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凪の手前  作者: スラビレ
9/12

9話


 九日目の朝、沙織は目が覚めた時、自分がどういう顔をしているかを確かめたくなった。


 確かめても仕方がない。鏡がなければわからないし、あったとしても、顔で何かがわかるわけでもない。


 でも確かめたくなった。


 昨夜のことが、体の中にあった。手の甲に重なった葵の手のひら。一度だけ動いた指。もう少し、こうしていていいですか、という声の低さ。


 それらが、目を覚ました瞬間から体の中にあった。眠っている間も、どこかに持ち続けていたのかもしれない。


 隣から、葵が起き上がる音がした。


 今日も五時前だった。


 床が鳴って、洗面所へ行く音がして、外へ出ていった。


 沙織は布団の中で、その音を聞きながら、また目を閉じた。


 眠れなかった。


 でも起き上がる気にもなれなかった。しばらく、天井を見ていた。昨夜の縁側のことを、順番に思い出していた。


 葵の手が来た時、沙織は逃げなかった。


 それが何を意味するのかを、今朝は少し正面から考えた。


 逃げなかった。それは、来てほしかった、ということだ。


 来てほしかった。


 その言葉が頭の中に浮かんで、沙織はそれをしばらく確かめた。


 来てほしかった、という感情が自分の中にある。それが何なのかを、今朝は言葉にする前から知っていた気がした。


 知っていて、目を閉じた。


 台所へ行かなければいけない時間になって、沙織は起き上がった。


 七時の朝食の時間に、葵が帰ってきた。


 今日の葵の顔を、沙織は少し注意して見た。


 昨夜と変わっているかどうかを、確かめたかった。


 変わっていなかった。


 いつもの葵の顔だった。汗をかいて、少し生き生きしていて、カメラバッグを肩にかけていた。


「今日は西の岩場に行きました」と葵は言った。「干潮の時間に合わせて」


「潮が引いていましたか」


「引いていました。岩の隙間に海水が残って、小さな池みたいになっていて」


「タイドプールですね」


「魚がいました。小さいのがいくつか」


 葵は席に着いた。


 普通に話していた。昨夜のことを持ち込んでいなかった。


 沙織も普通に応えた。


 でも朝食を並べながら、昨夜手が触れた時の感触が、指先にまだ残っていた。


 午前中、沙織は普通に仕事をした。


 洗濯、掃除、仕込み。


 葵の部屋を掃除する時、今日も部屋に入った。


 窓際のポーチは、今日は別の場所に移っていた。枕元の本が、昨日と違うページで開いていた。


 沙織はシーツを替えて、窓を開けて、掃除機をかけた。


 それだけだった。


 何も確かめなかった。確かめようとも思わなかった。


 ただ、葵がここで眠っている、ということが、今日は昨日より少し具体的に感じられた。


 眠っている葵が、どんな姿勢で、どんな顔をしているのか。


 想像してから、沙織は部屋を出た。


 昼過ぎ、台所で仕込みをしていると、葵が来た。


「今日はお昼を一緒に食べませんか」と葵は言った。


「民宿は昼食なしですが」と沙織は言った。


「沙織さんのお昼に、一緒にいてもいいですか」


「どうぞ」


 今日は沙織の母も家にいたから、三人で食べることになった。


 母が葵に話しかけた。写真を撮りに来たのですか、どこへ行きましたか、島の食事は口に合いますか。葵は丁寧に答えた。


 母が沙織を見た。


 何かを確かめるような目だった。沙織は視線を食事に戻した。


 母は何も言わなかった。


 昼食が終わって、母が席を立った。


「葵さん、島にいる間はゆっくりしていってください」と母は言った。「ここはあなたの家だと思っていいですよ」


「ありがとうございます」と葵は言った。


 母が台所へ行った。


 沙織と葵が、テーブルに残った。


「いいお母さんですね」と葵は言った。


「そうですか」


「あたたかい感じがします」


「葵さんのお母さんは」と沙織は言った。


「東京にいます」と葵は言った。「あまり連絡を取らないですが」


「仲が悪いですか」


「悪くはないですが、近くもないです」葵はお茶を一口飲んだ。「私が写真を始めた時、何になるつもりか、と言われて。それから少し距離ができました」


「今も言われますか」


「今は言われないですが、聞いてももらえない感じがして」


 沙織は葵を見た。


「ここでは」と葵は言った。「ちゃんと聞いてもらえる気がします」


「沙織さんに」と葵は言った。


 今日も、さらりと言った。


 沙織は返事をしなかった。


 代わりに、お茶をもう一口飲んだ。


 夕方、沙織が縁側で夕日を見ていると、葵が来た。


 今日は珍しく、カメラを持っていなかった。


 隣に座った。


「カメラ、持ってこなかったんですか」と沙織は言った。


「今日の夕方は、ただ見ようと思って」と葵は言った。


「撮らなくていいですか」


「撮ると、見ることに集中できない時があるので。今日は見るだけにしようと思って」


 夕日が入り江を橙色に染めていた。


 嘘をつく光だ、と葵が言っていた。でも葵は今日、その光の中にカメラを持たずにいた。


「昨日のこと」と葵は言った。


「はい」と沙織は言った。


「沙織さんが嫌だったら、言ってください」


 昨夜の手のことを言っているのだとわかった。


「嫌じゃなかったです」と沙織は言った。


「よかった」


「昨日、聞きましたね。嫌だと思ったことがあるかと」


「聞きました」


「それは、昨夜のことを聞くための前置きでしたか」


 葵は少し沙織を見た。


「そういうつもりではなかったですが」と葵は言った。「でも、繋がっていたかもしれないです」


 沙織は夕日の方を向いた。


「葵さんは」と沙織は言った。


「はい」


「私のことが」と沙織は言いかけて、止まった。


 言葉が、途中で止まった。


 言いたいことはわかっていた。でも言葉にすると形になる。形になると、答えが要る。


 葵は待っていた。急かさなかった。


「わかりました」と沙織は言った。続きを言わないまま。


「何が」


「言わなくても、わかりました」


 葵は少し沙織を見た。


 それから、夕日の方を向いた。


「私も」と葵は言った。「わかりました」


 二人で夕日を見た。


 橙色の光が、入り江全体に満ちていた。


 嘘をつく光の中で、二人が言葉にしなかったことが、空気の中にあった。





 夕食の後、縁側に出た。


 今夜は二人とも、最初から近くに座った。


 昨夜より近かった。自然にそうなった。


 葵の手が、今夜も沙織の手の上に来た。


 昨夜と同じように来た。ゆっくりと、重さをかけないように。


 沙織は今夜も逃げなかった。


 でも今夜は、昨夜と少し違った。


 葵の手が来た時、沙織は自分の手を少し動かした。


 逃げる方向ではなく、葵の手の方へ、少し。


 葵の指と、沙織の指が絡んだ。


 ゆっくりと、自然に。


 どちらが先だったか、わからなかった。でも絡んだ。


 葵が少し息を吸った。


 沙織も息が変わった。


 月の光の中で、二人の手が重なっていた。


 昨夜より、深く。


「沙織さん」と葵は言った。声が、これまでで一番低かった。


「はい」


 葵が沙織の方を向いた。


 沙織も葵の方を向いた。


 目が合った。


 月光の中で、葵の顔が近かった。


 昨夜頭が肩に触れた時より、近かった。


 葵の目が、何かを聞いていた。言葉にしない問いが、目の中にあった。


 沙織はその問いに、言葉で答えなかった。


 ただ、目を逸らさなかった。


 それが答えだった。


 葵の顔が、少し近づいた。


 波の音がしていた。月が入り江を照らしていた。


 二人の手が絡んだまま、近づいた。


 沙織は目を閉じた。





 翌朝、沙織は光で目が覚めた。


 いつもと違う光だった。


 カーテンが開いていた。自分では開けた記憶がなかった。


 光が部屋に入ってきていた。朝の、嘘をつかない光が。


 体を起こした。


 自分の部屋ではなかった。


 葵の部屋だった。


 窓の外に、入り江が見えた。朝の光の中で、水面が橙色に輝いていた。


 隣に、葵がいた。


 眠っていた。


 横を向いて、眠っていた。日焼けした肩が、シーツの上に出ていた。


 沙織はしばらく、葵の眠っている顔を見た。


 眠っている顔を見るのは、初めてだった。


 穏やかだった。疲れた人間の顔ではなかった。島に来た時の、タラップを慎重に降りてきた人間の顔とは、全然違う顔だった。


 力が抜けていた。ただ眠っている人間の顔だった。


 沙織は起き上がらなかった。


 しばらく、そのまま葵の横にいた。


 窓の外で、朝の光が変わっていた。橙色が、少しずつ白くなっていった。


 葵が動いた。


 目を開けた。


 沙織と目が合った。


 葵はしばらく、そのまま沙織を見ていた。


「おはようございます」と葵は言った。


「おはようございます」と沙織は言った。


 それだけだった。


 でも、その「おはようございます」は、これまでのどれとも違う重さだった。


 葵が少し体を動かした。


 沙織の方へ、少し近づいた。


 額が、沙織の額に触れた。


 ゆっくりと、そっと。


 沙織は動かなかった。


 葵の額の温かさが、沙織の額にあった。


 それだけだった。


 でも、それだけではなかった。


 窓の外で、朝の光が続いていた。嘘をつかない光が、部屋に満ちていた。


 葵がゆっくりと離れた。


「沙織さん」と葵は言った。


「はい」


「昨夜のこと」


「はい」


「後悔していますか」と葵は言った。


 沙織は少し間を置いた。


「していないです」と言った。


「よかった」と葵は言った。


 その「よかった」が、昨夜の縁側で「嫌じゃなかったです」と沙織が言った後の「よかった」と、同じ声の質だった。安堵している「よかった」だった。


 葵も、後悔していないかどうかを、確かめていたのだ。


「葵さんは」と沙織は言った。


「していないです」と葵は言った。即座に言った。「これっぽっちも」


 これっぽっちも、という言い方が、葵らしくなかった。


 でも葵の目は真剣だった。


「台所に行かなければいけないです」と沙織は言った。


「そうですね」と葵は言った。


「七時の朝食を」


「わかりました」


 沙織は起き上がった。


 着替えた。


 ドアを開ける前に、葵を見た。


 葵はシーツの中で、沙織を見ていた。


「また後で」と葵は言った。


「また後で」と沙織は言った。


 廊下に出た。


 自分の部屋の前を通って、台所へ向かった。


 廊下の空気が、いつもと同じだった。


 でも、沙織の体の中にあるものは、いつもと違った。


 台所に入って、コンロに火をつけた。


 やかんに水を入れた。


 窓の外を見た。


 入り江が見えた。朝の光の中で、水面が輝いていた。


 葵が毎朝見たがっていた光が、今朝も続いていた。


 沙織はその光を見ながら、少し体の中を確かめた。


 後悔していない、と言った。


 本当のことだった。


 後悔、という感情がどこにもなかった。代わりに、別の何かがあった。名前をつけるとしたら、温かい、という感触に近かった。でも温かい、という言葉では足りない何かが、体の中にあった。


 やかんが鳴り始めた。


 お茶を淹れた。


 カップを両手で持った。


 台所の窓から、朝の光が入ってきていた。


 葵の部屋の窓には、今頃同じ光が入っているはずだった。


 葵はその光の中にいる。


 沙織はそのことを感じながら、お茶を一口飲んだ。


 温かかった。


 朝の仕込みを始めた。


 いつもと同じ朝だった。でも、いつもと同じではなかった。


 その違いを、沙織は言葉にしなかった。


 言葉にしなくても、体が知っていた。


 窓の外で、朝の光が続いていた。


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