3. その贈り物は、十年ぶん妹のものでした
二日後の朝は、雨に包まれていた。窓の外では、楡の幹も枝も濡れ、墨を塗ったように黒く光っている。廊下の冷えた空気とともにお母様がわたくしの部屋へ入ってくると、挨拶より先に卓の上の襟飾りを取り上げる。先月リヒャルトさまからいただいた、冬の名残をやわらかくほどくような春の色のものである。
いただいたときのことは、指先の温度までよく憶えている。包みを解くまでの短いあいだ、胸の奥がくすぐったく、指先だけが妙にあたたかかった。その色が目に飛び込んだ瞬間、これはわたくしのために選んでくださったのだと、つい信じてしまったのである。そう思えたこと自体が小さな贈り物のようで、しばらくのあいだ、鏡を見るたび機嫌がよかった。
「エルザのほうが似合うもの」
灰がかった金の髪を隙なく結い上げたお母様の後ろ姿には、迷いの影ひとつ無い。指輪をしていない手が、淡い布の端を丁寧に揃え、襟飾りをきれいに畳んでいく。その手つきがあまりに慣れていて、胸の内側だけが、ほんの少し遅れて冷える。
「ええ、そのほうが」
わたくしはいつもの調子でそう答える。喉のあたりに小さな石でも置かれたような重さが残るだけで、それ以上は何も起きない。十年、こうして胸の内を平らにならしてきたのだから、黙って笑う腕前だけは立派なものである。
「お前には、そういう色は似合いません」
「はい、お母様」
返事が落ちたあとの隙間を、雨の音が窓いっぱいに広がって、きれいに埋めてくれた。誰も次の言葉を探さずに済む。この屋敷は、人の心より先に、そういう隙間の埋め方だけを覚えたらしい。
◇
昼になるころ、雨はようやく上がった。廊下の窓から洗い立てのような白い光が差し込み、磨かれた床に、揺れる葉のまだらな影を落としている。湿った木と土の匂いが、開いた窓の隙間から流れ込む。荷紐を結び直していたラーシュが、わたくしの足音に顔を上げた。黒に近い茶の短髪には埃がうっすら乗り、雨上がりの光の中で妙に目立っている。
「返せって言えばいいのに」
「言えば、妹が泣きます」
「泣かせりゃいい。おれの村じゃ、泣くのは怪我してるときだけだ」
「……そちらでは、悲しくても泣きませんの?」
「泣くひまがない。雪が来る」
あまりに乱暴で、しかも妙に筋の通った言い分に、わたくしはこらえきれず笑ってしまった。口元だけで形を作る笑いではない。腹の底からふいに弾け、廊下の高い天井へ軽やかに跳ねていく、本物の笑いである。ラーシュは少し目を見開き、なぜかばつが悪そうに目を逸らす。
笑いの名残を含んだ息が、胸のつかえをやさしく撫でるように抜けていく。人前で笑うことなら十年ずっと続けてきたけれど、あれは口の形を整え、相手が安心する顔を差し出す仕事だった。声がこちらの許しも待たずに飛び出すなんて、ずいぶん久しぶりで、自分の笑い声なのに少しだけ眩しい。
廊下の奥、雨上がりの薄明かりの中に、おばあ様が立っている。藍の布の下では、白い髪が汗に湿り、額へ細く張りついていた。こちらを急かしもせず、ただまっすぐ見ている。呼ばれるまでは、自分から動かない人である。
「呼んだかい?」
「……はい。おばあ様。今朝、襟飾りが、妹のものになりました」
わたくしの口から出せたのは、起きたことだけである。それをどう感じたのかは、胸の奥でまだ形が定まらず、言葉にすればほどけてしまいそうだった。けれど、おばあ様にはそこまでで足りるらしい。床板を踏む音を静かに重ねながら、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
「シルヴィ。あんた、あの襟飾りをもらったとき、嬉しかったかい?」
「……嬉しゅうございました」
「じゃ、それが二つ目だ」
◇
四月八日の昼、王都の仕立て屋。開け放した扉から新しい布の匂いが流れ、軒先の飾り布が風に明るく揺れている。
「オステンの奥方? 三十年、王都へ一度もお見えにならない方だよ」
「なぜです?」
「さあ。娘さんの婚礼にも、お見えにならなかったねえ」
「よほど、お遠いのでしょうか?」
「遠いだけなら、三十年にはならんさ」
◇
居間へ呼ばれたエルザは、扉のところで足を止めたまま、敷物の縁だけを見つめている。普段ならすぐ近くに感じる妹が、今日は部屋の端に取り残されたように小さく見えた。おばあ様は椅子から動かず、まず妹から話を始める。
「あんた、その襟飾り、欲しかったのかい?」
「……いいえ」
「じゃ、なんで受け取ったんだい?」
「お母様が、そうしろとおっしゃったから」
「じゃ、それを言ったのは誰だい?」
エルザの視線が、答えを示すようにお母様へ向く。お母様はその目を受け止めながら、言い直そうとはしない。薄い唇が、ほどけない結び目のように固く閉じている。
「一昨日、この子はなんて言った?」
おばあ様の目は、こちらへ逃げ道を作ることなく、妹だけへ向いている。その静かなまなざしのほうが、責める声よりも答えを待っていた。
「……『お芝居はあまり得意ではございませんの』と」
「そりゃ、嘘かい?」
「いいえ。……本当です。本当だから、誰も気がつきません」
妹がそう言い切ると、その言葉が居間の真ん中へ置かれたように、部屋の空気がぴたりと止まる。誰も言い返さない。言い返せない沈黙だけが、わたくしたちの間をゆっくり巡っている。
「あんたは、気がついたかい?」
「……気がついておりました。ずっと」
エルザの声は、押さえ込んできたものに追いつかれたように震えている。小さな手が裾をきつく握り、指の先は血の気を失って白い。青みの灰色の目には灯の光が丸くたまり、その奥で、言わずにきた言葉が今にもあふれそうに揺れていた。
「お姉様。十年で、二十二回です」
「……エルザ。何のお話?」
「お約束が破られた数です」
妹の唇が、次の言葉を押し出そうとして細かく震えている。それでも目だけは、もう逸らさない。
「わたし、数えておりました。声には出さずに、ずっと」
「どうして、数えたりしたの?」
「……お姉様が、一度も数えないから」
書いてはいないのだと、妹は言う。書けばいつかお母様に見つかる。だから、何も残さず、頭の中だけで数えていたのだと。数えるだけなら、誰にも見つからないから、と。破られた約束が二十二回。贈り物は十一。そのうち九つがエルザのものになり、姉の手元に残ったのは二つきりである。片方だけの手袋と、歯の欠けた櫛。どちらも妹が要らないと言ったものなのだと、エルザは息を継ぎながら告げた。わたくしが数えずにきた日のことを、この子は胸の中で、どれも取り落とさず抱えていたのである。
数えられていたと知って、初めて、数えられるほどあったのだと分かった。
「で、あんたは」
「……二十二回も、ありましたのね」
わたくしの口からこぼれたのは、それだけである。嫌だったとも、悲しかったとも、悔しかったとも、まだうまく言葉にならない。胸の奥から押し上がってきたものが喉でつかえ、熱いのか冷たいのかさえ決められずにいる。ただ、もう「何もなかった」と笑って片づけるには、その重みを知りすぎてしまったのだ。
二十二という数が、耳のうしろで鐘のように鳴っている。数えなければ、無かったことにできた。無かったことにしていたからこそ、十年ぶんがまとめて、いま卓の上へ差し出されている。一つずつなら、どれも小さなことだった。けれど、小さいから痛くないわけではない。見過ごしてきたぶんまでくっきり輪郭を持ち、朝の光のような容赦のなさで胸の内を照らしてくる。向かいでは、妹の細い肩がまだ小さく上下していた。あの肩が、わたくしの代わりにずっと覚えていたのだ。
「ごめんなさい、お姉様」
「エルザが謝ることではありませんわ。ひとつも、ありませんのよ」
それだけは、驚くほどするりと言えてしまう。自分のことでなければ、こんなにも言葉は迷わず出てくるらしい。妹の背を撫でる手のひらに、服越しのぬくもりがじんわり返ってくる。この子は、わたくしが黙るところをずっと見て育ったのだ。姉が数えないぶんを代わりに数え、誰にも見つからない場所で守り続けながら。ならば今度は、わたくしがこの子の震えを受け止める番である。
そのとき、お母様が静かに立ち上がる。けれど、椅子の脚が床をこする乾いた音だけは、やけに大きく部屋へ響く。
「お母様は、剥がしたあとに残るものをご存じない。私は、剥がされた側で三十年暮らしました」
部屋じゅうの音が、吸い込まれたように消える。おばあ様は問いを返さない。おばあ様の大きな手が、膝の上でゆっくり組まれていく。窓の外では雲がほどけかけ、軒から落ちる雨だれの間隔だけが、少しずつ長くなっていた。
この方が言葉を失うところを、わたくしは初めて見る。誰の言葉でも一度は返してきた人が、お母様の一言にだけは、返す言葉を見つけられない。向かい合う二人の灰色の目は、たしかに同じ色をしている。けれど、その奥に映る過ぎた年月は、きっと同じではないのだ。
「……そうだね」




