10. 家のためだとおっしゃいますので、畑のお話をいたしました
四月二十三日の夜。食堂の皿はもう下げられ、温かな料理の名残より、燭の脂の甘く重い匂いのほうが濃く残っている。お父様は椅子の背をかすかにきしませ、深く座り直してから、両手を卓の上で固く組まれた。向かいのお母様は灰色の目を伏せ、まつげの影さえ動かない。おばあ様だけが端の席で、湯気の細った茶をゆるゆると飲んでいらっしゃる。ラーシュは扉の外にいる。姿は見えなくても、頼もしい気配が扉の向こうにあった。
夜になると、この食堂はいつもより広く、天井まで遠く感じられる。皿が下げられ、人の声が減るほど、燭の火だけが何も知らぬ顔で小さく踊る。子どものころ、この時刻に何か言おうとして、言葉を舌の上に載せたまま上の階へ引き取ったことがある。上がる途中の階段で、わたくしの足音を追うように、下の話し声がぱたりとやむのを、わたくしはよく聞いている。言葉を隠せば、部屋はこんなにも広くなる。あの静けさの作り方を、この家はずいぶん昔から知っているのだと思う。
「シルヴィ。フォーゲル家との話だがな」
「……はい」
「取り替えの話は、お母様からお断りした。順を違えては、うちもあちらも体裁が悪いと、な。フォーゲル家も納得しておられる」
少し考えさせてほしいと申し上げたのは、わたくしである。そのお返事を、どなたからも伺っていない。そもそも、どう考えたかと訊かれた覚えもないのだから、返事の来ないのは道理である。見事なほど、話の筋だけは通っている。それでも、卓の木目を追うわたくしの目は、枝分かれするたびに迷い、なかなか上がってくれない。
「このまま進める。二十八日の席で、婚礼の日取りまで決めてしまう」
わたくしが黙っていると、お父様は、その沈黙を了承と受け取られたのか、声を変えずに続けられる。
「これは、家のためだ」
ええ、そのほうが。――考えるより先に、そう申し上げるつもりでいた。十年ぶん、胸よりも口が先に覚えている言い方である。家のため、と差し出されれば、わたくしはわたくしの望みをきれいに畳み、邪魔にならぬ場所へしまってきた。
けれど、今夜は出てこない。喉の途中で言葉が引っかかり、押しても引いても動かない。まるでわたくしの中に、これ以上は通すまいと踏ん張る小さな門番でもいるようである。燭の火がひとつ揺れ、卓の木目に長い影を落とす。
「……シルヴィ?」
「……いえ」
喉の途中に引っかかったものは、息のたびに小さく動く。飲み込むこともできず、口から出すこともできない。なんとも扱いに困る。それでも、この十年で初めて、そこに何かが在ることだけは、はっきり分かる。声になる前の、わたくし自身なのかもしれない。
いつのまにか、端の席が空いている。おばあ様は、わたくしの言葉が形になるより先に、廊下のほうへ出ていかれたらしい。椅子の脇には、茶のかすかな香りだけが残っている。
◇
廊下へ出ると、ラーシュが行李の紐を締めている。太い指が紐を引くたび、乾いた麻がきゅっと鳴る。伏せた顔に走る眉の古い傷が、壁の燭の灯で細く濃い影になっていた。
「あんた、変わったな」
「……そう見えますの?」
「前は、すぐ返事をした。いまは、間がある」
「それは、ただ、言葉が出ないだけで」
「同じことだ。出ないってのは、要らない言葉だってことだろ?」
要らない言葉。十年、それでこの家を回してきたのに、この人は迷いもなく、なくてもいいものだと言う。あまりにあっさり言うので、腹を立てる間さえ見つからない。廊下の石は夜気を吸って冷え、その冷たさが靴の底からゆっくり上がってくるのに、胸の奥だけは妙に温かい。
廊下の奥まで行くと、おばあ様が窓のところに立っていらっしゃる。窓枠に添えられた手は大きく、節くれ立っている。その指は細い飾りより、土に触れているほうがずっと似合いそうだ。窓の外は暗く、庭木も輪郭ばかりになっている。黒い窓ガラスに燭の灯が二つ映り、おばあ様とわたくしの間で黙って揺れている。
「呼んだかい?」
「……はい、おばあ様。お父様が、家のためだとおっしゃいました」
「ふうん。……そりゃ、聞いておくよ」
おばあ様は窓から離れ、わたくしより先に食堂へ入っていかれる。迷いのない足音が、石の床をこつこつと打つ。廊下から食堂までは、ほんの十歩ほどである。その十歩のあいだ、わたくしの心の臓は耳の裏で鳴りっぱなしで、屋敷じゅうに聞こえないのが不思議なくらいだ。
お父様はまだ同じ姿勢でいらっしゃるが、先ほどより肩が強く張って見える。おばあ様が端の椅子に腰を下ろされると、脚の擦れる音が、静まり返った食堂にからりと響いた。
「〈家〉ってのは、この屋敷かい。それとも、畑かい?」
「……畑だ。むろん、畑だ」
「じゃ、その畑を、枚数で言ってごらん」
お父様が、初めて笑わずに口を開かれる。おばあ様の問いは短いのに、逃げ道だけをきれいに塞いでいた。ここでお答えにならなければ、当主がご自分の家の畑を言えぬことになる。娘と妻と客の前である。それに、枚数こそがお父様の言い分の根拠でもある。お答えになるほど、この方の言い分は強くなるはずだ。だからこそ、黙ってはいられないのだろう。
「東の畑が、九十枚。あれが無ければ、この家は伯爵家ではない」
言い切ってから、お父様はひとつ息をおつきになる。ご自分の言い分を、ご自分でしっかり支え直されたおつもりなのだろう。組んだ手が卓の上を少しだけ前へ進み、取り戻した場所を押さえるように止まる。
おばあ様は動かれない。茶碗を持ったまま、目だけをお母様のほうへ向けられる。湯気の消えた茶の表面には、燭の色が薄く浮いていた。
「あんたにとっても、それは畑のことかい?」
「家のためは、家のためでございます」
お母様は言い直さない。同じ言葉を、同じ形で置き直されただけである。灰色の目は伏せられたまま、わたくしもお父様もご覧にならない。家のため、という言葉の内側へ、ご自分まできちんと畳んでしまわれたように見える。
おばあ様は、それ以上を押されなかった。相手が言えないのか、言いたくないのか、その境に触れると、すっと手を引かれる。この方が押すのをおやめになるところを、わたくしはもう知っている。強い方ほど、引き際の音は小さい。
「その畑は、いつからここのものだい?」
「……父の代からだ。隠すことではない。四十年、この話は出ておらん。この方が来てからも、一度もな」
おばあ様はこの家に着いてから、畑のことを一度も口になさらなかった。だからお父様は、この話なら足もとが崩れることはないと踏まれたのだろう。燭の火が、組まれていた手の甲を下から照らし、指のあいだの影だけを濃くしている。
おばあ様は茶碗を置かれた。乾いた小さな音が、食堂の隅までまっすぐ走る。そこで初めて、一言だけ置かれる。
「四十年前、あの畑を請け合ったのは、うちだよ」
それきりである。声も上げず、身も乗り出さない。それでも、食堂の空気は弓の弦のようにぴんと張り、燭の火まで息を止めたように見える。
「返せとは言わないよ。四十年、一度も言ってない」
お父様が、椅子に沈み込まれる。組んでいた手がほどけ、卓の上へ平らに置かれた。その甲に、燭の灯が丸くたまっている。何かあるたび笑って話を締める癖が、この方から今夜だけ消えていた。行き場をなくした口元が、言葉よりも正直に揺れている。
誰も、何も要求されていない。
燭の炎のまわりだけで、四月の夜の空気が細かく揺れている。お父様が黙られたのを見れば、胸の内で小さく拍手をしてもよさそうなものなのに、いい気味だと思う気持ちは、どこを探しても出てこない。胸は少しも軽くならず、ただ、長く閉まっていた窓がようやく開いたようである。入ってきた夜気に驚いて、耳の奥だけが、しんとしていた。
◇
同じ夜、エルトハイム邸の厩。干し草の乾いた匂いに、馬の温かな息が混じる。暗がりでひづめが床を軽く鳴らし、吊るされた灯が天井の木組みに大きな影を揺らしている。
「この家の東の畑はな、旦那様のお父上の代に、危うく人手に渡りかけたんだ」
「どうやって残ったんです?」
「さあ。東のどなたかが、口をきいてくださったとか」
「東って、まさか」
「言うな。おまえは、藁を運べ」
◇
食堂の燭は、さっきより短くなっている。焦げた芯の先で、炎が頼りなく身を縮める。蝋の柱を伝った雫は、受け皿のところで白く固まっていた。誰も新しい燭を持ってこない。持ってくれば、この時間がもう少し続いてしまうからだと思う。そこだけは、皆の気持ちがきれいに揃っているらしい。
おばあ様がこちらをちらりと見る――。
「で、あんたは?」
お父様が顔を上げられる。頬には、さきほどまで無かった影が落ちている。お母様が、初めてこちらをご覧になった。伏せられていた灰色の目と正面から合い、張りつめていたものが、静かに音を立てる。
「……わたくし、この家のためだと思ったことが、一度もございませんでした」
自然と言葉が口をついた――。
責めてはいない。頼んでもいない。十年ぶん、そう思ったことが一度も無かったという、それだけである。ずっと借りていた言葉を持ち主へ返し、空いた場所へ、ようやくわたくしの声を置いただけだ。言い終えると、胸の底のほうが妙に静かになる。その静けさのほうが少し怖い。けれど空っぽではない。踏み出せば、きちんとわたくしの足を支えてくれそうな静けさである。
お母様は茶器を下げるように女中へ手を上げられただけで、何も言い直されない。燭の光を、その指先が一度だけ横切っていく。この方が何を思っていらっしゃるのかは、今夜も分からないままである。
「あたしは二十八日に帰る。あんたが呼べば、また来るよ」




