。この一言は、そこに立っている方へ必ず届く。聞こえたうえで、それでもわたくしは言わなければならない。逃げ道をふさぐように指を組むと、関節がいつにも増して冷たかった。けれど、その冷たさのおかげで、立っている場所だけははっきり分かる。
「おばあ様。いま、埋め合わせの日が、決まりました」
起きたことを、一つ、目の前へ置く。それだけである。誰も責めていないし、何も頼んでいない。ただ、いつもなら丸めて隠す角を、今朝は角のまま見せた。胸の奥で、固く結ばれていた糸がわずかにゆるむ。
「三つ目だね。ずいぶん、早くなったもんだ」
褒められたのではない。そうなっている、と言われただけである。それでも、しまい込んでいた小さな灯を見つけてもらったようで、顔の芯がぱっと熱くなる。わたくしはとっさに自分の頬へ指を当てた。頬のほうが、冷えた指よりずっと温かい。その温度が妙に可笑しくて、張りつめていた口元がほんの少しゆるんだ。
「あんた、いまの問いを、もういっぺん声に出してごらん」
おっしゃった先は、わたくしではない。促されたのは、リヒャルトさまである。おばあ様の目が、逃げ道をきっぱり閉じるように、その整った顔へ据えられている。
「……では、どうすればよかったのか。教えていただきたい……ですか?」
二度目の声は、一度目より低く、磨かれた靴の先へ落ちるように頼りない。けれど、ご自分の声は高い天井のあたりまで昇り、少しだけ長く残った。その余韻を聞くリヒャルトさまの眉間に、薄い影が寄っている。
「その問いは、あたしにじゃないだろう?」
リヒャルトさまがはっと顔を上げる。おばあ様は指も立てず、声も高くしない。ただ、果物を噛む口がそこで一度だけ止まり、笑っているのか試しているのか分からない目が、まっすぐリヒャルトさまを捉えている。
「あんた、いま、誰に訊いたんだい?」
「……あなたさまに、でございます」
「そうかい。分かったよ」
声に出してみても、この方は、ご自分の問いがどこを向いているのかに気づかれない。ご自分の家がほどけたのだから、ほどいた人に訊けば直せる。その筋道は、この方の中でまっすぐ通り、きっと今まで疑う必要さえなかったのだと思う。意地悪なのではない。ただ、わたくしがその道の外側に立っていることを、まだ見つけていないのである。そのことが、いまは前よりもくっきり見える。
リヒャルトさまは助けを求めるようにお父様をご覧になった。窓辺に逃がしていたお父様の視線が、しぶしぶ広間へ戻ってくる。お父様は笑って締めようとなさるが、その笑みはきれいに広がりきらず、途中でこうおっしゃる。
「まあ、そういうことは、当人同士でな」
笑い声が、行き先をなくして途中で床へ落ちる。お父様は、決める人の席から、ご自分でそっと降りてしまわれた。誰も責めず、何も決めないその軽い言葉が、かえって空いた席の形をはっきり見せている。この家の決めごとが誰の口から出ていたのかを、わたくしはいま、初めて数えている。見慣れた広間なのに、家具の置き場所まで違って見えた。
◇
同じ日の昼、王都の茶館。磨かれたガラス窓から陽が差し、飴色の茶には湯気が細く立っている。焼き菓子の甘い香りと皿の触れ合う音のあいだを、エルトハイムの朝の話が、もう軽やかに渡っていく。
「フォーゲルの若様が、朝からエルトハイムへお一人でいらしたそうだよ」
「東のご隠居が、まだご滞在とか」
「あの方に世話になった家はね、砦の話だけじゃないんだよ」
「そんなにでございますか?」
「だから、どこも黙っているのさ」
◇
玄関広間の窓から差す光は、まだ朝の顔を残している。床の石の上を、その光が指の幅ほど動いただけ。この広間では、誰もまだ座っていない。遠くで庭の鳥が鳴き、止まった話を急かすように、窓ガラスがかすかに震える。
「で、あんたは」
「……わたくし、考えたことがございませんでした。一度も」
声は、自分でも驚くほど小さく、胸の前へ落ちる。けれど、消えはしない。広間の静けさが、わたくしの言葉をそっと受けるように、残さず拾っていく。
考えるより先に、いつも場を直す手のほうが動いていた。
どうしてほしかったのか。そう訊かれる日が来るとは思っていなかったし、来たときのための答えも持っていない。持っていないものは、どれだけ喉を探しても出てこない。舌の上には、乾いたものがまだ残っている。それでも、答えが無いことを恥じる気持ちは、さきほどより薄かった。知らなかったのなら、これから知ればよい。生まれたばかりのその考えは、春の芽ほど小さいのに、思いのほか頼もしい。
◇
庭へ出ると、日はもう昼の高さまで昇っている。楡の下では、おばあ様が藍の布を巻き直していらっしゃる。若い葉を透かした光が肩や地面で揺れ、風が通るたび、明るい模様になってほどけていく。リヒャルトさまの馬車は、とうに門を出ていった。芝はまだ濡れ、履の先から冷たい水がじわりと滲みてくる。朝の霧が退いたあとの土は、湿った匂いだけを濃く残している。さっきまで胸に詰まっていたものまで、その匂いにゆるめられるようだった。
「おばあ様。……あの方に、悪気はございませんの」
「だろうね」
「はい」
おばあ様は布の端を歯で噛み、きゅっと結ばれる。大きな手が、結び目を確かめるように布の上をひとつ滑った。春の光を受けた横顔には、急かす色も、哀れむ色もない。ただ、答えが育つのを面白がって待っているように見える。
「あの子に訊かれて、嬉しかったかい?」
「……嬉しゅうございました」
答えてから、自分の声が思ったより速く飛び出したことに気がつく。答えられなかったのに、嬉しかったのである。十年、誰も訊かなかったことを訊かれ、わたくしの喉はあんなに乾いたというのに、胸のほうは、閉め切った窓を春風が押し開けたように、勝手に温かくなっていた。分からない、と口にできた場所には、恥ずかしさだけでなく、これから考えてもよいのだという余白が生まれている。そう思えば、この温かさにも、少し笑いたくなるような名前をつけられそうだった。
「そうかい。じゃ、まだ何も終わっちゃいないね」
「……え?」




