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11. おばあ様が東へお帰りになりましたので、誰も訊いてくださいません

 四月二十八日の朝。門の脇には、行李が二つ、きちんと並べて置いてある。厩の前にあったときよりも、使い込まれた革の白い擦れが、斜めの朝日にくっきり浮かんで見えた。乾いた風が街道の土をうっすら運んできて、門柱の影はまだ長く、石畳を斜めに横切っている。空はどこまでも高く、雲の切れ端は、おばあ様の帰る東のほうへ流れていく。


 この門の内側には、扉を蹴り開け、その勢いのまま入ってきた人がいた。いまはその人が、外側に静かに立っている。同じ石畳が途切れず続いているはずなのに、門を境に、内と外では空気の温度まで違う気がする。わたくしは、冷えているのが風なのか自分なのか分からず、指先をそっと確かめた。


 門の内側にわたくしとお母様、外側におばあ様とラーシュ。石畳の継ぎ目を一つ挟んだだけなのに、その細い溝が境目になったように、行く人と残る人が、そこできれいに分かれてしまっている。


 おばあ様は別れを長くなさらない。発つ日を先に言うのが東の作法だから、当日は短くて済むのだそうだ。白髪を短く切り、藍の布で巻いた頭が、明るい朝日の中で小さく、けれどきっぱりと揺れている。その姿は、別れの寂しさなど乾いた風へ預けてしまったように見える。


 十年、わたくしは人を見送るのが上手だった。行ってらっしゃいませ、お気をつけて、お待ちしております。別れにふさわしい言葉はどれも喉の手前へ行儀よく並べてあり、順に出せばよい。いつもなら、口もとに笑みまで添えられる。ところが今朝は、並べてある言葉のどれを選んでも、本当に言いたいことだけが、その奥へ隠れてしまう気がする。


 またおいでくださいまし、と申し上げかけて、やめる。その一言は、この方を呼ぶことになる。呼べば、この方はきっとまた来てしまう。来てくださる喜びを知ってしまったぶん、それを願うのが怖い。喉の途中で言葉を折り返し、何もなかった顔をするのは、わたくしのいちばん得意なことである。


「……道中、お気をつけてくださいませ」


 おばあ様は、やはりうなずきもなさらない。節くれ立った大きな手で荷の縄を念入りに確かめてから、灰色の目をまっすぐこちらへ向けられる。朝の光を含んだその色は、わたくしと同じ色である。似ていると意識した途端、首のうしろがくすぐったくなり、不意に背筋が伸びた。


「あたしはもう訊かないよ。訊く人がいなくなったら、あんた、どうするんだい?」


 答えられない。答えを探すより先に、その問いが胸の底へ、丸い石のように落ちて、どっかり座り込む。冷たくもなく、押し潰すほど重くもない。ただ、追い出せない顔でそこに在る。訊かれることを窮屈に思っていたはずなのに、わたくしはいつのまにか、問いかけられるのを待つことにも慣れてしまったらしい。慣れたものが無くなると知って、初めて、それが自分を支えていたと分かる。


 おばあ様はそれきり何もおっしゃらない。労わりも励ましも、ひとつも下さらなかった。代わりに、逃げ道のない問いだけを置いていかれる。いかにもおばあ様らしくて、その石がかすかに温かくなった。


 ラーシュが、黙ったまま荷の紐をきつく締め直す。左の眉に残る古い傷が、斜めの朝日を受け、白い線となって浮いて見える。その横顔には、別れを惜しむ隙などなさそうで、それがかえってこの方らしい。


「東じゃ、別れ際に長く喋らない。喋ると、足が止まるからな」


 それだけ言って、この方は荷を担ぎ直す。こちらを振り返らない。緑がかった目は、もう街道の先、そのまた向こうを見ている。別れよりも行く先を選ぶ目は、高い空に負けないほど晴れていた。


 行李の縄が肩に食い込んで、厚い布地がわずかに沈む。その小さな沈み方まで目で追ってしまう自分が、なんだか可笑しかった。荷は重いのだろう。重いものを、この方は毎日、当たり前の顔で担いでいらした。担ぐ人がいなくなれば、荷は消えず、残った誰かの手に渡る。居座る問いも、同じなのだろう。


 門の外には、駅逓の馬がくつわを並べて待っている。毛並みが朝日を返して光り、蹄が落ち着かなげに土を掻いている。来たときと同じ、継ぎながら行く支度である。ラーシュが行李を鞍の後ろへ手早く括りつけ、おばあ様が迷いなくあぶみへ足を掛けられた。老いた身体が、鞍へ上がるその動作だけ若い人のように軽い。藍の布が風を受け、ぱっと揺れた。


 二人が門の前を離れていく。蹄の音が石畳から土の道へ変わった瞬間、わたくしは裾を押さえ、門をくぐって外へ出る。


「およしなさい。みっとものうございます」


 お母様の声が、ぴんと張った糸のように背中へ届く。それでも、足は戻らなかった。言い返しもしない。声にすれば、目の前の影を見失いそうだった。ただ石畳の上に立ち、街道の突き当たりで二つの影が小さくなり、日の光に溶けていくのを見ている。風が袖の内側を駆け抜け、指の先から順に熱をさらっていく。けれど、底に沈んだ石だけはもう冷たくない。お母様は先に屋敷へお入りになる。門の外に残ったのは、わたくしと、遠ざかる荷の音、それから喉へ戻した言葉だけである。


       ◇


 昼。フォーゲル邸の客間は、庭に面した窓をいっぱいに開け放してあった。朝の門の乾いた風とは違って、ここの風は草の湿りと若い葉の匂いを含んでいる。同じ日の同じ空の下なのに、屋敷が変わると、風までよそゆきの顔になるらしい。頬を撫でるやわらかさに、こわばっていた肩がほどけそうになる。


 楡の葉がさらさらと重なる音と、切ったばかりの草の青い匂いが、窓辺を越えて卓の上まで届いてくる。磨かれた卓には庭の光が落ち、白い器の縁でゆらゆら揺れていた。囲んでいるのは六人。お父様、お母様、レナルトさま、ヘドヴィヒさま、リヒャルトさま、そしてわたくし。


 ヘドヴィヒさまが、皆の顔を穏やかに順に見てから、よく通る明るい声で切り出された。


「では、日取りの話をいたしましょうか?」


「刈り入れの前がよろしかろう。人手が動かせる」


 レナルトさまは、それだけ言って茶碗を置かれる。白い器が受け皿に触れ、控えめな音を立てる。その小さな響きまで、レナルトさまの言葉と同じく迷いがない。


「いえ、刈り入れの後のほうが。そのころなら道も乾いておりますし、遠方の方もお運びになりやすい。私はそう思うのですが」


 リヒャルトさまは、いつものように理由を先に並べられる。筋道の整った言葉は、乾いた道のように、迷いなくこちらへ伸びてきた。


「そういうものでございましょう」


 お母様が、主語のない相槌をひとつ、卓の上へそっと置かれる。賛成なのか、ただ話を先へ進めたいのか、整ったお顔は静かなままで、何も読み取れない。


「まあ、どちらでもな。はは」


 お父様が、いつもの笑いで話を丸く包み、そのまま締めにかかられる。角のない笑いは耳にやさしいけれど、誰の望みもすくい上げないまま、卓の上を滑っていく。


「うちは、日が短くならぬうちがよい」


 レナルトさまが、もう一度短くおっしゃる。飾りのない声には、領地の季節をよく知る人らしい、揺るがない確かさがある。


 どの声にも険が無い。刈り入れ、日の長さ、道の乾き。皆さまは穏やかな顔でそれぞれの事情を並べ、そのあいだに、選べる日が一つずつ静かに削られていく。言葉は行儀よく行き交い、争いもなく、わたくしだけを置き去りにして話が整っていく。


 ヘドヴィヒさまが、赤みのある茶の髪をさらりと揺らして首を軽くかしげ、迷いのない一言を卓の真ん中へ置かれた。


「秋の初めがよろしいわ。そのころなら、あちらの支度も落ち着きますでしょうし」


「うむ。では、秋の初めということで」


「異存はありません」


「ええ、そのほうが。秋の初めで、ようございます」


 口が考えるより先に動く。十年ぶん、この返事を練習してきた口である。人が多ければ多いほど、手も口も速くなる。相手が求める形へ言葉を整え、差し出すところまで、息をするようにできてしまう。その速さを、自分で速いと分かるようになったのは、つい最近のことだ。前は速いとも遅いとも思わない。皆さまの望む返事が、わたくしの口から出る。それが世の中の正しい順番だと、疑いもせず思い込んでいたのである。


 言い終えて、わたくしは待った。自分でも気づかぬうちに、右の耳へ意識を寄せている。横から一言、来るはずである。誰かが、いま置かれた言葉を拾い上げ、こちらへ返し、もう一度言い直させるはずである。待つあいだ、底の石が急に重くなる。


 けれど何も起きない。卓は何事もなかったように、そのまま次の話へ滑っていく。皿が下げられ、庭の楡は明るい葉音を立てている。誰も話を止めず、誰も問い返さない。この滑らかさこそが、この家々の十年だった。


 喉のあたりに、飲みそこねた湯の熱が、丸いかたまりになって残っている。その熱はゆっくり下りていき、底のあたりで、朝の石とこつんとぶつかる。音などするはずもないのに、わたくしは自分の内へ耳を澄ませたくなる。


 なんで自分で言わないんだ。耳の奥で、東のぶっきらぼうな言い方が、驚くほど鮮やかに鳴る。乾いた風よりもまっすぐな声が、背中をとんと押す。


 わたくしは口を開いた。訊かれてもいないのに、気づけば開いている。石を押しのけて、言葉が喉まで駆け上がってくる。けれど、あとわずかなところで声にならない。誰も気づかない。開いた口は、結局そのまま閉じる。茶の湯気だけが、取り残された言葉の代わりに、目の前を上がっていった。


       ◇


 同じ日の昼、フォーゲル邸の勝手口。水が桶へ落ちる澄んだ音と、器の触れ合う乾いた音。その忙しい響きに紛れるように、女中が二人、肩を寄せて声をひそめている。


「オステンの奥方は、もうお発ちだそうだよ」


「まあ。お供は」


「供一人だけだとさ。来たときと同じにね」


「伯爵家の奥方が、お一人で東まで」


「あの方は、そういうお人らしい」


      ◇


 卓では、話はもう庭の花のことへ移っていて、誰の顔もこちらを向いていない。わたくしは茶碗の縁に指を掛けたまま、まだ待っている。湯気は細くなり、器の温もりも指先から逃げかけていた。日取りは決まっている。決めた場に座っていたのに、わたくしの声だけが、どこにも混ざっていない。


 次の一言は、来なかった。


 卓のまわりに、空いた椅子は一つも無い。皿も茶碗も、きちんと人の前に置かれている。それでも、右の耳のあたりだけが妙に軽く、風の通り道になったようで落ち着かない。わたくしはそちらへ首を向けそうになり、窓の光を見つめてやめる。そこに誰もいないことくらい、とうに分かっている。


 こういうとき、あの方なら何とおっしゃっただろう。考えかけて、やめる。考えたところで、あの方はもう街道の上である。藍の布を風に揺らし、こちらなど振り返らず、東へ進んでおられるはずだ。そして、あの方の言葉を借りようとした時点で、わたくしはまだ、誰かに言ってもらうつもりでいる。気づいた途端、底の石が呆れたようにころりと転がった。


 窓の外の楡が、風を受けて一斉に葉の裏を返す。白っぽい緑がきらめいたのに、誰も気づかない。皿の音と、笑い声と、あふれるほど明るい昼の光。わたくしはその賑やかさの中にきちんと座りながら、自分の口がさっき何をしたかを思い返している。開いて、閉じた。それだけである。けれど、開こうとはした。残ったその事実まで、無かったことにはしたくない。


 辞して、馬車へ乗る。扉が閉まると、車輪の音が車内へやわらかくこもった。揺れは少ない。窓の外を家並みがゆるやかに流れ、日の光が座席の膝のあたりを明るく行き来している。お母様は指輪をしていない手を膝の上で重ねたまま、流れる景色をご覧になっていた。横顔はいつもと変わらず整っていて、その静けさが、かえって落ち着かない。


「これで、やっと静かになりますね」


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