8話
八日目の朝、沙織は目が覚めた時、外がまだ薄暗かった。
時計を見ると四時五十分だった。
隣から、葵が起き上がる音がした。床が鳴った。洗面所へ行く音がして、戻ってくる音がした。
今日も出かける。
玄関の引き戸を開ける音がして、外へ出ていった。
沙織は布団の中でしばらく、天井を見ていた。
昨夜の感触が、まだ体のどこかに残っていた。肩に触れた葵の頭の重さ。腕に当たっていた腕の温かさ。
残っている、というより、確かめるように思い出していた。あった、ということを確かめていた。
起き上がって、台所へ向かった。
七時の朝食の時間に、葵は汗をかいて帰ってきた。
今日は珍しく、少し興奮した様子だった。カメラバッグを置く前に沙織に話しかけてきた。
「タマン、見ました」と葵は言った。
「タマン」と沙織は言った。「岩場の近くですか」
「入り江の東の端の岩礁です。水が透明で、下にいるのがはっきり見えて」
「よく見えましたか」
「三匹いました。銀色で、ひれが赤くて」葵はカメラを取り出した。「水面から撮ったんですが、見ますか」
液晶画面を沙織に向けた。
岩礁の近くの海中を、水面越しに撮った写真だった。水の屈折で少し歪んでいたが、確かに魚の影が見えた。銀色の体が、深い青の中にあった。
「きれいに撮れましたね」と沙織は言った。
「水面に近づいて撮ったら、レンズが少し濡れましたが」
「カメラは大丈夫ですか」
「大丈夫でした。防滴仕様なので」
葵は席に着いた。
今日の葵は、いつもより少し体が軽く見えた。魚を見つけた興奮が、まだ体に残っているのかもしれない。
「タマン、食べますか」と沙織は言った。
「食べられるんですか」
「島では食べます。白身で、淡泊な味です。漁師さんから仕入れることがあって、今日来るかもしれないです」
「食べてみたいです」
「来たら夕食に出します」
「楽しみです」と葵は言った。
今日の葵の笑い方は、屈託がなかった。来た時の、疲れた人間の笑い方とは、もうずいぶん違う笑い方になっていた。
午前中、漁師の奥さんが魚を届けに来た。
タマンが二匹あった。他にもグルクンとソデイカが入っていた。
「今日はいいものが来ましたよ」と奥さんは言った。
「ありがとうございます」と沙織は言った。
「長期で泊まっているお客さんがいるんでしょう。東京から来た人」
「はい」
「島の人間じゃないのはすぐわかるけど、なんか馴染んできているみたいよ。昨日、港の近くで見かけたけど、歩き方が来た時と違った」
「そうですか」と沙織は言った。
「いい顔をしていたよ。写真を撮りながら歩いていたけど、楽しそうで」
奥さんが帰ってから、沙織は魚を冷蔵庫に入れながら、奥さんの言葉を少し頭の中に置いた。
歩き方が来た時と違う。楽しそうで、いい顔をしていた。
島が葵の体に入ってきている。毎日少しずつ変わっていく日焼けだけでなく、歩き方まで変わってきている。
沙織はそのことを、何か温かいものとして感じた。
昼過ぎ、葵が台所に来た。
「今日もいていいですか」と葵は言った。
「どうぞ」と沙織は言った。
葵が入口の壁にもたれた。
今日は少し暑かった。葵のTシャツが、首元のあたりで少し湿っていた。午前中に外を歩いてきた汗が、まだ乾ききっていなかった。
「今日の夕食の準備ですか」と葵は言った。
「タマンの下処理をしています」
「どうやって料理するんですか」
「刺身にします。一匹は煮付けにしようかと思っています」
「刺身、さばけるんですか」と葵は言った。少し目が広がった。
「魚は自分でさばきます。島では当たり前のことなので」
「見ていてもいいですか」
「どうぞ」
沙織はタマンを出した。まな板の上に置いた。
葵が台所の中に入ってきた。入口の壁からではなく、まな板の近くまで来た。
隣に立った。
まな板を覗き込む形で、沙織の手元を見た。
距離が近かった。昨夜縁側で並んで座っていた時より近かった。台所の中に二人で立っているから、自然とそうなった。
沙織は包丁を持った。
鱗を引いた。うろこが飛んだ。葵が少し後ろに引いた。
「すごい」と葵は言った。
「慣れるとそうでもないです」
「何歳から」
「小学生の頃から、父に教えてもらいました」
内臓を取り出した。流しで洗った。
葵はずっと、沙織の手元を見ていた。
沙織は作業しながら、葵の視線を感じていた。まな板と包丁と魚と、自分の手を、葵が見ている。この視線も、評価する感じのない視線だった。ただ見ている。目に入ったものを見ている。
「包丁の使い方が違います」と葵は言った。
「野菜と魚では違います」
「どこが」
「魚の骨に沿わせて動かすので、手首の使い方が変わります」
頭を落とした。三枚おろしにした。
葵は黙って見ていた。
作業が終わって、刺身の柵が二つできた。
「できました」と沙織は言った。
「本当にさばけるんですね」と葵は言った。少し呆けた顔で言った。
「当たり前のようにできるので、特別なことだと思っていなかったですが」
「特別なことです」と葵は言った。「東京では、魚をさばける人間をほとんど知らないので」
「島育ちだと普通のことで」
「島育ちのことが、私にはほとんどわからないです」と葵は言った。「沙織さんと話すたびに、知らないことが出てくる」
「東京のことも、私には知らないことが多いです」
「知りたいですか」と葵は言った。
「葵さんが話してくれることなら」と沙織は言った。
葵は少し沙織を見た。
「それって」と葵は言って、それから笑った。「嬉しいことを言いますね、沙織さんは」
「本当のことです」
「また本当のことを言う」
台所に、葵の笑い声が少し広がった。
夕食の時間、タマンの刺身と煮付けを出した。
葵は刺身を一切れ食べて、少し目を細めた。
「淡泊なのに、甘みがある」と葵は言った。
「今日の朝まで生きていたので」
「新鮮だから」
「島の魚は、東京で食べるものとは別のものだと思った方がいいです」
「そうですね」と葵は言った。「同じ名前でも、違う食べ物だ」
煮付けも食べた。
「こっちも好きです」と葵は言った。「泡盛の甘さが」
「ラフテーの時も言っていましたね」
「泡盛で煮た料理が好きになりました、島に来てから」
食事をしながら、今日撮った写真の話をした。タマンの写真の話。港で出会った猫の話。西側の集落の路地に、大きなガジュマルの木があって、その根が面白かったという話。
「ガジュマル、見たことありますか」と葵は言った。
「島中にあります」
「幹から根がたくさん下りてくるやつですよね。絡み合っていて」
「精霊が宿ると言われています」
「本当に宿っていそうな形をしていますね」と葵は言った。「あの木の前に立つと、何かがいる気がして」
「キジムナーといいます」と沙織は言った。「ガジュマルに宿る精霊の名前です。子供の姿をしていて、漁の手伝いをしてくれるという言い伝えがあります」
「沙織さんは信じていますか」と葵は言った。
「信じているというより、いてもおかしくないと思っています」
「それが島育ちの感覚ですね。断言しない」
「断言できないので」
「正直な言い方だと思います」
食事を終えて、後片付けをした。
今夜は葵が最初から手伝った。沙織が食器を洗う横で、葵が洗い終わったものを拭いて棚に戻した。
流しの前に二人が並んだ。
沙織が洗って、葵が拭く。その繰り返しが続いた。水の音と、布巾が食器に当たる音が、台所に満ちた。
沙織が皿を渡すたびに、葵の指に触れた。
意図していなかった。皿を渡すという動作の中で、自然に触れた。葵の指先が、濡れた皿を受け取る時に、沙織の指と重なった。
一枚目は気にしなかった。
二枚目も気にしなかった。
三枚目を渡した時、葵が少し指を止めた。
皿を受け取りながら、一瞬だけ止まった。
それだけだった。すぐに動いた。拭き始めた。
でも沙織は、その一瞬の止まり方を感じていた。
四枚目、五枚目と続いた。
触れるたびに、葵の指の感触があった。温かかった。日焼けした腕と同じ温かさが、指先にもあった。
食器が全部片付いて、二人は台所を出た。
縁側に出た。
今夜は昨日より月が少し欠けていた。それでも明るかった。入り江の水面が、月光を受けていた。
並んで座った。
今夜も、最初から近かった。
葵がカメラを持ってきていた。今日撮った写真を見せてくれた。
タマン。港の猫。路地。ガジュマルの写真が出てきた。
大きな幹から、無数の根が垂れ下がっていた。根が地面に届いて、また幹になっているものもあった。絡み合って、複雑な形をしていた。
「大きいですね」と沙織は言った。
「根元に立つと、中に入る感じがして」と葵は言った。「包まれる感じ」
「キジムナーに会いましたか」
「会えませんでした」と葵は笑った。「でも、何かいそうでした。本当に」
次の写真を見た。
ガジュマルの根を、下から上に向けて撮っていた。根が空に向かって伸びている角度だった。
「これが好きです」と葵は言った。「下から見ると、全然違う感じがして」
「根が空に向かっているように見える」
「そうです。上から見ると地面に向かっているのに、下から見ると空に向かっている。どちらも正しくて、どちらも本当のことで」
「見る角度で、見えるものが変わる」
「沙織さんはいつも、私が言いたいことを言いますね」と葵は言った。
「葵さんが言った言葉を返しているだけです」
「でも、ちゃんと受け取ってくれている」
液晶画面を覗き込みながら、二人の距離が近かった。
最後の写真を見終わって、葵がカメラを下ろした。
腕が離れた。
でもすぐに、葵が体を少し傾けた。肩が触れた。
沙織は動かなかった。
今夜も葵が頭を傾けるかと思っていた。
でも今夜は頭を傾けなかった。
肩だけが触れたまま、葵は前を向いていた。月を見ていた。
沙織も月を見た。
「沙織さん」と葵は言った。
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「私がここにいる間」と葵は言った。「沙織さんは、嫌だと思ったことはありますか」
「嫌だと思ったこと」
「一緒に出かけたことでも、台所にいたことでも、縁側で話したことでも」
沙織は少し考えた。
「ないです」と言った。
「一度も」
「一度も」
葵は少し間を置いた。
「よかったです」と言った。
「葵さんは」と沙織は言った。
「はい」
「ここにいて、嫌だと思ったことはありますか」
「ないです」と葵は言った。即座に言った。「一度も」
波が来た。引いた。
「それだけで」と葵は言った。「十分な気がします」
「何が十分ですか」
「ここにいる理由が」と葵は言った。「嫌じゃないことが続いているから、ここにいる。それだけでいいと思っています」
「私も」と沙織は言った。
「沙織さんも」
「葵さんがここにいることが、嫌じゃないです。一度も」
葵が沙織を見た。
月光の中で、目が合った。
葵の目が、何かを確かめているような目だった。
その目を、沙織は受け止めた。逸らさなかった。
葵の手が、動いた。
ゆっくりと、沙織の手の方へ来た。
縁側の板の上に置いてあった沙織の手の上に、葵の手が重なった。
手の甲に、葵の手のひらが乗った。
温かかった。
日焼けした皮膚の温かさではなかった。もっと内側からくる温かさだった。
沙織は手を動かさなかった。
葵の手が、沙織の手の上にあった。
波の音がしていた。月が入り江を照らしていた。
葵の手のひらの感触が、沙織の手の甲にあった。
重さは軽かった。でも確かにあった。
逃げるような手の置き方ではなかった。ただ、そこに置いた、という手の置き方だった。
沙織はその手を感じながら、前を向いていた。
月を見ていた。
葵も前を向いていた。
二人とも、月を見ていた。
どのくらいそうしていたか、わからなかった。波が何回か来て、引いた。
葵の手が、少し動いた。
手の甲の上で、葵の指が少し動いた。
沙織の手の甲を、葵の指がゆっくりと撫でた。
一度だけ。
それだけだった。
でもその一度が、沙織の体の中で何かを動かした。
胸の奥で何かが動いた。言葉にならないが、確かに動いた。
葵の指が止まった。
手のひらが、また沙織の手の上に戻った。
重なったまま、静かにあった。
「沙織さん」と葵は言った。声が低かった。
「はい」
「もう少し、こうしていていいですか」
沙織は少し間を置いた。
「いいです」と言った。
葵の手が、沙織の手の上にあった。
波の音が続いていた。
月が、少しずつ動いていた。
沙織は、今夜は月がどこにあるかを、あまり気にしていなかった。
手の甲にある葵の手の温かさの方が、ずっと近くにあった。
どのくらいそうしていたか、後になっても正確にはわからなかった。
波が何十回か来て、引いた。月が少し傾いた。
葵が手を離した。ゆっくりと、引いた。
離れた後も、温かさは手の甲に残っていた。
「眠くなりました」と葵は言った。
「おやすみなさい」と沙織は言った。
「おやすみなさい、沙織さん」
葵が立ち上がった。
「また明日」と言った。
「また明日」と沙織は言った。
葵が廊下に消えた。
沙織は縁側に一人で残った。
手の甲に、葵の手のひらの感触があった。指が一度動いた感触が、あった。
月が入り江を照らしていた。
沙織は右手を左手で包んだ。
葵の手があった場所を、自分の手で包んだ。
温かさは、もう残っていなかった。
でも、あった、ということは確かだった。
自分の部屋に戻って、電気を消して、布団に入った。
手の甲の感触がまだあった。
葵が手を置いた。ゆっくりと動かした。また静かに重ねた。それから離した。
それだけのことだったが、それだけのことではなかった。
沙織は目を閉じた。
自分がどうしたいのか、今夜は少しはっきりしていた。
どうしたいのかを言葉にすると、また少し怖い気がした。でも今夜は昨夜よりも、その怖さが小さかった。
葵の手が来た時、沙織は手を動かさなかった。逃げなかった。
それが、今夜の自分の答えだった気がした。
言葉にしなくても、体が答えていた。
目を閉じたまま、波の音を聞いた。
隣の部屋に、葵がいる。今夜も気配が近かった。
また明日。
葵は今夜も言った。
明日また近くなる。
どこまで近くなるのかを、沙織はまだ考えなかった。
考えなくても、体が知っているような気がした。
波の音を聞きながら、沙織はゆっくりと眠りに落ちた。
手の甲に残った温かさが、眠りに落ちる前まで、そこにあった。




