12話 終
八月の終わりが近づいていた。
島の夏は、終わり方が急だ。
ある朝、光の角度が少し変わっていることに気づく。気づいた時にはもう、夏が少し後退し始めている。草の勢いが、ほんの少し落ちる。蝉の声が、ほんの少し変わる。海の色が、ほんの少し深くなる。
どれも、言葉にすると大げさになる変化だ。でも体は知っている。今年の夏が、終わろうとしていることを。
沙織はそれを、葵が来て最初の朝から知っていた。
でも今年は、例年と違う終わり方をしていた。
葵が島に来て、二十八日が経っていた。
残り三日だった。
三十一日にフェリーが出る。那覇へ向かうフェリーに乗って、空港へ行って、東京へ戻る。葵はそう言っていた。
沙織はその日付を、もう何日も頭の中に持っていた。
三十一日。
三十一日が来る前の、今日がある。明日がある。明後日がある。
それだけのことだったが、それだけのことではなかった。
二十九日の朝、葵が帰ってきた時、いつもより遅かった。
八時近かった。今日は少し遠くまで行ったのかもしれない。
「遅かったですね」と沙織は言った。
「島の北の端まで歩きました」と葵は言った。「今日は遠くまで行きたくて」
「何を撮りましたか」
「全部を撮ろうとしました」と葵は言った。「残り三日なので」
残り三日。
葵の口から出ると、その言葉が少し違う重さになった。
「全部、撮れましたか」と沙織は言った。
「撮れないです」と葵は言った。席に着きながら言った。「全部は無理だとわかっていましたが、それでも撮ろうとしました」
「何が撮れませんでしたか」
「音と、匂いと」葵は少し間を置いた。「朝に目が覚めた時の感じと」
朝に目が覚めた時の感じ。
沙織はその言葉を受け取った。
葵が毎朝ここで目を覚ました。最初の頃は自分の部屋で。途中からは、沙織の部屋か葵の部屋で。朝の光が入ってくる中で目を覚ます、その感じが、カメラには収まらない。
「写真に写らないものが、たくさんあります」と沙織は言った。
「そうですね」と葵は言った。「でも、体には残ります」
「残りますね」
「だから、残り三日の間に、できるだけ体に入れておこうと思って」
葵は朝食を食べ始めた。
沙織は葵の顔を見た。
今日の葵の顔は、少し複雑だった。充実しているようで、でも何かが混じっていた。
残り三日の顔だった。
午前中、葵は部屋にいた。
写真の整理をしているのか、ただ過ごしているのかはわからなかった。廊下からは気配だけが感じられた。
沙織は仕込みをしながら、葵が部屋にいることを感じていた。
壁の向こうにいる。
この感触を、初日からずっと持ってきた。最初は、誰かがいる、という安心だった。それがいつの間にか、葵がいる、という感触になった。
残り三日で、この感触がなくなる。
なくなる、ということを、沙織は今日はっきりと考えた。
葵が来る前の生活が、また来る。それは当然のことだ。でも、葵が来る前の生活に戻れるかどうかが、今の沙織にはわからなかった。
戻れる、とは思っていなかった。
戻る、というより、別の何かが始まる気がしていた。
それが何なのかは、まだわからなかった。
昼過ぎ、葵が台所に来た。
「今日の午後、どこかへ行きませんか」と葵は言った。
「どこへ行きたいですか」
「決めていないです」と葵は言った。「沙織さんが行きたい場所に連れていってください」
今まで逆だった。沙織が葵を連れていく側だった。でも今日は、沙織が行きたい場所に、という言い方だった。
「私が行きたい場所」と沙織は言った。
「はい」
沙織は少し考えた。
自分が行きたい場所。葵と一緒に行きたい場所。
「ガジュマルのある場所に行きませんか」と沙織は言った。「葵さんが写真に撮ったのと別のガジュマルで、私が子供の頃によく行った場所があります」
「行きましょう」と葵は言った。即座に言った。
そのガジュマルは、島の中央部にあった。
観光マップには載っていない。島の人間だけが知っている場所で、集落の外れ、小さな丘の中腹にあった。
道は舗装されていなかった。土の道を歩いた。草が両側に生えていた。南の浜へ行く草道とは違う感じがした。こちらの道は、もっと落ち着いた感じがした。長い間、ゆっくりと踏まれてきた道の感じがした。
「この道、誰かに踏まれてきた感じがします」と葵は言った。
「何十年も、島の人間が歩いてきた道なので」
「どんな人間が歩いてきましたか」
「わからないですが」と沙織は言った。「私の父も、子供の頃に歩いたと言っていました。その父の親も歩いたと思います」
「家族で来ていたんですか」
「父に連れてきてもらいました。子供の頃に」
「今でも来ますか」
「葵さんが来るまでは、しばらく来ていなかったです」
「今日来ようと思ったのは」
「葵さんと来たかったので」と沙織は言った。
葵は少し沙織を見た。
「それを言ってくれると」と葵は言った。「嬉しいです」
「本当のことなので」
「また本当のことを言う」
二人で少し笑った。
道を進んだ。
ガジュマルは、思ったより大きかった。
葵が写真に撮ったものとは別の木だったが、同じくらい大きかった。いや、こちらの方が少し大きいかもしれない。幹から無数の根が垂れ下がっていて、地面に届いたものは新しい幹になっていた。木全体が、一つの複雑な構造物のようだった。
葵が立ち止まった。
見上げた。
「大きい」と葵は言った。
「島で一番大きいガジュマルだと思います」
「前に見たのより大きいですね」
「樹齢が長いので。百年以上だと言われています」
葵はカメラを取り出した。
今日は最初から撮っていた。残り三日という気持ちが、カメラを出すことに迷いをなくしているのかもしれなかった。
下から上へ撮った。左から右へ撮った。根の絡み合っている部分を撮った。葉の隙間から差し込む光を撮った。
沙織はその間、木の根元の近くに立って、葵が撮るのを見ていた。
葵がガジュマルの根の間に入っていった。内側から外を見て、カメラを向けた。
根と根の間から、葵の顔が見えた。
笑っていた。
沙織に気づいて、「ここに入ってください」と言った。
「内側にですか」
「はい。二人で入りましょう」
沙織はガジュマルの根の間に入った。
狭かった。葵と二人で入ると、根が体に触れた。
「内側から見ると、外が全部根で囲まれていて」と葵は言った。「別の世界みたいな感じがしませんか」
「する」と沙織は言った。「子供の頃も、この中に入ると別の場所みたいだと思っていました」
「ここでキジムナーに会いましたか」
「会ったかもしれないです」と沙織は言った。「小さい頃は、何かがいる気がして」
「今は」
「今もいてもおかしくないと思っています」
葵は沙織を見た。
根の間の、狭い場所で、二人が近くにいた。
葵が外にカメラを向けた。
根の間から差し込む光を撮った。それから、沙織の方を向いた。
「撮っていいですか」と葵は言った。
「どうぞ」と沙織は言った。
シャッター音がした。
「見せてもらえますか」と沙織は言った。
「今日は見せます」と葵は言った。液晶画面を向けた。
根の間に立っている沙織が写っていた。根が四方を囲んでいて、その中に沙織がいた。光が根の間から差し込んでいた。
「どうですか」と葵は言った。
「囲まれている感じがします」と沙織は言った。
「守られている感じがします、私には」と葵は言った。「根に囲まれて、光の中にいる感じ」
守られている。
沙織はその言い方を、少し頭の中に置いた。
「葵さんが見ると、そう見えるんですね」
「見えます。沙織さんは、島に守られているように見えます。いつも」
「島に」
「ガジュマルに、海に、光に」と葵は言った。「この島の全部に、守られているように見えます。沙織さんが島を守っているのか、島が沙織さんを守っているのか、どちらとも言えないですが」
沙織は葵を見た。
根の間の狭い場所で、葵の顔が近かった。
「葵さんは」と沙織は言った。
「はい」
「ここを離れた後、誰かに守られていますか」
葵は少し間を置いた。
「東京では、あまりそう感じたことがなかったです」と葵は言った。「でも、ここに来てから」
「ここに来てから」
「守られている感じが少しわかりました」と葵は言った。「沙織さんと話していると、そう感じることがあって」
沙織は返事をしなかった。
代わりに、葵の手を取った。
根の間の、狭い場所で。
葵は少し驚いた顔をしてから、握り返した。
二人でガジュマルの内側にいた。
外から、光が差し込んでいた。
帰り道、二人は土の道を並んで歩いた。
行きとは逆で、今日は最初から並んで歩いた。
草が両側にあった。
葵が時々立ち止まって、写真を撮った。沙織はその度に少し待った。
待っている時間が、苦ではなかった。葵が何かを見つけて立ち止まるのを、沙織は待つことに慣れていた。二十八日間で、その待ち方が自分のものになっていた。
「沙織さん」と葵は言った。歩きながら言った。
「はい」
「私が帰った後のことを、一つだけ聞いてもいいですか」
「はい」
「また来てもいいですか、ここに」
沙織は少し間を置いた。
「いつでも」と言った。
「いつでも」
「はい」と沙織は言った。「葵さんが来たい時に」
「来ます」と葵は言った。確信を持って言った。「必ず来ます」
「待っています」と沙織は言った。
言ってから、自分でも少し驚いた。
待っています、という言葉が、自然に出てきた。
葵が振り返った。歩きながら振り返った。
「今、待っていますと言いましたか」と葵は言った。
「言いました」
「本当のことですか」
「本当のことです」と沙織は言った。
葵は前を向いた。
少しして、葵の肩が少し落ちた。
落ちた、というのは、力が抜けた、ということだった。
張り詰めていた何かが、待っています、という言葉で緩んだらしかった。
沙織はその変化を、隣を歩きながら見ていた。
葵の肩が落ちたことが、沙織には何かとして伝わった。
夕方、民宿に戻ると、沙織の母が縁側にいた。
葵を見て、少し微笑んだ。
「今日は遠くまで行ってきましたか」と母は言った。
「ガジュマルを見てきました」と葵は言った。
「中央のですか」
「はい。沙織さんが連れていってくれて」
「あそこは、観光客の人はあまり知らないですね」と母は言った。「私も子供の頃によく行きました」
「大きい木ですね」
「この島で一番だと思います。長生きの木なので、島を見てきたものが多い」
母と葵が話していた。
沙織は台所へ行って、夕食の準備を始めた。
母が葵と話せているのを、台所から感じていた。
葵は島の人間と話すのが上手くなった。最初の頃は少し遠慮がちだったが、今は普通に話している。島の話し方に、少し馴染んできていた。
もうすぐ帰る、という人間の話し方ではなかった。
でも、帰る。
三十一日に、帰る。
夕食が終わって、三人で縁側に出た。
母もいる夜は、あまりなかった。でも今夜は母が出てきた。
三人で夕方の海を見た。
「葵さんが来て、沙織が変わりましたよ」と母は言った。
唐突に言った。
「変わりましたか」と葵は言った。
「顔が変わりました」と母は言った。「この子は、あまり顔に出ない子だったので。でも最近は、少し出るようになって」
「顔に出るようになった」
「いいことだと思っています」と母は言った。「感じたことが顔に出るのは、いいことです」
沙織は黙っていた。
母がこういうことを言うのは、珍しかった。いつも、こういう話をしない人間だった。
「沙織さんは変わりましたか」と葵は母ではなく沙織に向かって言った。
「自分ではわからないです」と沙織は言った。
「でも」と葵は言った。「私から見ると、変わりました」
「どこが」
「最初の頃より、よく笑います」と葵は言った。「声に出ない笑い方ですが、目が笑っている回数が増えました」
「数えていましたか」
「数えていませんが、見ていたので」
母が少し笑った。
「葵さんも変わりましたよ」と母は言った。「来た時は、少し薄い人だった」
「薄い」と葵は言った。
「体じゃなくて、存在が」と母は言った。「ここにいるんだけど、どこかが遠い、という感じで。でも今は、ちゃんとここにいる感じがします」
葵はしばらく黙っていた。
「そうですか」と言った。声が少し低くなった。
「この島に来て、よかったと思いますよ」と母は言った。「あなたにとっても、この子にとっても」
母はそれだけ言って、縁側から立ち上がった。
「私は先に寝ます」と言って、部屋へ戻っていった。
沙織と葵が、縁側に残った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
海が見えた。今日の夕方は、昨日の凪が終わって、少し波が戻っていた。波音が聞こえた。
「お母さんに気づかれていましたね」と葵は言った。
「そうですね」と沙織は言った。
「恥ずかしいですか」
「少し」
「私は」と葵は言った。「恥ずかしくないです。お母さんに気づかれていることが」
「なんでですか」
「隠すものじゃないと思っているので」と葵は言った。「沙織さんのことが好きだということは」
また、さらりと言った。
でも今日の「さらりと」は、最初の頃のそれとは違った。今日のは、迷いがない。当たり前のことを言っている人間の、さらりとした言い方だった。
「私も」と沙織は言った。「隠すものじゃないと思っています」
「葵さんのことが好きだということは」
「はい」
葵は沙織を見た。
沙織も葵を見た。
波の音がしていた。
どちらも笑わなかった。でも、目に何かがあった。
葵が沙織の手を取った。
今夜も、しっかりと。
沙織は握り返した。
夕方の光が、少しずつ落ちていった。
三十日。
残り一日になった。
沙織は朝から、葵が部屋にいる時間を、いつもより多く意識した。
廊下を通る音。窓を開ける音。荷物を整理している音。
葵が出発の準備をしているのが、音でわかった。
キャリーケースを動かす音がした。何かをバッグに入れる音がした。
沙織は台所でその音を聞きながら、仕込みをした。
葵が去る準備をしている。その音が壁を通して来る。
来る、という意味が、今日は違った。
音が来るたびに、少し何かが動いた。胸の少し下のあたりで。痛いとは違う。でも、何かがそこにあった。
仕込みを続けた。
手を動かしていれば、考えが止まる。考えが止まれば、胸の少し下のものが、少し静かになる。
でも止まらなかった。
葵のキャリーケースを動かす音がするたびに、また動いた。
昼過ぎ、葵が台所に来た。
「今日は手伝います」と葵は言った。
「荷造りは終わりましたか」と沙織は言った。
「だいたい」
「だいたいで大丈夫ですか」
「明日の朝に、最後に確認します」
葵は台所の中に入ってきた。
今日は入口の壁にもたれるのではなく、最初から中に入ってきた。
「何をすればいいですか」と葵は言った。
「野菜を切ってもらえますか」
「どれを」
「にんじんを細く」
葵が包丁を持った。
にんじんを切り始めた。最初の頃より、包丁の扱いが少し慣れていた。
二人で並んで、台所に立った。
流しの前で、沙織が豚肉を切って、葵がにんじんを切った。
肩が近かった。
今日は特に近かった。葵が少し沙織の方へ寄っていた。
沙織も離れなかった。
包丁の音が、二人分あった。
「今日の夕食、何ですか」と葵は言った。
「ソーキそばです」と沙織は言った。
「島のそばですか」
「はい。葵さんが来てから、まだ作っていなかったので」
「最後の日の前に」
「明日の朝にフェリーが出るので、今夜がここでの最後の夕食です」
葵は包丁を持ったまま、少し手が止まった。
すぐに動いた。にんじんを切り続けた。
「ソーキそば、食べたかったです」と葵は言った。「名前は聞いていたので」
「好きかどうかはわからないですが」
「好きになります」と葵は言った。「沙織さんが作るものは、全部好きになるので」
沙織は手を止めなかった。
でも、その言葉が体の中に入ってきた。
全部好きになる。
葵が島に来た三十日間で、沙織が作ったものを全部食べた。ゴーヤチャンプルー、ラフテー、タマンの刺身と煮付け、ソーミンチャンプルー、イラブー汁。全部を、おいしいと言って食べた。
その積み重ねが、今夜のソーキそばに続く。
「できたら、また食べに来てください」と沙織は言った。
「来ます」と葵は言った。「ソーキそばを食べに」
「ソーキそばだけですか」
「ソーキそばだけじゃないですが」葵は少し笑った。「口実として」
「口実は要らないです」と沙織は言った。
「そうですね」と葵は言った。「要らないですね」
二人で笑った。
台所に笑い声があった。
ここで何度も笑った。台所で。縁側で。浜で。漁小屋で。岬で。ガジュマルの内側で。
その全部が、今日という日の前にあった。
夕食のソーキそばを、二人で食べた。
今夜は母も一緒だった。三人で食べた。
葵がソーキそばを食べて、「おいしい」と言った。
「本当に」と葵は言った。「骨付きの豚が、やわらかくて」
「長く煮るので」と沙織は言った。
「沖縄そばと、本土のそばは全然違いますね」
「小麦で作るので」
「また食べたいです」と葵は言った。
「また来た時に」と母は言った。
「はい」と葵は言った。躊躇なく言った。「また来ます」
母が葵を見た。
沙織も葵を見た。
葵は真剣な顔でそばを食べていた。
また来ます、という言葉が、今日の葵から出てきた言葉の中で、一番重かった。
夕食が終わって、後片付けをした。
今夜は葵が最初から手伝った。皿を拭いて、棚に戻した。沙織と並んで、流しの前に立った。
最後の夜の後片付けだった。
でも二人とも、最後という言葉を使わなかった。
後片付けが終わって、縁側に出た。
今夜は月が半分だった。
入り江に月光が差していた。半分の月の、柔らかい光だった。満月より少し暗くて、でも星より明るかった。
並んで座った。
今夜は言葉が少なかった。
最初から、言葉より先に、葵の手が来た。
沙織の手に重なった。
今夜の手の重さは、これまでで一番だった。しっかりと、確かめるように重なっていた。
沙織は握り返した。
波の音がしていた。今夜は少し波があった。規則的な音が続いていた。
「明日の朝、何時に出ますか」と沙織は言った。
「七時のフェリーなので、六時半には港に着きたいです」
「六時に起きれば間に合います」
「そうですね」
「目覚ましをかけておきます」
「ありがとうございます」と葵は言った。
また少し黙った。
「沙織さん」と葵は言った。
「はい」
「今夜のことを、覚えておいてください」
「覚えます。全部」と沙織は言った。
「半分の月と、波の音と、沙織さんの手」
葵は少し沙織を見た。
「葵さんの手」と沙織は繰り返した。「それも覚えます」
葵は手に、少し力を込めた。
沙織も力を込めた。
二人の手が、しっかりと重なっていた。
「私が帰ってから」と葵は言った。
「はい」
「連絡を取ってもいいですか」
「取ってください」と沙織は言った。
「写真を送ってもいいですか。東京で撮ったものを」
「見たいです」
「見せます」と葵は言った。「全部」
「全部見てください」
「見ます」
波が来た。引いた。
「沙織さんも」と葵は言った。
「はい」
「島の写真を送ってくれますか。秋になったら、冬になったら、春になったら」
「写真は撮らないですが」
「スマートフォンで撮ってください」と葵は言った。「うまくなくていいです。ここの今の様子を、送ってください」
「送ります」と沙織は言った。
「波の音の動画も」と葵は言った。「時々」
「波の音の動画」
「音が撮れないなら、動画で。波の音を聞きたくなることがあると思うので」
沙織は少し考えた。
「撮ったことがないですが」
「撮り方は簡単です。スマートフォンを海に向けて、動画ボタンを押すだけです」
「それだけですか」
「それだけです」
「わかりました。送ります」
「ありがとうございます」と葵は言った。
波の音がしていた。
沙織は今夜の波の音を、少し意識して聞いた。葵が東京で聞きたくなる音だ。この音を、スマートフォンで撮って送る。その行為が、少し具体的に思えた。
具体的な未来があった。
葵が帰った後の、具体的な何かがあった。
それが、今夜の沙織には少し温かかった。
十一時を過ぎた頃、葵が立ち上がった。
「今夜は」と葵は言った。
「はい」
「同じ部屋にいてもいいですか」
沙織は少し間を置いた。
「はい」と言った。
二人で縁側から部屋の方へ向かった。
葵の部屋に入った。
窓が開いていた。半分の月の光が、窓から差し込んでいた。
二人で横になった。
葵の腕が、沙織の肩のあたりにあった。
沙織は葵の方を向いた。
月の光の中で、葵の顔があった。
「眠れそうですか」と葵は言った。
「眠れます」と沙織は言った。「でも、眠りたくないです」
「なんでですか」
「眠ったら朝が来るので」
葵は少し間を置いた。
「でも」と葵は言った。「別れの朝の次にも、また朝が来る。それは変わらない」
「変わらないですね」
「沙織さんにも、私にも、毎朝光が来る」
「葵さんが好きな、嘘をつかない光が」
「はい」と葵は言った。「同じ光が、東京にも来ます。透明度は違うかもしれないですが、同じ光が」
沙織はその言葉を受け取った。
東京にも、ここにも、朝の光が来る。種類は違っても、同じ光が来る。
「それは」と沙織は言った。「少し安心です」
「私も」と葵は言った。「安心です」
葵が沙織の方へ少し近づいた。
額が触れた。
これまで何度もそうしてきた触れ方だった。でも今夜の触れ方は、これまでで一番、確かだった。
「また来ます」と葵は言った。額が触れたまま言った。「必ず」
「待っています」と沙織は言った。「また待っています」
葵の腕が、沙織の肩に力を込めた。
沙織も葵の方へ少し体を動かした。
月の光の中で、二人がいた。
「おやすみなさい」と葵は言った。
「おやすみなさい」と沙織は言った。
目を閉じた。
波の音がしていた。
半分の月の光が、部屋の中を静かに満たしていた。
翌朝、六時前に目が覚めた。
光が入ってきていた。
今日の光は、これまでで一番、正直だった気がした。八月の終わりの光は、夏の終わりを隠さない。全部を照らして、全部を見せる。
葵が起きていた。
沙織の隣で、窓の方を向いていた。
「起きていたんですか」と沙織は言った。
「ずっと起きていました」と葵は言った。
「眠れませんでしたか」
「眠れましたが、途中で目が覚めて」葵は窓の外を見たまま言った。「光が来るのを待っていました」
窓の外の光が、少しずつ強くなっていた。
入り江が、橙色になってきていた。
「きれい」と葵は言った。
「そうですね」と沙織は言った。
「ここの朝の光は、特別です」と葵は言った。「東京の朝の光とは、全然違います」
「東京に戻ったら」
「しばらくは、ここのことを考えると思います」
「考えてください」と沙織は言った。
「考えます」と葵は言った。「毎朝」
二人で窓の外の光を見た。
入り江が橙色に輝いていた。波が、光を受けて揺れていた。
葵が沙織の手を取った。
光の中で、しっかりと取った。
沙織は握り返した。
どちらも何も言わなかった。
朝の光が、部屋を満たしていた。
六時半、港へ向かう時間になった。
葵がキャリーケースを持って部屋を出た。
沙織が隣を歩いた。
母が玄関で待っていた。
「お世話になりました」と葵は言った。
「こちらこそ」と母は言った。「また来てください。待っていますよ」
「必ず来ます」と葵は言った。
三人で玄関を出た。
母は民宿の前で止まった。沙織だけが葵と一緒に港へ歩いた。
島の朝の空気の中を、二人で歩いた。
石畳の道を歩いた。来た日と同じ道だった。でも、来た日に沙織が自転車を押しながら歩いたのとは、違う感じがした。
来た日は、どこへ向かっているのかわからない人間の歩き方で、葵は歩いていた。今日は、どこへ向かっているかがわかっている人間の歩き方で歩いていた。
港が見えてきた。
フェリーが来ていた。
白い船体が、朝の光の中にあった。
係員が準備をしていた。他にも乗客が数人いた。
二人で桟橋の手前に立った。
「乗り込む時間まで、少しあります」と沙織は言った。
「そうですね」と葵は言った。
二人で海を見た。
今日の海は、少し霞んでいた。水平線が、霞の中にあった。葵が最初の朝に、フェリーの航路を写真に撮った時、霞んでいたと言っていた。今日もその霞の中に、フェリーが消えていく。
「撮りますか」と沙織は言った。「霞んでいる海を」
「今日は」と葵は言った。「撮らないです」
「見るだけにする」
「見るだけにします。体に入れるので」
係員がアナウンスをした。乗り込みの時間になったらしかった。
葵がキャリーケースを持った。
沙織を見た。
沙織も葵を見た。
朝の光の中で、目が合った。
嘘をつかない光の中で。
葵が一歩近づいた。
沙織の額に、手が触れた。
これまで額と額を触れさせていたが、今日は葵の手が沙織の額に触れた。
そっと。
それだけだった。
でも、その触れ方に、全部が入っていた気がした。
「また来ます」と葵は言った。
「待っています」と沙織は言った。
「波の音の動画を送ってください」
「送ります」
「写真も」
「送ります」
「でも、自分で撮るのは難しいです」沙織は言った。
「簡単です」と葵は言った。「目に入ったものを撮るだけです」
目に入ったものを撮るだけ。
葵が最初に言っていた言葉だった。最初の日に、何を撮るんですかと沙織が聞いた時に、葵はそう答えた。
「わかりました」と沙織は言った。「目に入ったものを撮ります」
「必ず送ってください」
「送ります」
葵の手が、額から離れた。
係員がもう一度アナウンスした。
「行きます」と葵は言った。
「はい」と沙織は言った。
葵がキャリーケースを引いて、タラップに向かった。
来た日と逆の動きだった。来た日はタラップを降りてきた。今日はタラップを上っていく。
葵が振り返った。
沙織を見た。
沙織も葵を見た。
朝の光の中で、最後にもう一度、目が合った。
葵が少し笑った。
沙織も少し笑った。
声の出ない笑い方だったが、二人が同じタイミングで笑った。
葵が前を向いた。
タラップを上っていった。
船の中に入っていった。
沙織は桟橋の手前に立ったまま、船を見ていた。
しばらくして、フェリーが動き出した。
桟橋から離れていった。
沙織はそれを見ていた。
船が少しずつ遠くなった。
甲板に、葵がいた。
白い服を着た葵が、こちらを見ていた。
沙織は手を上げた。
葵も手を上げた。
船がさらに遠くなった。
霞の中に入っていった。
葵の姿が、霞に溶けていった。
最後に、白い服の輪郭だけが見えて、それも消えた。
沙織は桟橋の手前に立ったまま、しばらくそこにいた。
波の音がしていた。
朝の光が、入り江を照らしていた。
霞の向こうに、フェリーがある。葵がいる。まだここから遠くないところに、葵がいる。
そのことを、沙織は確かめるように思った。
民宿に戻る道を歩き始めた。
石畳の道を歩いた。
朝の光の中を歩いた。
嘘をつかない光の中を。
歩きながら、スマートフォンを出した。
葵が来る前は、スマートフォンで写真を撮ることはなかった。
今日は、撮ろうと思った。
石畳の道を撮った。朝の光が当たっている石畳を。
うまくはなかった。
でも、目に入ったものを撮った。
葵に送ろうと思った。
まだ、那覇に向かっているはずだった。フェリーの中にいる。でも、着いた頃に、この写真が届くようにしようと思った。
こんな朝の石畳が、ここにあります、と。
歩きながら、また一枚撮った。
今度は入り江の方を撮った。波の音がしている海を。
動画ボタンを押した。
スマートフォンを海に向けた。
波の音が録れていた。
規則的な波の音が、朝の光の中で録れていた。
沙織はそれを確認してから、また歩き始めた。
民宿が見えてきた。
潮屋の、古い木造の建物が、朝の光の中にあった。
沙織はその建物を見ながら、思った。
ここに戻る。
ここで仕込みをして、ここで料理して、ここで縁側に出る。
葵がいない日々が、また始まる。
でも、始まり方が違う。
手元には、石畳の写真と、波の音の動画があった。
送る相手がいた。
受け取ってくれる人間が、今日からいた。
沙織は民宿の玄関の前に立った。
引き戸を開けた。
少し重い引き戸を。
中に入った。
台所へ向かった。
朝の仕込みを始めた。
窓を開けた。
入り江が見えた。
朝の光の中の、入り江が。
霞の向こうに、葵がいる。
まだ那覇に向かっている。
でも、必ず来ると言った。
沙織は待っていると言った。
その言葉は、本当のことだった。
やかんに水を入れた。コンロに火をつけた。
窓の外の光が、少しずつ強くなっていた。
夏の終わりの光が、入り江を照らしていた。
凪の手前の、静かな朝だった。




