10話
十日目の朝食の時間、葵はいつも通り帰ってきた。
汗をかいていた。カメラバッグを肩にかけていた。席に着いて、お茶を一口飲んだ。
昨夜のことは、朝食の会話に出なかった。
沙織も出さなかった。
でも何かが変わっていた。葵が席に着いた時、沙織と目が合った。それだけだった。それだけで、昨夜のことがそこにあった。
「今日はどこへ行きましたか」と沙織は言った。
「島の東の端まで歩きました」と葵は言った。「フェリーの航路が見えて」
「那覇行きの」
「はい。朝早いから、まだ霞んでいて、シルエットだけが見えました」
「写真に撮りましたか」
「撮りました。霞んでいる方が、かえってよかったです」
沙織は朝食を並べた。
フェリーの航路。那覇へ向かうフェリーが通る海の道。その先は本島で、さらに先は東京だ。
葵が来た時に乗ってきたフェリーが、毎日行き来している。
沙織はそのことを、今朝初めて意識した。
午前中、葵は部屋にいた。
今日は珍しく、午前中に出かけなかった。写真の整理をしているのか、ただ休んでいるのか、廊下からはわからなかった。
沙織は仕込みをしながら、葵が部屋にいることを感じていた。
出かけていない、ということが、今日は少し違う感触があった。
昨夜、沙織は葵の部屋で目を覚ました。同じ場所に葵がいた。同じ部屋に、二人がいた。
今は壁一枚を隔てているが、昨夜はその壁がなかった。
壁がなかった夜があって、今日また壁がある。
その感触を、沙織は台所で仕込みをしながら、確かめていた。
昼過ぎ、葵が台所に来た。
「今日の午後、一緒に出られますか」と葵は言った。
「仕込みが終われば」と沙織は言った。「どこへ行きますか」
「フェリーが見える場所に行きたいです。朝に航路が見えたので、もう少し近くで」
「島の東の端に、岬があります。そこからよく見えますが、少し遠いです」
「自転車で行けますか」
「行けます。三十分くらい」
「行きましょう」と葵は言った。
仕込みが二時頃に終わって、二人で自転車を出した。
島の東の道を走った。
風があった。海から来る風が、自転車を漕ぎながら体に当たった。葵は少し前を走っていた。白いTシャツが風にはためいていた。
日焼けした腕が、ハンドルを握っていた。
もうずいぶん色が変わった腕だった。来た時の白い肌の面影が、腕の内側にだけ少し残っていた。
沙織は葵の後ろを走りながら、その腕を見ていた。
岬は、島の東の端にある小高い場所だった。
木が何本か生えていて、その下に木のベンチがあった。観光客向けのものではなく、島の人間が休むための簡素なベンチだった。
二人で自転車を停めて、岬の先に出た。
海が広がっていた。
東の海は、西や南とは色が違った。もっと深く、暗い青だった。外洋の色だった。
「広い」と葵は言った。
「島の東側は外洋に面しているので」と沙織は言った。「南や西より波が荒い」
「今日は穏やかですね」
「風がない日は穏やかになります」
遠くに、白い船が見えた。
フェリーだった。
那覇方向へ向かっていた。船体が小さかったから、遠かった。でも、はっきり見えた。
「あれが」と葵は言った。
「はい。毎日この航路を通ります」
「那覇まで何時間ですか」
「二時間くらいです」
葵はカメラを取り出した。フェリーに向けた。シャッターを切った。
何枚か撮ってから、カメラを下ろした。
「私が来た時に乗ったやつと、同じ船ですか」と葵は言った。
「同じ会社の船です。同じかどうかはわからないですが」
「同じだとしたら、あの船に乗ってここに来て、また同じ船で帰る」
帰る、という言葉が出た。
沙織はそれを聞いて、少し体の中で何かが引っかかった。
「いつ帰る予定ですか」と沙織は言った。聞くつもりはなかった。でも出てきた。
「八月の終わりです」と葵は言った。「最初の予定通り」
「変わらないですか」
「仕事の都合があるので」葵はフェリーを見ながら言った。「九月から、少し動かなければいけないことがあって」
「そうですか」
「沙織さんは」と葵は言った。
「はい」
「私が帰った後のことを、考えますか」
沙織は少し間を置いた。
「考えないようにしていましたが」と言った。「今朝から、少し考えています」
葵はフェリーから視線を沙織の方へ移した。
「私も」と葵は言った。「今朝から」
フェリーが、少しずつ遠くなっていった。
「残り三週間くらいですか」と葵は言った。
「そうなりますね」
「長いですか、三週間」
「長いとも、短いとも」と沙織は言った。
「私には短いです」と葵は言った。「もう十日経ったと思ったら、あっという間で。残り三週間が、同じ速さで過ぎたら」
「短い」
「はい」
フェリーが、水平線に近づいていた。
「沙織さん」と葵は言った。
「はい」
「帰りたくないとは言えないですが」と葵は言った。「でも、帰りたいとも思えないです。今は」
「どちらとも言えない」
「どちらとも言えないです」と葵は言った。「今の方が、帰ることが具体的になっていて」
「具体的に」
「沙織さんがいる場所から離れる、ということが」と葵は言った。
さらりと言った。
沙織はフェリーの方を向いたまま、それを聞いた。
「私も」と沙織は言った。「葵さんがいなくなる、ということが、今朝から少し具体的です」
葵が沙織を見た。
沙織もフェリーから葵に視線を移した。
目が合った。
「答えがないことは、わかっています」と葵は言った。
「はい」
「私が帰った後のことを、どうするかの答えが、今はないことも」
「今は」
「今は、ないです」と葵は言った。「でも、なくてもいいと思っています。今は」
沙織は少し考えた。
「今がある」と沙織は言った。
「そうです」と葵は言った。「今ここにいる。それだけで今は十分で」
フェリーが、水平線に消えていった。
白い船体が、空と海の境目を越えて、見えなくなった。
二人でそれを見ていた。
「また来ますか」と葵は言った。「この岬に」
「来ます」と沙織は言った。
「葵さんが見たいなら」
葵は少し笑った。複雑な笑い方だった。嬉しいだけではない、何かが混ざった笑い方だった。
「見たいです」と葵は言った。「でも、フェリーより、沙織さんと来たいので」
「同じことです」
「そうですね」と葵は言った。
木陰のベンチに移った。並んで座った。
葵の腕が、沙織の腕に触れていた。
「沙織さんは」と葵は言った。
「はい」
「東京に来ることは考えませんか」
「東京に」と沙織は言った。
「いつか、でもいいですが。もし来ることがあれば、会えると思って」
「考えたことがなかったです」と沙織は言った。正直に。
「そうですか」
「島を出ることを考えた時、東京は選択肢になかったです」
「東京は遠すぎますか」
「遠いというより、想像できない場所です。葵さんが話してくれる東京は、少し想像できるようになりましたが」
「どんな東京が想像できますか」
「明かりの多い夜と、星の見えない空と」沙織は少し考えた。「葵さんがいた場所」
葵は少し沙織を見た。
「葵さんがいた場所、というのが入るんですね」
「入ります」
「それが入ると、東京が少し具体的になりますか」
「少し」と沙織は言った。
葵は前を向いた。海を見た。
「私が帰った後も」と葵は言った。「沙織さんのことを考えると思います」
「私も」と沙織は言った。「葵さんのことを考えると思います」
「帰った後も」
「帰った後も」
葵の腕が、沙織の腕に触れていた。
「今のことを、覚えていてください」と葵は言った。
「覚えます」と沙織は言った。
「全部」
「全部」
葵が、沙織の手を取った。
昼間の、木陰の中で。
沙織は握り返した。
昼の光の中で、手を握った。嘘をつかない光の中で。
帰り道、二人で自転車を並べて走った。
来る時は葵が前で、沙織が後ろだった。帰りは並んだ。道が少し広かったから、並べた。
風が来た。
葵が自転車を漕ぎながら、少し沙織の方を見た。
「また明日、一緒に出られますか」と葵は言った。
「どこへ行きたいですか」
「どこでも」と葵は言った。「沙織さんが連れていってくれる場所なら」
「沙織さんが知っている場所を、私がまだ知らないところが、まだあると思うので」
「まだあります」
「全部、連れていってもらえますか」と葵は言った。「残り三週間で」
「三週間では難しいですが」
「できる限り」
「できる限り」と沙織は言った。
自転車を並べて走った。
風が体に当たった。
夕食の後、縁側に出た。
今夜は月がなかった。新月に近い夜で、星が多かった。
並んで座った。
「月がない夜は、星が多いですね」と葵は言った。
「月が明るいと、星が見えなくなるので」
「月と星は、どちらかが明るいとどちらかが見えない」
「そうなりますね」
「どちらが好きですか」と葵は言った。
「両方」と沙織は言った。「月がある夜は月が好きで、星がある夜は星が好きです」
「その日によって変わる」
「その日にあるものが好きです」
葵は少し沙織を見た。
「それも正直な言い方ですね」と葵は言った。
二人で星を見た。
葵が手を、沙織の手に重ねた。
今夜は昼間のように握るのではなく、重ねた。
「今日のこと、全部覚えます」と葵は言った。
「岬と、フェリーと」と沙織は言った。
「それと、帰り道」
「帰り道」
「並んで自転車を漕いだこと」と葵は言った。「風が来た時に、沙織さんが少し目を細めたこと」
沙織は少し葵を見た。
「見ていましたか」
「見ていました」
「いつも見ているんですか」
「見ています」と葵は言った。「目に入ったものを見ているので」
「私が目に入る」
「入ります」と葵は言った。「よく」
星が、無数にあった。
葵の手が、沙織の手の上にあった。
今夜は、このまま縁側にいた。
昨夜のように、部屋に向かう流れにはならなかった。
ただ、手が重なったまま、星を見ていた。
それでよかった、と沙織は思った。
昨夜があった。今夜は星を見ている。どちらも本当のことだった。
葵が部屋に戻ったのは、十一時を過ぎた頃だった。
「おやすみなさい、沙織さん」と言って、立ち上がった。
「おやすみなさい」と沙織は言った。
「また明日」
「また明日」
葵が廊下に消えた。
沙織は縁側に一人で残った。
手の上に、葵の手のひらの感触があった。
残り三週間。
その言葉が、今夜初めて、具体的な重さを持って沙織の中にあった。
三週間後、葵はフェリーに乗る。岬から見えた航路を通って、那覇へ向かう。
それが来る。
来ることは、今夜の星と同じように、本当のことだった。
沙織は星を見ながら、そのことを、逃げずに考えた。
考えて、それから目を閉じた。
波の音がしていた。
縁側から立ち上がって、部屋に戻った。
布団に入って、電気を消した。
葵の部屋の気配があった。静かだった。
今夜は壁があった。昨夜は壁がなかった。
どちらも本当のことだった。
沙織は目を閉じた。
波の音を聞きながら、眠りに落ちた。




