5. 照れ隠しでしたら、もう一度おっしゃって
四月十三日の朝。淡い日差しの入るフォーゲル邸の応接には、昨夜の夜会を飾った花がまだ活けてあり、花の色は鮮やかなのに、水はかすかに傷んだ匂いを放っている。ヘドヴィヒさま、レナルトさま、リヒャルトさま。わたくしとおばあ様とラーシュ。それから、呼ばれてもいないのにお母様までいらしていた。お母様は灰色の目を伏せ、いつでも抜け出せる場所を選んだように、扉のいちばん近くに座っていらっしゃる。
ヘドヴィヒさまはひどくご機嫌で、茶が注がれるのも待たずに話しはじめる。赤みを帯びた茶色の髪は朝の光を受け、部屋の気まずさなど知らぬように、つやつやと輝いていた。
「あの子は、好きな相手ほど、意地悪をするのですわ」
「ええ、存じております」
わたくしは、いつもの笑みを崩さずにそう申し上げる。そう口にすれば場が丸く収まるからで、十年のあいだ、胸の引っかかりを飲み込み、そんな言葉ばかり上手に選べるようになっている。
「お分かりいただけて嬉しいわ。ねえ、そうでしょう?」
「……はい」
ラーシュは壁ぎわに立ったまま、何も言わない。いつもなら、いちばん先に口を挟む人である。その人が今朝は口を挟まなかった。ただまっすぐにこちらを見ている。急かす目ではない。わたくしの言葉が生まれるのを待っているのだと気づいたとたん、指の先からすうっと熱が引いた。
おばあ様が茶碗を置く。底が受け皿に触れ、澄んだ音が部屋の静けさへ小さな穴を開ける。
「照れ隠しでしたら、もう一度おっしゃいまし。はっきりと」
ヘドヴィヒさまは唇の端をこわばらせ、それでも同じところから言い直す。
「ですから、あの子は、好きな相手ほど意地悪を――」
「〈意地悪〉のところを、その劇場のことで言ってごらん」
二度目のヘドヴィヒさまは、先ほどまでの明るさを頬から消し、長いまつげの下へ目を伏せている。
「……妹さんを劇場へお連れしたのは、シルヴィさんの気を引くために」
おばあ様は、何もおっしゃらない。うなずきもせず、否みもせず、湯気の向こうから、ただ続きを待っている。その沈黙には、逃げ道をきれいにふさぐ妙な力があった。
部屋がしんと静まり、その静けさが濡れた布のように、じわじわと肩にのしかかる。誰かが引き取ってくれるのを待つ顔で、ヘドヴィヒさまは一同を見回した。レナルトさまは杯の中へ目を落とし、リヒャルトさまは膝を見つめている。けれど、誰も引き取らない。
ヘドヴィヒさまの口が、とうとう止まる。けれど、静けさのほうがつらかったらしく、今度はそれを埋めるように、ご自分で言葉を足していく。三度目がいちばん長かった。
「……ですから、十年、そうしてきたのですわ。この子なりに」
その言葉を境に、張りつめていた部屋の空気がようやく動く。最初にその苦しい理屈から降りたのは、レナルトさまである。
「ヘドヴィヒ。十年は、照れ隠しとは言わん」
ヘドヴィヒさまの視線が鋭く跳ね、ご主人からご子息へ、矛先ごと移る。
「あなたがそうおっしゃったのでしょう!」
「母上。私は、そんなつもりでは」
「では、どういうおつもりだったの?」
「……」
フォーゲル家のご一同は、とうとう互いに言い合いを始める。その真ん中で、おばあ様は一言も口を挟まない。干した果物をゆっくり噛み、面白い見世物でも眺めるような涼しい顔で、茶をすすっているだけである。
◇
同じ日の昼、フォーゲル邸の台所。煮炊きの湯気と皿の触れ合う音のあいだを、朝の出来事が、焼きたての菓子よりも早く広がっていた。
「奥様が、三度おっしゃり直されたんですって」
「三度目が、いちばん長かったわ」
「聞いてらしたの?」
「扉の外までまるごと。旦那様のお声のほうが、よほど短くて」
◇
言い合いがようやくやみ、応接に静けさが戻る。茶はすっかり冷めていて、湯気の立たない茶碗が三つ、話の決着を待つように卓の上へ残されている。
「で、あんたは」
部屋にいる全員の目が、いっせいにわたくしへ集まる。ここで丸く収めるための言葉なら、いくらでも出てくる。どれも喉のところまで来て、行儀よく順番を待っている。十年ぶん、わたくしはそればかり並べてきたのだから。
ご一同はお疲れでしょう。行き違いでございましょう。わたくしが早とちりをいたしました。――どれもよく磨いた皿のように、つるりと本当らしく響く。どれを選んでも、今日のうちに全部が元へ戻るだろう。けれど、戻ったところで、また四月が来るだけだ。そしてわたくしは、同じ言葉で同じ気持ちを包み直すのである。
窓辺の花から漂う、甘く傷んだ匂いが、さっきより鼻につく。ラーシュはまだ、何も言わず壁ぎわに立っている。急かしもせず、うなずきもしない。その静かな目で、わたくしが自分の言葉を見つけるまで、そこにいると決めているらしい。
けれど、喉を押し開いて出てきたのは、用意してきた言葉のどれでもない。
「わたくし、嬉しくありませんでした」
こぼれた声は、自分でも驚くほど低い。責めるためでも、すがるためでもない。ただ、十年ぶん胸の奥へしまってきた本当のことを一つだけ、冷えた卓の上へ、そっと置く。
言ってしまってから、手が震えていることに気がつく。膝の上では、片方の手がもう片方を懸命に押さえている。けれど、誰も怒鳴らず、誰も泣かない。部屋にあるのは、ただ澄みきった静けさだけである。十年ぶん我慢して、ようやく出てきたのがこの一行きりとは、われながらずいぶん控えめだ。
たったそれだけなのに、言い終えたあとの胸の内は、風を通した部屋のように妙に広い。八つのころに下ろした蓋が、いま、指の幅ほど浮いている。その隙間から入る空気は頼りないほど細く、それでも驚くほど軽い。
リヒャルトさまが、黙った。
どこかで、扉の蝶番が小さく鳴る。その音が消えても、誰も次の言葉を継がない。十年ぶんの言い訳がぎっしり詰まっていた部屋は、たったそれだけの本音を置かれ、急にがらんと広くなる。
お母様が、席を立って出ていかれた。
◇
玄関先までお送りすると、おばあ様は荷をひょいと担ぎ上げる。朝よりぬるい風が庭先を渡り、藍の布の下から少しはみ出した白い髪を揺らしていく。節くれ立った手は迷いなく、荷の紐をぐいと締め直す。
「一度に、一つだけだからね」
「……はい」
「言いつけるのが上手になったとは、まだ言わないよ」
「はい」
「あんた、さっき、あたしのほうを見なかったね」
そう言われて、初めて気がつく。あの一言を口にしているあいだ、わたくしはおばあ様を一度も見ていない。見ていたら、きっと言えなかった。
「で、次は、いつ呼ぶんだい?」




