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凪の手前  作者: スラビレ
11/12

11話


 八月になった。


 七月と八月では、島の夏の質が少し変わる。


 七月の夏は、勢いがある夏だ。草が伸びる速さ、日差しの角度、朝の光の色、全部に勢いがある。でも八月になると、勢いは同じでも、少し充実した感じになる。夏が最も夏らしくなる季節だ。


 葵が島に来て、二十日以上が経っていた。


 葵の肌は、最初の白い肌とは全然違う色になっていた。腕も、首も、顔も、日焼けが深く入って、島の人間に近い色になっていた。腕の内側だけが、他より少し薄かった。


 沙織はその変化を、毎日見ていた。


 毎日見ながら、八月になった。


 その日の朝、沙織は海が凪いでいることに気づいた。


 完全に凪いでいた。


 風が全くなかった。水面が、鏡のようだった。入り江の景色が、水面にそのまま映っていた。空と島と海が、二重になっていた。


 こういう日は、年に数回しかない。


 波の音がしなかった。


 波の音のしない朝は、静かだった。静かすぎて、少し不思議な感じがした。


 台所で仕込みをしながら、沙織はその静けさを感じていた。


 今日は、葵を海に連れていこうと思った。


 泳げる浜があった。南の浜の、岩礁の内側に、波が入らない場所がある。そこは凪いでいる日に限って、水底の砂が透けて見えるほど透明になる。


 泳ぎますか、と昨日の夜に聞いておけばよかった。でも昨夜は縁側で、そういう話にならなかった。


 葵が帰ってきたら聞けばいい。



 七時の朝食の時間、葵はいつも通り帰ってきた。


 今日は少し興奮した様子だった。


「海が、鏡みたいになっています」と葵は言った。


「凪いでいます」と沙織は言った。


「あんなに静かな海を見たのは、初めてです」葵は席に着いた。「音がしない」


「波の音がしない日は、年に数回しかないです。夏の盛りに、風が止んだ日に来ます」


「写真を撮ってきました。でも、あの静けさは写真には写らなくて」


「音は写りませんから」


「そうですね」と葵は言った。「見て、体で感じないとわからないものが、世界にはたくさんある」


 沙織は朝食を並べた。


「今日、泳ぎませんか」と沙織は言った。


 葵が顔を上げた。


「凪いでいる日に、海に入ったことがないので」


「泳げますか」


「泳げます」と葵は言った。「どこへ行きますか」


「南の浜の岩礁の内側です。今日みたいな日は、水底が見えるくらい透明になります」


「行きたいです」と葵は言った。即座に言った。


 午後、仕込みを早めに終わらせて、二人で南の浜へ向かった。


 草道を歩いた。今日は風がないから、草が揺れなかった。蝉の声だけがしていた。


「今日は草が動かないですね」と葵は言った。


「風がないので」


「いつもは少し揺れているのに、今日は止まっている。同じ草なのに、全然違う感じがします」


「凪いでいる日は、何もかもが止まっている感じがします」


「不思議な静けさですね」と葵は言った。「怖いくらい」


「怖いですか」


「少し」と葵は言った。「でも、好きです。こういう静けさが」


 砂浜に出た。


 今日の南の浜は、最初に来た日とは全然違う顔をしていた。波がない。波音がない。水面が完全に平らで、光が均一に反射していた。


「すごい」と葵は言った。


 立ち止まって、海を見ていた。


 カメラを取り出そうとして、取り出さなかった。


「今日は」と葵は言った。「見るだけにします」


「撮らないんですか」


「ここは体で感じたい。写真は後でもいいです」


 沙織は少し葵を見た。


 最初の頃、葵は何に対してもカメラを向けていた。目に入ったものをすぐに撮っていた。それが今日は、カメラより目を選んだ。


 何かが変わっている、と思った。


 島が変えたのか、それとも別の何かが変えたのか。


「着替えましょうか」と沙織は言った。


 岩の陰で、二人は水着に着替えた。


 沙織が先に着替えて、海の方を向いていると、葵が「沙織さん」と言った。


 振り返ると、葵がTシャツを脱いでいるところだった。


 水着の上半分が見えた。


 日焼けした肩が、八月の光の中にあった。


 脱いだTシャツを岩の上に置いて、葵が沙織を見た。


「泳ぎましょう」と葵は言った。


 二人で砂浜を歩いた。


 波がないから、海に入る瞬間も静かだった。いつもは波が足に来るが、今日は自分から海の中に入っていく感じだった。


 水が冷たかった。


 八月の海は温かいはずだったが、今日は少し冷たく感じた。凪いでいる日は、水が混ざらないから、表面の水温が下がることがある。


「冷たい」と葵は言った。


「凪いでいる日は、少し冷たいです」


「でも気持ちいいです」


 腰まで入った。胸まで入った。


 葵が水に潜った。


 しばらくして、顔を出した。髪が濡れていた。水が顔から流れていた。


「透明だ」と葵は言った。「水の中から見ると、砂が見えて、光が揺れて」


「今日みたいな日は、特によく見えます」


 沙織も潜った。


 目を開けると、砂が見えた。光が水中に入って、砂の上で揺れていた。小さな魚が数匹、砂の近くを泳いでいた。


 浮かび上がって、水面に出た。


 葵が近くにいた。


 二人で、岩礁の内側を泳いだ。


 波がないから、体が余計な力を使わなくてよかった。ただ、水の中にいればよかった。


 沙織は仰向けになって、空を見た。


 八月の空が、真上にあった。雲がなかった。青かった。


 葵が隣に来た。


 同じように仰向けになった。


 二人で空を見た。


 水面が穏やかだったから、仰向けのまま浮いていられた。耳が水の中に入って、外の音が遠くなった。


 空の青だけがあった。


 葵の手が、水の中で沙織の手に触れた。


 波がないから、手が流れなかった。触れたまま、そこにあった。


 沙織は手を動かさなかった。


 空を見たまま、葵の手の感触を感じていた。


 水の中の手だった。


 水の中の手の温かさは、縁側の夜の手の温かさとは少し違った。水がある分、直接的ではなかったが、その分、他の感触が全部消えていた。空と水と、葵の手だけがあった。


 上がって、砂浜に戻った。


 二人でタオルで体を拭いた。


 葵の髪が濡れていた。首に張り付いていた。肩に水滴が残っていた。


 沙織はタオルを持ったまま、少し立ち止まった。


「髪、拭きますか」と沙織は言った。


「ありがとうございます」と葵は言った。


 沙織は葵の後ろに立った。


 タオルで、葵の髪を包んだ。


 ゆっくりと、水分を取るように、押さえながら拭いた。


 葵は動かなかった。


 沙織の手の下に、葵の頭があった。タオル越しに、葵の頭の形があった。


 髪を拭きながら、首の後ろが見えた。


 日焼けした首の後ろが、濡れていた。水滴が、肩甲骨の方へ流れていた。


 沙織はタオルを首の後ろに当てた。


 葵が少し息を吸った。


「冷たかったですか」と沙織は言った。


「冷たくないです」と葵は言った。「沙織さんの手が」


 タオルを通して、沙織の手の温かさが伝わっているということだった。


 沙織は首の後ろをゆっくりと拭いた。


 アロエを塗った最初の日、この場所に指を当てた。あの時の皮膚の熱さを、今も少し覚えていた。あの時より、今の首の後ろは日焼けが深く入っていた。


 拭き終わって、沙織は手を引いた。


 葵が振り返った。


 濡れた顔が、沙織の前にあった。


 近かった。


 葵が少し体を傾けた。


 縁側でそうしていたように。


 でも今日は砂浜で、昼の光の中だった。


 葵の額が、沙織の額に触れた。


 九日目の朝に、葵の部屋で目が覚めた後に触れた、あの触れ方だった。


 沙織は動かなかった。


 葵の額の温かさが、沙織の額にあった。


 波の音がしない砂浜で、蝉の声だけがしていた。


「沙織さん」と葵は言った。低い声だった。


「はい」


「今夜」と葵は言った。


 それだけだった。続きは言わなかった。


 でも、沙織にはわかった。


 今夜、ということだった。


 沙織は額を離さなかった。


「はい」と沙織は言った。




 夕食が終わって、縁側に出た。


 今夜も凪いでいた。


 昼間の海と同じように、夜の入り江も鏡のようだった。月の光が、水面に映っていた。揺れなかった。ただ、そこにあった。


 並んで座った。


 今夜は二人とも、言葉が少なかった。


 海を見ていた。


 凪いだ海を見ていた。


 葵が手を、沙織の手に重ねた。


 今夜の手の重ね方は、これまでと少し違った。


 力が入っていた。


 軽く重ねるのではなく、しっかりと、沙織の手を包むように重ねていた。


 沙織は握り返した。


 昼間の岬で握り返したのと同じように、今夜も握り返した。


 二人の手が、しっかりと重なっていた。


「残り何日ですか」と沙織は言った。


「十日くらいです」


「十日」


「はい」


 葵は少し黙った。


「短いですね」と言った。


「短いです」と沙織は言った。


「沙織さんは」と葵は言った。


「はい」


「私が帰った後のことを、まだ考えないようにしていますか」


「今は、考えています」と沙織は言った。


「どう考えていますか」


 沙織は少し間を置いた。


「葵さんがいなくなる、ということが」と沙織は言った。「ここがどういう場所に戻るのか、想像しようとしても、できないです」


「できない」


「葵さんが来る前の、この縁側を思い出せない」と沙織は言った。「葵さんがいるのが当たり前になっているので」


 葵は沙織の手を、少し強く握った。


「私も」と葵は言った。「ここにいることが、当たり前になっています。東京に戻った後の生活を、想像しようとしても、うまくできなくて」


「それは困りますか」


「困ります」と葵は言った。「でも、それだけここが大切になったということで」


 二人で、凪いだ海を見た。


 月の光が水面に映っていた。揺れない月だった。


「沙織さん」と葵は言った。


「はい」


「好きです」


 さらりと、でも確かに言った。


 これまでで一番、直接的な言葉だった。


 沙織はその言葉を、体の中に受け取った。


 受け取って、少し息が変わった。


「私も」と沙織は言った。


「私も、好きです」


 葵が沙織の方を向いた。


 沙織も葵の方を向いた。


 目が合った。


 月の光の中で。


 葵の目が、何かを確かめていなかった。確かめるより前に、すでにわかっていた目だった。


 葵が少し近づいた。


 今夜の距離の縮め方は、これまでより速かった。


 沙織も動いた。


 離れる方向ではなかった。


 唇が触れた。


 波の音のしない夜に、唇が触れた。


 静かだった。


 凪いだ夜の、静かな接触だった。


 少しして、離れた。


 葵が沙織を見た。


「部屋に戻りますか」と葵は言った。


 沙織は少し間を置いた。


「はい」と言った。


 廊下を歩いた。


 葵の部屋のドアを開けた。


 入った。


 窓が開いていた。凪いだ夜の空気が、部屋に入ってきていた。月の光が、窓から差し込んでいた。


 葵が沙織を見た。


 月の光の中で、葵の顔があった。


 沙織は葵の顔を見た。


 日焼けした肌が、月の光の中で少し光っていた。


 葵が手を伸ばした。


 沙織の顔に触れた。


 ゆっくりと、頬に手が触れた。


 それだけで、沙織の体の中の何かが変わった。


 頬に触れたまま、葵が近づいた。


 今度は、縁側での接触より長かった。


 窓の外で、凪いだ夜が続いていた。


 どのくらい経ったか、わからなかった。


 月が窓の中で動いていた。


 葵の体が、沙織のそばにあった。


 二人で横になっていた。


 葵の腕が、沙織の肩のあたりにあった。


 沙織は葵の肩口のあたりに、顔があった。


 葵の肌の匂いがした。海の匂いと、葵の匂いが混ざっていた。


 今日、同じ海に入った。同じ水の中にいた。その水の匂いが、まだ葵の肌にあった。


 沙織はその匂いを感じながら、目を閉じていた。


「沙織さん」と葵は言った。静かな声だった。


「はい」


「眠れますか」


「眠れます」と沙織は言った。「眠くなってきました」


「そうですか」


 葵の腕が、少し動いた。


 沙織の肩に、もう少し力が入った。


 引き寄せる、というほどではなかった。ただ、少し近くに引いた。


 沙織は動かなかった。


 葵の腕の中にいた。


 波の音がしなかった。


 凪いだ夜の静けさが、部屋の中にあった。


 月の光が、少しずつ動いていた。


「また朝が来ますね」と葵は言った。


「来ます」と沙織は言った。


「朝の光が、嘘をつかない光が」


「葵さんが毎朝見ている光が」


「そうです」と葵は言った。「でも今朝は、見に行かなくてもいい気がします」


「ここで待っていれば、光は来るので」


「そうですね」と葵は言った。「光の方が来てくれる」


 沙織は目を閉じたまま、葵の声を聞いていた。


 低くて、落ち着いた声が、暗い部屋の中にあった。


「おやすみなさい」と葵は言った。


「おやすみなさい」と沙織は言った。


 葵の腕の中で、沙織はゆっくりと目を閉じた。


 凪いだ夜が、続いていた。


 波の音のしない静けさの中で、二人の呼吸だけがあった。


 月の光が、少しずつ、部屋の中を動いていた。




 朝、光で目が覚めた。


 今朝も、葵の部屋だった。


 窓が開いていた。朝の光が入ってきていた。


 海が見えた。


 今朝も、凪いでいた。


 二日続けての凪だった。珍しいことだった。こんなに長く凪ぐのは、年に一度あるかないかだった。


 葵が起きていた。


 沙織の隣で、窓の方を向いて、海を見ていた。


「起きていたんですか」と沙織は言った。


「少し前に」と葵は言った。「光が来たので」


「見に行かなかったんですか」


「ここから見えるので」


 葵は窓の外の海を見ていた。


 沙織も同じ方を見た。


 凪いだ朝の海が見えた。朝の光の中で、水面が橙色に輝いていた。


「きれいですね」と葵は言った。


「そうですね」


「嘘をつかない光の中の、凪いだ海です」


「珍しい組み合わせですね」


「こういうことが重なる日が、あるんですね」と葵は言った。


「ほとんどないですけど、たまにあります」


「今日みたいな日が」


「はい」


 葵が沙織の方を向いた。


 朝の光の中で、葵の顔があった。


 昨夜の月の光の中で見た顔とは、また少し違った。朝の光は正直だから、葵の顔がそのまま見えた。


 昨夜のことが、その顔にあった。


 隠れていなかった。


「おはようございます」と葵は言った。


「おはようございます」と沙織は言った。


 葵が少し近づいた。


 額が、沙織の額に触れた。


 九日目の朝と同じ触れ方だった。


 でも今朝は、昨夜のことがある朝だった。同じ触れ方が、違う重さだった。


「今日も凪いでいますね」と葵は言った。額が触れたまま言った。


「そうですね」と沙織は言った。


「沙織さんは」


「はい」


「私が来てよかったですか」と葵は言った。


 沙織は少し間を置いた。


「よかったです」と言った。「とても」


「とても」と葵は繰り返した。少し笑った気配があった。


「葵さんは」と沙織は言った。


「よかったです」と葵は言った。即座に言った。「来てよかった。ここに来て、沙織さんに会えてよかった」


 額が離れた。


 葵が沙織を見た。


「台所に行かなければいけないですか」と葵は言った。


「七時の朝食があります」


「あと少し、ここにいてもいいですか」


「あと少し」と沙織は言った。


 窓の外で、朝の光が続いていた。


 凪いだ海が、光を受けていた。


 二人で、その光を見ていた。


 あと少しの時間が、静かにあった。


 波の音はまだしなかった。


 凪が、続いていた。


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