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凪の手前  作者: スラビレ
10/12

10話


 十日目の朝食の時間、葵はいつも通り帰ってきた。


 汗をかいていた。カメラバッグを肩にかけていた。席に着いて、お茶を一口飲んだ。


 昨夜のことは、朝食の会話に出なかった。


 沙織も出さなかった。


 でも何かが変わっていた。葵が席に着いた時、沙織と目が合った。それだけだった。それだけで、昨夜のことがそこにあった。


「今日はどこへ行きましたか」と沙織は言った。


「島の東の端まで歩きました」と葵は言った。「フェリーの航路が見えて」


「那覇行きの」


「はい。朝早いから、まだ霞んでいて、シルエットだけが見えました」


「写真に撮りましたか」


「撮りました。霞んでいる方が、かえってよかったです」


 沙織は朝食を並べた。


 フェリーの航路。那覇へ向かうフェリーが通る海の道。その先は本島で、さらに先は東京だ。


 葵が来た時に乗ってきたフェリーが、毎日行き来している。


 沙織はそのことを、今朝初めて意識した。


 午前中、葵は部屋にいた。


 今日は珍しく、午前中に出かけなかった。写真の整理をしているのか、ただ休んでいるのか、廊下からはわからなかった。


 沙織は仕込みをしながら、葵が部屋にいることを感じていた。


 出かけていない、ということが、今日は少し違う感触があった。


 昨夜、沙織は葵の部屋で目を覚ました。同じ場所に葵がいた。同じ部屋に、二人がいた。


 今は壁一枚を隔てているが、昨夜はその壁がなかった。


 壁がなかった夜があって、今日また壁がある。


 その感触を、沙織は台所で仕込みをしながら、確かめていた。


 昼過ぎ、葵が台所に来た。


「今日の午後、一緒に出られますか」と葵は言った。


「仕込みが終われば」と沙織は言った。「どこへ行きますか」


「フェリーが見える場所に行きたいです。朝に航路が見えたので、もう少し近くで」


「島の東の端に、岬があります。そこからよく見えますが、少し遠いです」


「自転車で行けますか」


「行けます。三十分くらい」


「行きましょう」と葵は言った。


 仕込みが二時頃に終わって、二人で自転車を出した。


 島の東の道を走った。


 風があった。海から来る風が、自転車を漕ぎながら体に当たった。葵は少し前を走っていた。白いTシャツが風にはためいていた。


 日焼けした腕が、ハンドルを握っていた。


 もうずいぶん色が変わった腕だった。来た時の白い肌の面影が、腕の内側にだけ少し残っていた。


 沙織は葵の後ろを走りながら、その腕を見ていた。


 岬は、島の東の端にある小高い場所だった。


 木が何本か生えていて、その下に木のベンチがあった。観光客向けのものではなく、島の人間が休むための簡素なベンチだった。


 二人で自転車を停めて、岬の先に出た。


 海が広がっていた。


 東の海は、西や南とは色が違った。もっと深く、暗い青だった。外洋の色だった。


「広い」と葵は言った。


「島の東側は外洋に面しているので」と沙織は言った。「南や西より波が荒い」


「今日は穏やかですね」


「風がない日は穏やかになります」


 遠くに、白い船が見えた。


 フェリーだった。


 那覇方向へ向かっていた。船体が小さかったから、遠かった。でも、はっきり見えた。


「あれが」と葵は言った。


「はい。毎日この航路を通ります」


「那覇まで何時間ですか」


「二時間くらいです」


 葵はカメラを取り出した。フェリーに向けた。シャッターを切った。


 何枚か撮ってから、カメラを下ろした。


「私が来た時に乗ったやつと、同じ船ですか」と葵は言った。


「同じ会社の船です。同じかどうかはわからないですが」


「同じだとしたら、あの船に乗ってここに来て、また同じ船で帰る」


 帰る、という言葉が出た。


 沙織はそれを聞いて、少し体の中で何かが引っかかった。


「いつ帰る予定ですか」と沙織は言った。聞くつもりはなかった。でも出てきた。


「八月の終わりです」と葵は言った。「最初の予定通り」


「変わらないですか」


「仕事の都合があるので」葵はフェリーを見ながら言った。「九月から、少し動かなければいけないことがあって」


「そうですか」


「沙織さんは」と葵は言った。


「はい」


「私が帰った後のことを、考えますか」


 沙織は少し間を置いた。


「考えないようにしていましたが」と言った。「今朝から、少し考えています」


 葵はフェリーから視線を沙織の方へ移した。


「私も」と葵は言った。「今朝から」


 フェリーが、少しずつ遠くなっていった。


「残り三週間くらいですか」と葵は言った。


「そうなりますね」


「長いですか、三週間」


「長いとも、短いとも」と沙織は言った。


「私には短いです」と葵は言った。「もう十日経ったと思ったら、あっという間で。残り三週間が、同じ速さで過ぎたら」


「短い」


「はい」


 フェリーが、水平線に近づいていた。


「沙織さん」と葵は言った。


「はい」


「帰りたくないとは言えないですが」と葵は言った。「でも、帰りたいとも思えないです。今は」


「どちらとも言えない」


「どちらとも言えないです」と葵は言った。「今の方が、帰ることが具体的になっていて」


「具体的に」


「沙織さんがいる場所から離れる、ということが」と葵は言った。


 さらりと言った。


 沙織はフェリーの方を向いたまま、それを聞いた。


「私も」と沙織は言った。「葵さんがいなくなる、ということが、今朝から少し具体的です」


 葵が沙織を見た。


 沙織もフェリーから葵に視線を移した。


 目が合った。


「答えがないことは、わかっています」と葵は言った。


「はい」


「私が帰った後のことを、どうするかの答えが、今はないことも」


「今は」


「今は、ないです」と葵は言った。「でも、なくてもいいと思っています。今は」


 沙織は少し考えた。


「今がある」と沙織は言った。


「そうです」と葵は言った。「今ここにいる。それだけで今は十分で」


 フェリーが、水平線に消えていった。


 白い船体が、空と海の境目を越えて、見えなくなった。


 二人でそれを見ていた。


「また来ますか」と葵は言った。「この岬に」


「来ます」と沙織は言った。


「葵さんが見たいなら」


 葵は少し笑った。複雑な笑い方だった。嬉しいだけではない、何かが混ざった笑い方だった。


「見たいです」と葵は言った。「でも、フェリーより、沙織さんと来たいので」


「同じことです」


「そうですね」と葵は言った。


 木陰のベンチに移った。並んで座った。


 葵の腕が、沙織の腕に触れていた。


「沙織さんは」と葵は言った。


「はい」


「東京に来ることは考えませんか」


「東京に」と沙織は言った。


「いつか、でもいいですが。もし来ることがあれば、会えると思って」


「考えたことがなかったです」と沙織は言った。正直に。


「そうですか」


「島を出ることを考えた時、東京は選択肢になかったです」


「東京は遠すぎますか」


「遠いというより、想像できない場所です。葵さんが話してくれる東京は、少し想像できるようになりましたが」


「どんな東京が想像できますか」


「明かりの多い夜と、星の見えない空と」沙織は少し考えた。「葵さんがいた場所」


 葵は少し沙織を見た。


「葵さんがいた場所、というのが入るんですね」


「入ります」


「それが入ると、東京が少し具体的になりますか」


「少し」と沙織は言った。


 葵は前を向いた。海を見た。


「私が帰った後も」と葵は言った。「沙織さんのことを考えると思います」


「私も」と沙織は言った。「葵さんのことを考えると思います」


「帰った後も」


「帰った後も」


 葵の腕が、沙織の腕に触れていた。


「今のことを、覚えていてください」と葵は言った。


「覚えます」と沙織は言った。


「全部」


「全部」


 葵が、沙織の手を取った。


 昼間の、木陰の中で。


 沙織は握り返した。


 昼の光の中で、手を握った。嘘をつかない光の中で。





 帰り道、二人で自転車を並べて走った。


 来る時は葵が前で、沙織が後ろだった。帰りは並んだ。道が少し広かったから、並べた。


 風が来た。


 葵が自転車を漕ぎながら、少し沙織の方を見た。


「また明日、一緒に出られますか」と葵は言った。


「どこへ行きたいですか」


「どこでも」と葵は言った。「沙織さんが連れていってくれる場所なら」


「沙織さんが知っている場所を、私がまだ知らないところが、まだあると思うので」


「まだあります」


「全部、連れていってもらえますか」と葵は言った。「残り三週間で」


「三週間では難しいですが」


「できる限り」


「できる限り」と沙織は言った。


 自転車を並べて走った。


 風が体に当たった。


 夕食の後、縁側に出た。


 今夜は月がなかった。新月に近い夜で、星が多かった。


 並んで座った。


「月がない夜は、星が多いですね」と葵は言った。


「月が明るいと、星が見えなくなるので」


「月と星は、どちらかが明るいとどちらかが見えない」


「そうなりますね」


「どちらが好きですか」と葵は言った。


「両方」と沙織は言った。「月がある夜は月が好きで、星がある夜は星が好きです」


「その日によって変わる」


「その日にあるものが好きです」


 葵は少し沙織を見た。


「それも正直な言い方ですね」と葵は言った。


 二人で星を見た。


 葵が手を、沙織の手に重ねた。


 今夜は昼間のように握るのではなく、重ねた。


「今日のこと、全部覚えます」と葵は言った。


「岬と、フェリーと」と沙織は言った。


「それと、帰り道」


「帰り道」


「並んで自転車を漕いだこと」と葵は言った。「風が来た時に、沙織さんが少し目を細めたこと」


 沙織は少し葵を見た。


「見ていましたか」


「見ていました」


「いつも見ているんですか」


「見ています」と葵は言った。「目に入ったものを見ているので」


「私が目に入る」


「入ります」と葵は言った。「よく」


 星が、無数にあった。


 葵の手が、沙織の手の上にあった。


 今夜は、このまま縁側にいた。


 昨夜のように、部屋に向かう流れにはならなかった。


 ただ、手が重なったまま、星を見ていた。


 それでよかった、と沙織は思った。


 昨夜があった。今夜は星を見ている。どちらも本当のことだった。


 葵が部屋に戻ったのは、十一時を過ぎた頃だった。


「おやすみなさい、沙織さん」と言って、立ち上がった。


「おやすみなさい」と沙織は言った。


「また明日」


「また明日」


 葵が廊下に消えた。


 沙織は縁側に一人で残った。


 手の上に、葵の手のひらの感触があった。


 残り三週間。


 その言葉が、今夜初めて、具体的な重さを持って沙織の中にあった。


 三週間後、葵はフェリーに乗る。岬から見えた航路を通って、那覇へ向かう。


 それが来る。


 来ることは、今夜の星と同じように、本当のことだった。


 沙織は星を見ながら、そのことを、逃げずに考えた。


 考えて、それから目を閉じた。


 波の音がしていた。


 縁側から立ち上がって、部屋に戻った。


 布団に入って、電気を消した。


 葵の部屋の気配があった。静かだった。


 今夜は壁があった。昨夜は壁がなかった。


 どちらも本当のことだった。


 沙織は目を閉じた。


 波の音を聞きながら、眠りに落ちた。


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