9話
九日目の朝、沙織は目が覚めた時、自分がどういう顔をしているかを確かめたくなった。
確かめても仕方がない。鏡がなければわからないし、あったとしても、顔で何かがわかるわけでもない。
でも確かめたくなった。
昨夜のことが、体の中にあった。手の甲に重なった葵の手のひら。一度だけ動いた指。もう少し、こうしていていいですか、という声の低さ。
それらが、目を覚ました瞬間から体の中にあった。眠っている間も、どこかに持ち続けていたのかもしれない。
隣から、葵が起き上がる音がした。
今日も五時前だった。
床が鳴って、洗面所へ行く音がして、外へ出ていった。
沙織は布団の中で、その音を聞きながら、また目を閉じた。
眠れなかった。
でも起き上がる気にもなれなかった。しばらく、天井を見ていた。昨夜の縁側のことを、順番に思い出していた。
葵の手が来た時、沙織は逃げなかった。
それが何を意味するのかを、今朝は少し正面から考えた。
逃げなかった。それは、来てほしかった、ということだ。
来てほしかった。
その言葉が頭の中に浮かんで、沙織はそれをしばらく確かめた。
来てほしかった、という感情が自分の中にある。それが何なのかを、今朝は言葉にする前から知っていた気がした。
知っていて、目を閉じた。
台所へ行かなければいけない時間になって、沙織は起き上がった。
七時の朝食の時間に、葵が帰ってきた。
今日の葵の顔を、沙織は少し注意して見た。
昨夜と変わっているかどうかを、確かめたかった。
変わっていなかった。
いつもの葵の顔だった。汗をかいて、少し生き生きしていて、カメラバッグを肩にかけていた。
「今日は西の岩場に行きました」と葵は言った。「干潮の時間に合わせて」
「潮が引いていましたか」
「引いていました。岩の隙間に海水が残って、小さな池みたいになっていて」
「タイドプールですね」
「魚がいました。小さいのがいくつか」
葵は席に着いた。
普通に話していた。昨夜のことを持ち込んでいなかった。
沙織も普通に応えた。
でも朝食を並べながら、昨夜手が触れた時の感触が、指先にまだ残っていた。
午前中、沙織は普通に仕事をした。
洗濯、掃除、仕込み。
葵の部屋を掃除する時、今日も部屋に入った。
窓際のポーチは、今日は別の場所に移っていた。枕元の本が、昨日と違うページで開いていた。
沙織はシーツを替えて、窓を開けて、掃除機をかけた。
それだけだった。
何も確かめなかった。確かめようとも思わなかった。
ただ、葵がここで眠っている、ということが、今日は昨日より少し具体的に感じられた。
眠っている葵が、どんな姿勢で、どんな顔をしているのか。
想像してから、沙織は部屋を出た。
昼過ぎ、台所で仕込みをしていると、葵が来た。
「今日はお昼を一緒に食べませんか」と葵は言った。
「民宿は昼食なしですが」と沙織は言った。
「沙織さんのお昼に、一緒にいてもいいですか」
「どうぞ」
今日は沙織の母も家にいたから、三人で食べることになった。
母が葵に話しかけた。写真を撮りに来たのですか、どこへ行きましたか、島の食事は口に合いますか。葵は丁寧に答えた。
母が沙織を見た。
何かを確かめるような目だった。沙織は視線を食事に戻した。
母は何も言わなかった。
昼食が終わって、母が席を立った。
「葵さん、島にいる間はゆっくりしていってください」と母は言った。「ここはあなたの家だと思っていいですよ」
「ありがとうございます」と葵は言った。
母が台所へ行った。
沙織と葵が、テーブルに残った。
「いいお母さんですね」と葵は言った。
「そうですか」
「あたたかい感じがします」
「葵さんのお母さんは」と沙織は言った。
「東京にいます」と葵は言った。「あまり連絡を取らないですが」
「仲が悪いですか」
「悪くはないですが、近くもないです」葵はお茶を一口飲んだ。「私が写真を始めた時、何になるつもりか、と言われて。それから少し距離ができました」
「今も言われますか」
「今は言われないですが、聞いてももらえない感じがして」
沙織は葵を見た。
「ここでは」と葵は言った。「ちゃんと聞いてもらえる気がします」
「沙織さんに」と葵は言った。
今日も、さらりと言った。
沙織は返事をしなかった。
代わりに、お茶をもう一口飲んだ。
夕方、沙織が縁側で夕日を見ていると、葵が来た。
今日は珍しく、カメラを持っていなかった。
隣に座った。
「カメラ、持ってこなかったんですか」と沙織は言った。
「今日の夕方は、ただ見ようと思って」と葵は言った。
「撮らなくていいですか」
「撮ると、見ることに集中できない時があるので。今日は見るだけにしようと思って」
夕日が入り江を橙色に染めていた。
嘘をつく光だ、と葵が言っていた。でも葵は今日、その光の中にカメラを持たずにいた。
「昨日のこと」と葵は言った。
「はい」と沙織は言った。
「沙織さんが嫌だったら、言ってください」
昨夜の手のことを言っているのだとわかった。
「嫌じゃなかったです」と沙織は言った。
「よかった」
「昨日、聞きましたね。嫌だと思ったことがあるかと」
「聞きました」
「それは、昨夜のことを聞くための前置きでしたか」
葵は少し沙織を見た。
「そういうつもりではなかったですが」と葵は言った。「でも、繋がっていたかもしれないです」
沙織は夕日の方を向いた。
「葵さんは」と沙織は言った。
「はい」
「私のことが」と沙織は言いかけて、止まった。
言葉が、途中で止まった。
言いたいことはわかっていた。でも言葉にすると形になる。形になると、答えが要る。
葵は待っていた。急かさなかった。
「わかりました」と沙織は言った。続きを言わないまま。
「何が」
「言わなくても、わかりました」
葵は少し沙織を見た。
それから、夕日の方を向いた。
「私も」と葵は言った。「わかりました」
二人で夕日を見た。
橙色の光が、入り江全体に満ちていた。
嘘をつく光の中で、二人が言葉にしなかったことが、空気の中にあった。
夕食の後、縁側に出た。
今夜は二人とも、最初から近くに座った。
昨夜より近かった。自然にそうなった。
葵の手が、今夜も沙織の手の上に来た。
昨夜と同じように来た。ゆっくりと、重さをかけないように。
沙織は今夜も逃げなかった。
でも今夜は、昨夜と少し違った。
葵の手が来た時、沙織は自分の手を少し動かした。
逃げる方向ではなく、葵の手の方へ、少し。
葵の指と、沙織の指が絡んだ。
ゆっくりと、自然に。
どちらが先だったか、わからなかった。でも絡んだ。
葵が少し息を吸った。
沙織も息が変わった。
月の光の中で、二人の手が重なっていた。
昨夜より、深く。
「沙織さん」と葵は言った。声が、これまでで一番低かった。
「はい」
葵が沙織の方を向いた。
沙織も葵の方を向いた。
目が合った。
月光の中で、葵の顔が近かった。
昨夜頭が肩に触れた時より、近かった。
葵の目が、何かを聞いていた。言葉にしない問いが、目の中にあった。
沙織はその問いに、言葉で答えなかった。
ただ、目を逸らさなかった。
それが答えだった。
葵の顔が、少し近づいた。
波の音がしていた。月が入り江を照らしていた。
二人の手が絡んだまま、近づいた。
沙織は目を閉じた。
翌朝、沙織は光で目が覚めた。
いつもと違う光だった。
カーテンが開いていた。自分では開けた記憶がなかった。
光が部屋に入ってきていた。朝の、嘘をつかない光が。
体を起こした。
自分の部屋ではなかった。
葵の部屋だった。
窓の外に、入り江が見えた。朝の光の中で、水面が橙色に輝いていた。
隣に、葵がいた。
眠っていた。
横を向いて、眠っていた。日焼けした肩が、シーツの上に出ていた。
沙織はしばらく、葵の眠っている顔を見た。
眠っている顔を見るのは、初めてだった。
穏やかだった。疲れた人間の顔ではなかった。島に来た時の、タラップを慎重に降りてきた人間の顔とは、全然違う顔だった。
力が抜けていた。ただ眠っている人間の顔だった。
沙織は起き上がらなかった。
しばらく、そのまま葵の横にいた。
窓の外で、朝の光が変わっていた。橙色が、少しずつ白くなっていった。
葵が動いた。
目を開けた。
沙織と目が合った。
葵はしばらく、そのまま沙織を見ていた。
「おはようございます」と葵は言った。
「おはようございます」と沙織は言った。
それだけだった。
でも、その「おはようございます」は、これまでのどれとも違う重さだった。
葵が少し体を動かした。
沙織の方へ、少し近づいた。
額が、沙織の額に触れた。
ゆっくりと、そっと。
沙織は動かなかった。
葵の額の温かさが、沙織の額にあった。
それだけだった。
でも、それだけではなかった。
窓の外で、朝の光が続いていた。嘘をつかない光が、部屋に満ちていた。
葵がゆっくりと離れた。
「沙織さん」と葵は言った。
「はい」
「昨夜のこと」
「はい」
「後悔していますか」と葵は言った。
沙織は少し間を置いた。
「していないです」と言った。
「よかった」と葵は言った。
その「よかった」が、昨夜の縁側で「嫌じゃなかったです」と沙織が言った後の「よかった」と、同じ声の質だった。安堵している「よかった」だった。
葵も、後悔していないかどうかを、確かめていたのだ。
「葵さんは」と沙織は言った。
「していないです」と葵は言った。即座に言った。「これっぽっちも」
これっぽっちも、という言い方が、葵らしくなかった。
でも葵の目は真剣だった。
「台所に行かなければいけないです」と沙織は言った。
「そうですね」と葵は言った。
「七時の朝食を」
「わかりました」
沙織は起き上がった。
着替えた。
ドアを開ける前に、葵を見た。
葵はシーツの中で、沙織を見ていた。
「また後で」と葵は言った。
「また後で」と沙織は言った。
廊下に出た。
自分の部屋の前を通って、台所へ向かった。
廊下の空気が、いつもと同じだった。
でも、沙織の体の中にあるものは、いつもと違った。
台所に入って、コンロに火をつけた。
やかんに水を入れた。
窓の外を見た。
入り江が見えた。朝の光の中で、水面が輝いていた。
葵が毎朝見たがっていた光が、今朝も続いていた。
沙織はその光を見ながら、少し体の中を確かめた。
後悔していない、と言った。
本当のことだった。
後悔、という感情がどこにもなかった。代わりに、別の何かがあった。名前をつけるとしたら、温かい、という感触に近かった。でも温かい、という言葉では足りない何かが、体の中にあった。
やかんが鳴り始めた。
お茶を淹れた。
カップを両手で持った。
台所の窓から、朝の光が入ってきていた。
葵の部屋の窓には、今頃同じ光が入っているはずだった。
葵はその光の中にいる。
沙織はそのことを感じながら、お茶を一口飲んだ。
温かかった。
朝の仕込みを始めた。
いつもと同じ朝だった。でも、いつもと同じではなかった。
その違いを、沙織は言葉にしなかった。
言葉にしなくても、体が知っていた。
窓の外で、朝の光が続いていた。




