2. おばあ様は、代わりには言ってくださらない
おばあ様の問いは、胸の奥へまっすぐ差し込んできた。それでも、わたくしは答えられない。十年ぶんの記憶は絡まった糸のようで、どこを指せばよいのか分からず、唇からこぼれたのは、まるで違う言葉である。
「……誰も、悪くありませんの」
言ってしまった途端、自分でも妙におかしくなった。呼んだのはわたくしなのに、来てくださった方を前にして、まず皆を庇っている。十年ぶんの手癖は、指先よりも先に、こういうところから顔を出すものらしい。
おばあ様は怒らない。担いできた荷を床へ下ろすと、広間の椅子にどっかりと腰を据え、懐から小さな布の袋を取り出した。中身は干した果物らしく、ひとつ口へ放り込み、頬を動かしてもぐもぐと噛みはじめる。窓から差す朝の光のなか、甘酸っぱい匂いがほどけ、張りつめていた広間の空気をゆっくりやわらげていく。
「お母様。勝手に人の家へ」
お母様の声は、磨いた刃のように低く冷えている。灰色の目と、同じ灰色の目が、朝の光のなかでぴたりと向き合っている。
おばあ様は懐から折り目のついた手紙を取り出し、卓の上へ置いた。責めつける音は立てない。ここへ来た理由はこれだ、ただそう示すだけの置き方である。お母様の唇が固く結ばれ、広間に短い沈黙が落ちる。
「あたしは三つしか決めてない。呼ばれなきゃ行かない。代わりには言わない。一度に一つだけ」
三箇条、ということらしい。おばあ様は干した果物を噛みながら指を立て、その手をひょいと返して、今度は指先をわたくしへ向ける。
「あたしを呼ぶのは、あんただ。……で、一つ目は何だい?」
十年ぶんの何を言えばよいのか、やはり分からない。古いことを出せば蒸し返しになり、大きなことを選べば大げさに響く。胸の中でそうやってふるいにかけるほど、重いものから手の隙間をすり抜け、残ったのはいちばん軽くて、いちばん新しいことだけである。三日前の、観劇の約束。ようやく口にしたそばから、わたくしは自分で取り下げようとしていた。
「でも、妹が行きたがったのですし――」
「取り下げるのはあとでいい。まず、置きな」
置きな、という短い言葉が、耳の奥で小さく響きつづける。片づけろでも、忘れろでもない。胸につかえていたものを消さずに、ただ、そこへ置いておけというのだ。そんなふうにしてよいと教えられたのは、たぶん生まれて初めてである。
◇
昼。高い窓から白い光が落ちる廊下で、荷を運んでいた若い男が、すれ違いざまに足を止めた。緑がかった目がためらいもなく、まっすぐこちらを見ている。
「なんで自分で言わないんだ?」
「……言うと、場が困りますから」
「困ればいいだろ。おれの村じゃ、言わないほうが困る。雪の下に人が埋まってても、誰も言わなきゃ掘らないんだ」
「掘れば、雪はもっと崩れませんの?」
「崩れる。崩れても、掘る」
若い男はラーシュというらしい。山守りの家の三男で、おばあ様の書記と護衛を兼ねているのだそうだ。雪山の話でもするようなぶっきらぼうさで、わたくしの胸の内へ踏み込んでくる。理由を訊かれたのは、十年で初めてのことである。責められたわけでも、慰められたわけでもないのに、冷えていた喉の奥へ、少しだけあたたかいものが灯る。
皆さまは、わたくしが黙るところを見てきた。黙ったことを褒めてくださった方もある。けれど、なぜ黙るのかと訊いた方は一人もいなかった。いざ訊かれてみれば、答えは驚くほど頼りない。「場が困りますから」と自分の口から出た言葉は、差し込む昼の光に透けるほど薄くなり、廊下の高い天井のあたりで消えていく。
◇
四月六日の昼、フォーゲル邸の使用人部屋。開けた窓から春の風が入り、昼食どきのざわめきに、ひそめた声が混じっている。
「東から婆さんが来たそうだ」
「オステンといえば……旦那様が昔、東で世話になったとか、ならぬとか」
「昔って、いつごろの話です?」
「知らん。うちの旦那様が、まだ若様だったころさ」
◇
夕方、リヒャルトさまが詫びにいらした。悪びれたご様子はなく、この方はいつだって、詫びるというより行き違いをきれいに整えにいらっしゃる。西日が長く伸びる広間で、おばあ様は名乗りもせず、まずお父様へ問いを投げる。
「あんた、三日前、なんて言った?」
「いや、その、男とはそういうもの、と」
「〈そういうもの〉ってのは、誰が決めたんだい? お名前を」
「……それは、世間が」
「世間ってのは、いま何人この部屋にいるんだい?」
お父様の口が、返す言葉を探すようにわずかに動き、やがて閉じた。名前は、ひとつも出てこない。おばあ様の灰色の目がすっと横へ移り、次はお母様である。
「あんたは?」
「私は、娘のためを思って」
「もう一度、はっきりおっしゃいまし」
お母様は言い直さない。灰色の目をまっすぐ前へ向けたまま、編み棒を膝に置いた。その細い音だけが、張りつめた部屋に妙にはっきり響く。この方は、言わないことにかけては誰よりお強い。わたくしが見慣れてきた、隙のない沈黙である。おばあ様のほうも、口元をわずかに曲げただけで、それ以上は押さない。
「エルザ嬢が、ぜひにとおっしゃるので、私は」
リヒャルトさまがそう弁明した瞬間、部屋じゅうの視線が、矢でも放たれたように十五の妹へ集まった。エルザの肩がびくりと縮み、膝の上で重ねた指が強く絡む。
「わたくし、お芝居はあまり得意ではございませんの」
割って入って、わたくしはそう言った。本当のことである。十年待っていたのは芝居ではなく、連れていっていただくことだったのだから。けれど、そう言い切ってしまえば、失ったものは急に小さく、取るに足りないものに見える。部屋じゅうの目が妹から外れると、エルザのこわばった肩がほどけ、細い息がこぼれた。おばあ様は咎めない。ただ、わたくしを見つめたまま、干した果物をもうひとつ口へ放り込み、ゆっくり噛んでいる。
これは、我ながらうまくできたほうだと思う。誰も傷つかず、誰も謝らずに済み、話も波風を立てず横へ流れた。胸の奥に小さな引っかかりは残る。それでも、十年かけて磨いたのはこの手つきである。役に立ってしまうからこそ、簡単にはやめられないのだ。
それから、おばあ様は口の中の果物を飲み込み、リヒャルトさまへ向き直った。詫びに来た当人は、思いがけず自分へ番が回ったように、むしろ心外そうな顔を上げる。
「実際に、丸く収まっていたでしょう。十年、誰も泣かずに済んだ」
「そうかい。じゃ、順に名前を言ってごらん。この十年、泣かずに済んだ人を。あんたから」
「……私と、母上と、父上と、エルトハイム伯と、奥方と、エルザ嬢と」
六つ、名前が出た。
名前が出るたび、その人が一人ずつ、まるで明かりを避けるように顔を伏せていく。指を折りながら数えていたリヒャルトさまの手は、途中で止まった。そして最後に、名前が一つ余る。リヒャルトさまはその名を言わない。おばあ様も、助け舟を出す気配はない。ただ、黙って待っている。暖炉の薪がひとつ落ち、赤い火の粉がふわりと舞う。その乾いた音だけが、息を詰めた部屋の隅々まで響いている。
余った名前を、誰も口にしない。問い返す人もいない。十年ぶん、そうして空けたままにしてきた場所が、いま急に形を持ち、部屋の真ん中でぽっかりと口を開けている。胸の奥で、笑ってしまいたいような、腹を立てたいようなものが小さく揺れる。
「……以上でしょうか?」
「あたしが数えるんじゃないよ」
おばあ様が椅子をきしませ、わたくしのほうへゆっくり首をめぐらせる。
「で、あんたは」
「……わたくしは、大丈夫でございます」
「ふうん」
おばあ様は袋の口をきゅっと縛り、足元の荷へ手を伸ばすと、固い紐をするするとゆるめはじめる。その迷いのなさは、どう見ても帰る人の手つきではない。
お父様が、おばあ様の荷とその手元を見比べながら、おそるおそる口を開く。
「あの、お母上。お帰りはいつごろになりますか?」
「一度に一つだけ、って言ったろ。まだ一つ目だよ」




