4. 東の砦で、麦を召し上がった方から順に
四月十二日の昼。ローゼンベルク侯爵家の夜会を前に、屋敷じゅうを衣擦れと足音がせわしなく行き交っている。お招きはエルトハイム家へ届いており、お母様は迷いなく「エルザを出しましょう」とお決めになった。実に手際がよい。わたくしには、一言も無い。供の届けも御者と侍女の二人ぶんだけで、そこにおばあ様とラーシュの名は入っていなかった。おばあ様をお連れになるおつもりなど、はじめから無かったのだろう。
「ええ、そのほうが」
わたくしは、口元だけをいつもの形に整えてそう申し上げる。十年、胸の奥を小さく畳んでは、同じように申し上げてきた。
おばあ様は椅子から動かない。干した果物をゆっくり噛みながら、屋敷じゅうの騒ぎなど春の風ほどにも気に留めず、片手をひらひらと振ってみせる。
「あたしは呼ばれてないよ」
「……はい」
「呼ばれてないんだから、行かないよ」
言いつければよいのだと、頭では分かっている。分かっているのに、口だけが妙に礼儀正しく閉じたままだ。頼むというのは、相手の一日をこちらの都合で使わせること。使わせてよい理由を、わたくしは自分の中にどうしても見つけられない。灰色の目がそんな迷いをしばらく眺め、すっかり見透かしたように、やがてにやりと細くなる。
「この家からは呼ばれてない。けど、ローゼンベルクの婆さんからは三十年前に呼ばれてる」
お母様の手が、そこでぴたりと止まる。招かれてもいない先の伯爵夫人が、旅装のまま単身で侯爵家の門をくぐる。そんな姿を想像なさったのか、指先だけがかすかに強張った。エルザ一人を出すより、そちらのほうがこの家にはよほど困るのである。
「……シルヴィ。あなたがお付きなさい」
訊く声ではない。決まったことを伝える、よく磨かれた冷たい声である。十年、わたくしの返事を待たずに、あらゆることがこの声で決まってきた。
「……はい、お母様」
断る言葉を探す間もなく、侍女の櫛がもう髪をすべりはじめている。櫛の歯が通るたび、わたくしの返事まで身支度の中へ縫い込まれていくようだ。おばあ様とラーシュのぶんは、どなたのお供として届けを出すのかさえ決まらないままである。
◇
夜。侯爵邸の大広間には、蝋の甘い匂いと人いきれが厚くこもり、燭台の金色は高い天井へ届く前に闇へ溶けている。楽の音は明るく高いところを巡り、話し声はその下で重たくよどんでいる。おばあ様は誰にも紹介されないまま、旅装を改めただけの地味な装いで、その華やぎを割るように壁ぎわを悠々と歩いていく。
四人が、波のように順に立ち上がった。
どなたも王都の当主で、いまは髪に白いものが混じっていらっしゃる。杯を持ったまま、誰も腰を戻そうとはなさらない。おばあ様はその一人ずつの前で足を止め、名乗りもせず、昔話の続きを始めるような気軽さで、同じことを一言ずつおっしゃる。
「二十八年前の冬、東の砦にいなすったね。麦をお出ししたね」
「あの冬は三月、麦だけだったね」
脅してはいない。何かを求めてもいない。ひとことも用向きをおっしゃらず、ただ憶えていると告げただけだ。それなのに、四人の顔から、春の広間には似合わぬほどさっと色が引いていく。おそらく、求められたほうがずっと楽なのである。求められれば、断るか受けるかを選べる。憶えていると言われただけでは、選ぶものが何も無い。逃げ道だけをきれいに塞がれた四人目が、リヒャルトさまのお父上、レナルトさまだった。
そのとき、家令が絨毯に足音を吸わせながら、わたくしどもの後ろへ静かに寄ってくる。四人の当主が立ってお迎えするのを見ていたからだろう、お年寄りのほうには何も訊かない。丁寧な視線が後ろへ滑り、問いを向けられたのは、そこに立っていた者である。
「恐れ入ります。そちらの方は、どちらのお供でいらっしゃいますか?」
ラーシュは荷を持たない手を、ゆっくり脇へ下ろす。
「ラーシュ、とだけです」
「……ご身分は?」
辺境では姓を使わないのだと、昼に聞いている。家令が求める形の名を、この人は持っていない。礼を崩さぬまま、家令の目だけが、どこの供でもない者を見る冷たさへ変わる。
「では、外でお待ちいただけますか?」
家令は正しい。届けが出ていない以上、そう扱うのが屋敷の務めである。正しさというものは、扉よりもきっちり人を外へ分けるらしい。ラーシュは何も言わず、一歩下がった。おばあ様の供だと言えば、それで済む。けれど、そう言えば、では奥方さまのお届けはどちらに、と話は必ずそこまで及ぶ。だからこの人は、供だとは名乗らず、黙って自分だけを外へ出すのだろう。
名を出さずに、一歩さがっただけである。わたくしが十年してきたことに、あまりによく似ている。まるで不意に鏡を見せられたようで、胸の奥がざわめく。――少なくとも、わたくしにはそう見えた。緑がかった目は、床の一点に縫い止められている。
十年、この場を丸く収めるために、言えなかった言葉を持って帰っていたのはわたくしだった。今夜、それを持たされるのは、この人である。燭台の光が、下がった肩の線を細く縁取り、華やかな広間からそこだけをそっと切り離している。
胸の奥で、心の臓が急に大きく脈打ち、どくんと内側を叩く。喉はからからに乾いている。それなのに、ずっと閉じていた蓋だけが、内側からひとりでに持ち上がった。
「その方は、オステン伯爵家の方でございます。お届けが出ておりませんのは、わたくしの家の落ち度でございます」
声は思ったよりも澄んで広間を渡り、その響きに驚いたのはわたくし自身である。家令が、絨毯の上でぴたりと足を止める。
「わたくしの供として、いま届けを出させてくださいまし。エルトハイム伯爵家の名で」
おばあ様の供だとは、わたくしも言っていない。言葉の隙間へするりと道が開き、胸の奥で小さな火花が弾ける。――こんなふうに口を使うのは、存外、悪くない。
「……かしこまりました。お名前を、こちらへ」
家令が控えの者を呼び、その場で名を告げさせる。ものの数呼吸で済む手続きだ。ただ、どこかの家が〈うちの供です〉と引き受けるまで、この人は扉の外に立たされる。人を内と外に分けるには、それだけで足りるらしい。
おばあ様は一言も言わない。壁ぎわの椅子で、すべて承知とでもいうように干した果物を噛んでいる。ラーシュが、目を丸くしてこちらを見ていた。
◇
控えの間では、侍従が二人、扉の陰で声を潜めている。
「四人だ。四人とも、一冬だけ東へやられてる」
「なんで王都の若様が東へ?」
「昔は、そういうものだったんだ」
◇
帰りの馬車は暗く、車輪が石畳を噛む音ばかりが箱の内へ大きく響く。窓の外では、王都の灯が細い尾を引いて後ろへ流れていく。隣のエルザは、乗ってすぐわたくしの肩へもたれて眠ってしまい、規則正しい寝息と温かな重みを預けている。
「で、あんたは」
「……わたくしは、何も」
「さっき、口が開いてたじゃないか?」
「あれは、ラーシュさんのことでございますから」
「そうかい。他人のためなら口が開くんだね」
答えられず、わたくしは膝の上で指を組む。相変わらず冷たい指であるのに、胸の奥には、先ほど声を出したときの熱がまだ小さく残っている。誰かのためなら、この口は驚くほど早く開くのに、自分のこととなると、見えない鍵がかかる。同じ口で、同じ息で言うだけなのに、なぜ片方だけがこんなに重いのか、わたくしにはまだ分からない。ただ、開くことはできるのだと、今夜のわたくしがもう知っている。
別れぎわ、フォーゲル家の馬車の扉が開き、ヘドヴィヒさまが夜気とともに降りてきて、わたくしの手を取る。赤みの茶の髪には、灯を受けて艶めくそろいの櫛が二つ。握られた手から、ためらいのない温かさが伝わってくる。
「あの子は、好きな相手ほど、意地悪をするのですわ。照れ隠しですのよ」
「へえ。そりゃ、明日うかがおうかね?」




