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凪の手前  作者: スラビレ
8/12

8話


 八日目の朝、沙織は目が覚めた時、外がまだ薄暗かった。


 時計を見ると四時五十分だった。


 隣から、葵が起き上がる音がした。床が鳴った。洗面所へ行く音がして、戻ってくる音がした。


 今日も出かける。


 玄関の引き戸を開ける音がして、外へ出ていった。


 沙織は布団の中でしばらく、天井を見ていた。


 昨夜の感触が、まだ体のどこかに残っていた。肩に触れた葵の頭の重さ。腕に当たっていた腕の温かさ。


 残っている、というより、確かめるように思い出していた。あった、ということを確かめていた。


 起き上がって、台所へ向かった。


 七時の朝食の時間に、葵は汗をかいて帰ってきた。


 今日は珍しく、少し興奮した様子だった。カメラバッグを置く前に沙織に話しかけてきた。


「タマン、見ました」と葵は言った。


「タマン」と沙織は言った。「岩場の近くですか」


「入り江の東の端の岩礁です。水が透明で、下にいるのがはっきり見えて」


「よく見えましたか」


「三匹いました。銀色で、ひれが赤くて」葵はカメラを取り出した。「水面から撮ったんですが、見ますか」


 液晶画面を沙織に向けた。


 岩礁の近くの海中を、水面越しに撮った写真だった。水の屈折で少し歪んでいたが、確かに魚の影が見えた。銀色の体が、深い青の中にあった。


「きれいに撮れましたね」と沙織は言った。


「水面に近づいて撮ったら、レンズが少し濡れましたが」


「カメラは大丈夫ですか」


「大丈夫でした。防滴仕様なので」


 葵は席に着いた。


 今日の葵は、いつもより少し体が軽く見えた。魚を見つけた興奮が、まだ体に残っているのかもしれない。


「タマン、食べますか」と沙織は言った。


「食べられるんですか」


「島では食べます。白身で、淡泊な味です。漁師さんから仕入れることがあって、今日来るかもしれないです」


「食べてみたいです」


「来たら夕食に出します」


「楽しみです」と葵は言った。


 今日の葵の笑い方は、屈託がなかった。来た時の、疲れた人間の笑い方とは、もうずいぶん違う笑い方になっていた。


 午前中、漁師の奥さんが魚を届けに来た。


 タマンが二匹あった。他にもグルクンとソデイカが入っていた。


「今日はいいものが来ましたよ」と奥さんは言った。


「ありがとうございます」と沙織は言った。


「長期で泊まっているお客さんがいるんでしょう。東京から来た人」


「はい」


「島の人間じゃないのはすぐわかるけど、なんか馴染んできているみたいよ。昨日、港の近くで見かけたけど、歩き方が来た時と違った」


「そうですか」と沙織は言った。


「いい顔をしていたよ。写真を撮りながら歩いていたけど、楽しそうで」


 奥さんが帰ってから、沙織は魚を冷蔵庫に入れながら、奥さんの言葉を少し頭の中に置いた。


 歩き方が来た時と違う。楽しそうで、いい顔をしていた。


 島が葵の体に入ってきている。毎日少しずつ変わっていく日焼けだけでなく、歩き方まで変わってきている。


 沙織はそのことを、何か温かいものとして感じた。





 昼過ぎ、葵が台所に来た。


「今日もいていいですか」と葵は言った。


「どうぞ」と沙織は言った。


 葵が入口の壁にもたれた。


 今日は少し暑かった。葵のTシャツが、首元のあたりで少し湿っていた。午前中に外を歩いてきた汗が、まだ乾ききっていなかった。


「今日の夕食の準備ですか」と葵は言った。


「タマンの下処理をしています」


「どうやって料理するんですか」


「刺身にします。一匹は煮付けにしようかと思っています」


「刺身、さばけるんですか」と葵は言った。少し目が広がった。


「魚は自分でさばきます。島では当たり前のことなので」


「見ていてもいいですか」


「どうぞ」


 沙織はタマンを出した。まな板の上に置いた。


 葵が台所の中に入ってきた。入口の壁からではなく、まな板の近くまで来た。


 隣に立った。


 まな板を覗き込む形で、沙織の手元を見た。


 距離が近かった。昨夜縁側で並んで座っていた時より近かった。台所の中に二人で立っているから、自然とそうなった。


 沙織は包丁を持った。


 鱗を引いた。うろこが飛んだ。葵が少し後ろに引いた。


「すごい」と葵は言った。


「慣れるとそうでもないです」


「何歳から」


「小学生の頃から、父に教えてもらいました」


 内臓を取り出した。流しで洗った。


 葵はずっと、沙織の手元を見ていた。


 沙織は作業しながら、葵の視線を感じていた。まな板と包丁と魚と、自分の手を、葵が見ている。この視線も、評価する感じのない視線だった。ただ見ている。目に入ったものを見ている。


「包丁の使い方が違います」と葵は言った。


「野菜と魚では違います」


「どこが」


「魚の骨に沿わせて動かすので、手首の使い方が変わります」


 頭を落とした。三枚おろしにした。


 葵は黙って見ていた。


 作業が終わって、刺身の柵が二つできた。


「できました」と沙織は言った。


「本当にさばけるんですね」と葵は言った。少し呆けた顔で言った。


「当たり前のようにできるので、特別なことだと思っていなかったですが」


「特別なことです」と葵は言った。「東京では、魚をさばける人間をほとんど知らないので」


「島育ちだと普通のことで」


「島育ちのことが、私にはほとんどわからないです」と葵は言った。「沙織さんと話すたびに、知らないことが出てくる」


「東京のことも、私には知らないことが多いです」


「知りたいですか」と葵は言った。


「葵さんが話してくれることなら」と沙織は言った。


 葵は少し沙織を見た。


「それって」と葵は言って、それから笑った。「嬉しいことを言いますね、沙織さんは」


「本当のことです」


「また本当のことを言う」


 台所に、葵の笑い声が少し広がった。





 夕食の時間、タマンの刺身と煮付けを出した。


 葵は刺身を一切れ食べて、少し目を細めた。


「淡泊なのに、甘みがある」と葵は言った。


「今日の朝まで生きていたので」


「新鮮だから」


「島の魚は、東京で食べるものとは別のものだと思った方がいいです」


「そうですね」と葵は言った。「同じ名前でも、違う食べ物だ」


 煮付けも食べた。


「こっちも好きです」と葵は言った。「泡盛の甘さが」


「ラフテーの時も言っていましたね」


「泡盛で煮た料理が好きになりました、島に来てから」


 食事をしながら、今日撮った写真の話をした。タマンの写真の話。港で出会った猫の話。西側の集落の路地に、大きなガジュマルの木があって、その根が面白かったという話。


「ガジュマル、見たことありますか」と葵は言った。


「島中にあります」


「幹から根がたくさん下りてくるやつですよね。絡み合っていて」


「精霊が宿ると言われています」


「本当に宿っていそうな形をしていますね」と葵は言った。「あの木の前に立つと、何かがいる気がして」


「キジムナーといいます」と沙織は言った。「ガジュマルに宿る精霊の名前です。子供の姿をしていて、漁の手伝いをしてくれるという言い伝えがあります」


「沙織さんは信じていますか」と葵は言った。


「信じているというより、いてもおかしくないと思っています」


「それが島育ちの感覚ですね。断言しない」


「断言できないので」


「正直な言い方だと思います」


 食事を終えて、後片付けをした。


 今夜は葵が最初から手伝った。沙織が食器を洗う横で、葵が洗い終わったものを拭いて棚に戻した。


 流しの前に二人が並んだ。


 沙織が洗って、葵が拭く。その繰り返しが続いた。水の音と、布巾が食器に当たる音が、台所に満ちた。


 沙織が皿を渡すたびに、葵の指に触れた。


 意図していなかった。皿を渡すという動作の中で、自然に触れた。葵の指先が、濡れた皿を受け取る時に、沙織の指と重なった。


 一枚目は気にしなかった。


 二枚目も気にしなかった。


 三枚目を渡した時、葵が少し指を止めた。


 皿を受け取りながら、一瞬だけ止まった。


 それだけだった。すぐに動いた。拭き始めた。


 でも沙織は、その一瞬の止まり方を感じていた。


 四枚目、五枚目と続いた。


 触れるたびに、葵の指の感触があった。温かかった。日焼けした腕と同じ温かさが、指先にもあった。


 食器が全部片付いて、二人は台所を出た。


 縁側に出た。


 今夜は昨日より月が少し欠けていた。それでも明るかった。入り江の水面が、月光を受けていた。


 並んで座った。


 今夜も、最初から近かった。


 葵がカメラを持ってきていた。今日撮った写真を見せてくれた。


 タマン。港の猫。路地。ガジュマルの写真が出てきた。


 大きな幹から、無数の根が垂れ下がっていた。根が地面に届いて、また幹になっているものもあった。絡み合って、複雑な形をしていた。


「大きいですね」と沙織は言った。


「根元に立つと、中に入る感じがして」と葵は言った。「包まれる感じ」


「キジムナーに会いましたか」


「会えませんでした」と葵は笑った。「でも、何かいそうでした。本当に」


 次の写真を見た。


 ガジュマルの根を、下から上に向けて撮っていた。根が空に向かって伸びている角度だった。


「これが好きです」と葵は言った。「下から見ると、全然違う感じがして」


「根が空に向かっているように見える」


「そうです。上から見ると地面に向かっているのに、下から見ると空に向かっている。どちらも正しくて、どちらも本当のことで」


「見る角度で、見えるものが変わる」


「沙織さんはいつも、私が言いたいことを言いますね」と葵は言った。


「葵さんが言った言葉を返しているだけです」


「でも、ちゃんと受け取ってくれている」


 液晶画面を覗き込みながら、二人の距離が近かった。


 最後の写真を見終わって、葵がカメラを下ろした。


 腕が離れた。


 でもすぐに、葵が体を少し傾けた。肩が触れた。


 沙織は動かなかった。


 今夜も葵が頭を傾けるかと思っていた。


 でも今夜は頭を傾けなかった。


 肩だけが触れたまま、葵は前を向いていた。月を見ていた。


 沙織も月を見た。


「沙織さん」と葵は言った。


「はい」


「一つ、聞いてもいいですか」


「はい」


「私がここにいる間」と葵は言った。「沙織さんは、嫌だと思ったことはありますか」


「嫌だと思ったこと」


「一緒に出かけたことでも、台所にいたことでも、縁側で話したことでも」


 沙織は少し考えた。


「ないです」と言った。


「一度も」


「一度も」


 葵は少し間を置いた。


「よかったです」と言った。


「葵さんは」と沙織は言った。


「はい」


「ここにいて、嫌だと思ったことはありますか」


「ないです」と葵は言った。即座に言った。「一度も」


 波が来た。引いた。


「それだけで」と葵は言った。「十分な気がします」


「何が十分ですか」


「ここにいる理由が」と葵は言った。「嫌じゃないことが続いているから、ここにいる。それだけでいいと思っています」


「私も」と沙織は言った。


「沙織さんも」


「葵さんがここにいることが、嫌じゃないです。一度も」


 葵が沙織を見た。


 月光の中で、目が合った。


 葵の目が、何かを確かめているような目だった。


 その目を、沙織は受け止めた。逸らさなかった。


 葵の手が、動いた。


 ゆっくりと、沙織の手の方へ来た。


 縁側の板の上に置いてあった沙織の手の上に、葵の手が重なった。


 手の甲に、葵の手のひらが乗った。


 温かかった。


 日焼けした皮膚の温かさではなかった。もっと内側からくる温かさだった。


 沙織は手を動かさなかった。


 葵の手が、沙織の手の上にあった。


 波の音がしていた。月が入り江を照らしていた。


 葵の手のひらの感触が、沙織の手の甲にあった。


 重さは軽かった。でも確かにあった。


 逃げるような手の置き方ではなかった。ただ、そこに置いた、という手の置き方だった。


 沙織はその手を感じながら、前を向いていた。


 月を見ていた。


 葵も前を向いていた。


 二人とも、月を見ていた。


 どのくらいそうしていたか、わからなかった。波が何回か来て、引いた。


 葵の手が、少し動いた。


 手の甲の上で、葵の指が少し動いた。


 沙織の手の甲を、葵の指がゆっくりと撫でた。


 一度だけ。


 それだけだった。


 でもその一度が、沙織の体の中で何かを動かした。


 胸の奥で何かが動いた。言葉にならないが、確かに動いた。


 葵の指が止まった。


 手のひらが、また沙織の手の上に戻った。


 重なったまま、静かにあった。


「沙織さん」と葵は言った。声が低かった。


「はい」


「もう少し、こうしていていいですか」


 沙織は少し間を置いた。


「いいです」と言った。


 葵の手が、沙織の手の上にあった。


 波の音が続いていた。


 月が、少しずつ動いていた。


 沙織は、今夜は月がどこにあるかを、あまり気にしていなかった。


 手の甲にある葵の手の温かさの方が、ずっと近くにあった。


 どのくらいそうしていたか、後になっても正確にはわからなかった。


 波が何十回か来て、引いた。月が少し傾いた。


 葵が手を離した。ゆっくりと、引いた。


 離れた後も、温かさは手の甲に残っていた。


「眠くなりました」と葵は言った。


「おやすみなさい」と沙織は言った。


「おやすみなさい、沙織さん」


 葵が立ち上がった。


「また明日」と言った。


「また明日」と沙織は言った。


 葵が廊下に消えた。


 沙織は縁側に一人で残った。


 手の甲に、葵の手のひらの感触があった。指が一度動いた感触が、あった。


 月が入り江を照らしていた。


 沙織は右手を左手で包んだ。


 葵の手があった場所を、自分の手で包んだ。


 温かさは、もう残っていなかった。


 でも、あった、ということは確かだった。


 自分の部屋に戻って、電気を消して、布団に入った。


 手の甲の感触がまだあった。


 葵が手を置いた。ゆっくりと動かした。また静かに重ねた。それから離した。


 それだけのことだったが、それだけのことではなかった。


 沙織は目を閉じた。


 自分がどうしたいのか、今夜は少しはっきりしていた。


 どうしたいのかを言葉にすると、また少し怖い気がした。でも今夜は昨夜よりも、その怖さが小さかった。


 葵の手が来た時、沙織は手を動かさなかった。逃げなかった。


 それが、今夜の自分の答えだった気がした。


 言葉にしなくても、体が答えていた。


 目を閉じたまま、波の音を聞いた。


 隣の部屋に、葵がいる。今夜も気配が近かった。


 また明日。


 葵は今夜も言った。


 明日また近くなる。


 どこまで近くなるのかを、沙織はまだ考えなかった。


 考えなくても、体が知っているような気がした。


 波の音を聞きながら、沙織はゆっくりと眠りに落ちた。


 手の甲に残った温かさが、眠りに落ちる前まで、そこにあった。


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