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1. 「お前が我慢すればいい」と十年言われ続けたので、おばあ様に言いつけました

 四月三日の夕。玄関広間の高窓から斜めに差す光が、磨かれた床の石を橙にあたため、少しずつ短くなる。わたくしは支度を終え、光の縁に立っていた。蜂蜜色の髪を低くひとつに結い、軽い外套を選んだ。指の関節だけがいつもの冷たさを帯びている。


 十年前の今日、わたくしは八歳で婚約した。お相手はリヒャルトさま。明るい金の巻き毛と、澄んだ青い目をお持ちの、誰が見ても申し分のない方である。


 その方が先月、今年こそ二人で観に行こうとおっしゃった。十年目で、はじめての観劇の約束である。馬車の鈴が通りに響くたび、それでも窓を見てしまう。


 鐘が七つ鳴っても、馬車は来ない。侍女は二度、暖炉に火を足し、二度とも黙って出ていく。窓の橙は床の石から退き、磨かれた広間には冷たい青さが満ちてくる。


 やがて扉が遠慮がちに叩かれ、入ってきたのは見慣れない使いの少年だ。


「フォーゲル家からでございます。若さまは、劇場へ先においでになりました」


「……どなたと?」


「エルザお嬢さまと。エルザ嬢が、ぜひにとおっしゃるので、と」


「そう」


 妹は、わたくしの支度を見ていた。蜂蜜色の髪を巻いた頭を扉のところで一度だけこちらへ向け、青みの灰色の目を伏せ、何も言わずに出ていった。あのとき、淡い唇が何か言いかけたのを見ている。それでも聞かなかったことにした。


「お返事は、いかがいたしましょう」


「わたくしは家におります、とお伝えくださいまし」


「……それだけで、ようございますか?」


「ええ。それだけで」


 少年は、ほっとした顔で帰っていく。それでいい。誰も困らない。外套の紐をほどく指が少し手間取っただけだ。衣装部屋へ戻しても、整えた髪はほどくのが惜しい。来年もある、と思うことにする。十年、毎年そう思っている。我ながら気の長い希望である。


 夜。赤い火が揺れる居間の暖炉の前で、お父様が笑った。その声はいつもどおり軽く、わたくしの胸に残った棘など、初めからそこになかったもののようである。


「まあ、そういうこともある。はは」


 乾いた笑い声の尻に、待っていたかのように、いつもの一言がくっついてくる。


「男とは、そういうものだ」


 お母様は編み物の手を止めない。灰がかった金の髪をきっちり結い上げた横顔のまま、編み目を数えるのと同じ調子でおっしゃる。編み針の先だけが火を映し、細く冷たく光っていた。


「お前が我慢すればいい」


 十年、同じ言葉だった。


「はい、お母様」


 薪がぱちりとはぜ、暖炉の火が一度だけ大きくなる。お父様はその明るさに目を細め、それきり誰も何も言わない。この部屋の空気は、いつもここで元へ戻る。乱れなかったことにして、穏やかな家族の形へきれいに収まるのだ。戻したのが誰なのかは、たぶん誰も考えたことがない。けれど今夜、わたくしの胸の奥では、いつもの蓋がほんのわずかに浮いていた。


       ◇


 自室へ戻り、灯を細く絞って、机の前に座る。静けさの中で、壁に映るわたくしの影だけが、言いたいことを抱えて身を乗り出しているように見えた。


 わたくしは我慢が上手だ。十年、一度も泣かなかった。それだけが取り柄だと思っていたし、今夜もそのつもりでいたのに、指が勝手に抽斗の底をさぐっている。


 我慢が上手というのは、腹を立てないという意味ではない。腹の底で熱が生まれかけたところへ、先まわりして蓋をするのが速い、という意味である。八つのころに覚えて、十年で手が勝手にやるようになった。だから今夜も、劇場の名を聞いた瞬間にはもう蓋が下りていたのだ。けれど、いま胸のあたりにあるのは、いつもの静けさではない。蓋の下で小さな何かが、ここにいると知らせるように、こつ、こつと押し返してくる。怒りなのか、悲しみなのか、それともようやく芽を出した意地なのか、わたくしにはまだ名前がつけられない。


 指先に触れて出てきたのは、七年前に一度だけ届いた文である。差出人は、会ったこともない母方の祖母。辺境オステンの、先の伯爵夫人だ。紙は開き慣らされて薄くやわらかくなり、折り目の墨は掠れかけている。書いてあるのは、たった一行しかない。けれどその短さは、今夜のわたくしには、迷うなと背を押す手のひらのように思えた。


「困ったら書きな。文はここへ」


 その一行を、わたくしは七年のあいだ、胸が窮屈になる夜ごと繰り返し読み返してきた。読み返しては、きちんと折り、また抽斗の底へ戻す。困っていないことにすれば、書かずに済むからである。会ったこともない方に、何をどう困っていると申し上げればよいのか、見当もつかない。それに、困ったと認めた瞬間、これまで飲み込んだものがいっせいに声を上げそうで、それが少し怖くもある。


 気づけば、わたくしは新しい紙のほうを引き寄せていた。何を書けばよいのか分からない。けれど、迷う頭を置き去りにして手だけは動き、震えを隠すようにゆっくり文字を連ねていく。書けたのは、やはり一行きりである。それでも封じ込めてきた胸の内には、風の通る細い隙間ができたようだった。


「おばあ様。どうか一度だけ、こちらへおいでくださいませんか。理由は、うまく書けません」


 誰の名も書けなかった。名を書けば、その人が悪いことになってしまう気がしたのだ。リヒャルトさまも、お父様も、お母様も、悪い方ではない。皆さま、それぞれに正しく、それぞれの都合のよい場所から正しいことをしている。なのに、それが重なるたび、なぜだかわたくしの側だけが一段ずつ低くなる。これ以上低くなれば、皆さまの顔を見上げる首が疲れてしまう――そう考えたら、胸の奥で小さく息が弾んだ。こんなときにも可笑しさを見つけられるなら、わたくしはまだ大丈夫である。


 封をする蝋が指に落ち、思ったより熱くて息をのむ。その熱を、いま決めたことの印として指先に受け止める。灯を吹き消してから、その夜のうちに下男へ持たせ、駅逓(えきてい)へ出させた。窓の外へ遠ざかる足音を聞きながら、わたくしは冷えていた指をそっと握る。もう文は戻せない。そのことが、怖いより先に、少しだけ嬉しかった。


       ◇


 同じ夜。王都の東門はすでに閉じ、駅逓の詰所だけが、眠りかけた街道へ黄色い灯をこぼしている。机には夜露をまとった文が置かれ、老いた駅長が、その封の宛名を灯にかざしていた。


「オステン宛か」


「ずいぶん遠うございますね」


継ぎ馬(つぎうま)を三度替えて、文なら一日で着く。……返事が人で来るなら二日だ。三日目の朝には、門を叩くよ」


「たった三日で?」


「オステンの人間の継ぎ方を知らんな。あそこは、雪より先に走る」


       ◇


 四月六日。文を出してから三日目の朝である。夜のうちに降った雨を残した空は淡く明るみ、屋敷の軒から雫が忙しく落ちている。


 玄関の扉が、朝の静けさも屋敷の遠慮もまとめて、ドガンと外から蹴り開けられた。


 朝の冷たい光が一度に流れ込み、石の床を白く洗う。そのまぶしさを背負って立っていたのは、背の低いお年寄りだ。旅装のまま、白髪を短く切り、藍の布できりりと巻いている。齢は七十六。辺境を三十年守り抜いた方である。小柄なのに、扉のほうが押し負けたように見えた。手は大きく、節くれ立ち、長い道のりをものともしない力を残している。


 外套の裾から、雨とも雪ともつかない冷気の匂いが立っていた。街道の泥、馬の汗、たぶん道中であたった火の煙。そのどれもが、磨かれたこの屋敷の朝には無い匂いである。よそから来たはずなのに、不思議と息のしやすい風まで連れてきた。


 その後ろには、若い男が一人。黒に近い茶の短髪は朝露に濡れ、重そうな荷を肩に担いだまま、根を張った木のように動かない。左の眉には古い傷がある。広間の者は全員がお年寄りのほうを見ているのに、その若い男だけが、まっすぐわたくしの顔を見ていた。品定めする目ではない。文を書いたのはお前かと、黙って確かめるような目だ。ふいに目が合った。胸の内まで見られた気がして、わたくしは目を伏せる。けれど、なぜか嫌ではなかった。


 お年寄りは、凍った道でも割るような目で広間を見回し、お父様を見て、お母様を見て、最後にわたくしを見る。視線がこちらへ届いた瞬間、その険しさの奥に、火のような明るさがぱっと灯る。


 同じ色の目だった。


「ふんっ! で、どいつだい?」


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