7話
七日目の夕方、停電が来た。
最初は台所の電球が消えた。
沙織は夕食の仕込みの最中だった。ガスコンロはついていたから、炎だけが台所を照らした。それからすぐに、廊下の電灯も消えて、民宿全体が暗くなった。
停電はこの島では珍しくない。台風の季節でなくても、変電所のトラブルや、海からの潮風で配線が傷んで、突然来ることがある。夏は特に多い。
沙織はコンロの炎を消して、台所の引き出しからロウソクを出した。マッチで火をつけた。橙色の光が、台所を柔らかく照らした。
廊下に出て、葵の部屋をノックした。
「停電です」と言った。「しばらくかかるかもしれないです」
ドアが少し開いた。葵が顔を出した。
「ロウソクを持ってきます」と沙織は言った。
「大丈夫です」と葵は言った。「私も持っています」
「非常用に持ってきたんですか」
「一応」と葵は言った。「島に来る前に、こういうこともあると聞いていたので」
準備のいい人だ、と沙織は思った。
「夕食は少し遅くなりますが」と沙織は言った。
「手伝います」と葵は言った。
今日も引かなかった。
二人でロウソクを持って、台所に入った。
ロウソクが二本になったから、台所がさっきより明るかった。でも電灯の明るさとは全然違う。ロウソクは揺れる。風が来るたびに炎が揺れて、光と影が動いた。
葵がロウソクを台所の端の棚に置いた。
沙織はコンロに火をつけた。
「何を作りますか」と葵は言った。
「ゴーヤチャンプルーと、豆腐の味噌汁です。火があれば作れるので」
「私は何をすればいいですか」
「ゴーヤを切ってもらえますか。まずわたをかき出して、薄切りにする」
「やってみます」
葵がゴーヤを手に取った。
沙織は豆腐を切りながら、葵の方を見た。
葵は真剣な顔でゴーヤのわたをスプーンでかき出していた。慣れていない手つきだったが、丁寧だった。
「こんな感じですか」と葵は言って、断面を沙織に向けた。
「そうです。白いのが全部取れたら、薄く切って」
「薄く、というのはどのくらいですか」
「五ミリくらいで」
葵は包丁を持った。切り始めた。
「葵さん、料理はしますか」と沙織は言った。
「東京では、あまりしていなかったです」と葵は言った。「面倒くさくて」
「面倒くさい」
「一人のために作るのが、特に」葵は切りながら言った。「二人なら作る気になれるんですが」
「今日は二人いますね」
「そうですね」と葵は言った。「だから手伝えます」
沙織は豆腐を切り終えて、卵を割った。
炎の光の中で、台所の作業が続いた。ゴーヤを切る音、卵をかき混ぜる音、フライパンに油をひく音。
「ゴーヤ、切れました」と葵は言って、まな板を沙織に見せた。
「いいです」と沙織は言った。
「少し不揃いですが」
「不揃いの方が、火の通り方に差が出て、食感が変わります。揃っているより面白い」
「そうなんですか」と葵は言った。「不揃いでもいい理由が、ちゃんとある」
「意図していたわけではないですが」と沙織は言った。
葵は少し笑った。
フライパンが温まった。ゴーヤを入れた。炒める音が台所に広がった。
葵がそのそばに立っていた。フライパンを見ていた。ロウソクの光の中で、炒めるゴーヤを、真剣な顔で見ていた。
「いい匂いですね」と葵は言った。
「もうすぐ豆腐を入れます」
「ゴーヤって、炒めると苦さが変わりますか」
「少し和らぎます。でも残ります」
「残ることが大事」
「ゴーヤからゴーヤの苦さがなくなったら、ゴーヤじゃなくなるので」
「そうですね」と葵は言った。「ゴーヤはゴーヤでいる」
豆腐を入れた。卵を回しかけた。炎が揺れた。
ロウソクの光の中で、二人で夕食を作っていた。
沙織はそのことを、少し不思議に感じていた。
民宿を始めてから、客と一緒に料理を作ったことはなかった。手伝うと言われても断っていた。でも葵には断らなかった。
なぜかは、やはりうまく言葉にならなかった。
ゴーヤチャンプルーと味噌汁が出来た。
食堂のテーブルにロウソクを二本置いて、二人で食べた。今夜は沙織の母は親戚の家に泊まりに行っていて、民宿には沙織と葵だけだった。
外はまだ停電していた。島全体が暗いのか、それとも民宿の周辺だけなのか、外の様子は窓からではよくわからなかった。
「こういう夜、好きです」と葵は言った。
「停電が、ですか」
「暗いから、ロウソクがあるだけでこんなに明るくて」と葵は言った。「電気がある時は、電球一個なんて何の意味もないと思っているのに」
「相対的なものですね」
「そうです。何かがなくなった時に、小さいものの意味が大きくなる」
葵はゴーヤチャンプルーを食べた。
「これ、自分が切ったゴーヤが入っているんですよね」と言った。
「そうです」
「不思議な感じ」と葵は言った。「自分が切ったものを食べるのが、こんなに不思議な感じがするということは、料理を長くしていなかったんだと思います」
「少しずつすればいいです」
「ここを出た後も」と葵は言った。「一人で料理しようかな、と思って」
ここを出た後。
葵が島を出ることが、当然のこととして口から出てきた。一ヶ月の滞在で、来月には東京へ戻る。
沙織はゴーヤチャンプルーを食べた。
「ここを出た後も」と沙織は言った。「写真は撮りますか」
「撮ります」と葵は言った。迷いなく言った。「ここに来て、また撮れるようになったので」
「東京で撮るものは、ここと違いますか」
「違うと思います。でも、ここで撮っているものと繋がっているものが撮れると思います」
「どういう意味ですか」
「正直なものを探す目が、ここで少し変わった気がするので」葵は味噌汁を一口飲んだ。「東京に戻っても、その目で見れば、正直なものが見つかる気がします」
「島の光じゃなくても」
「そうです」と葵は言った。「沙織さんに教えてもらったこともあります」
「私は何も教えていないですが」
「教えてもらった」と葵は繰り返した。「蝉の鳴き方とか、岩場の干潮の時間とか、ゴーヤの苦さのこととか」
「それは料理の話です」
「全部、島の正直なものの話です」
沙織は葵を見た。
ロウソクの光の中で、葵の顔が揺れていた。炎が揺れるたびに、光と影が葵の顔を動いた。
「もう少し食べますか」と沙織は言った。
「はい」と葵は言った。「おかわりしてもいいですか」
「どうぞ」
葵がゴーヤチャンプルーをおかわりした。
ロウソクの炎が、また少し揺れた。
食事を終えて片付けをしていると、外から光が戻ってきた。
廊下の電灯がついた。台所の電球がついた。
突然の明るさに、二人とも少し目を細めた。
「電気、戻りましたね」と葵は言った。
「そうですね」
「なんか、少し残念な感じがします」
「ロウソクの方が」
「落ち着くので」と葵は言った。「ロウソクの光の下にいると、余計なことを考えなくていい気がして」
余計なことを考えなくていい。
沙織はその言葉を頭の中に置いた。
「縁側に出ませんか」と沙織は言った。
「はい」と葵は言った。
縁側に出ると、月が出ていた。
満月を少し過ぎた月が、中天に近い場所にあって、入り江が明るく照らされていた。
並んで座った。
今夜は最初から、昨日より近かった。
昨日の夜、葵が体を傾けて肩が触れた。今夜は座った時点から、その時と同じくらいの距離があった。
沙織は前を向いたまま、それを感じていた。
「昨日のこと」と葵は言った。
「はい」
「話しすぎましたか」と葵は言った。
「話しすぎとは思いませんでした」
「沙織さんが聞きたかったと言ってくれたので、話してよかったと思っています」と葵は言った。「ただ、重かったかと思って」
「重くなかったです」と沙織は言った。「聞きたかったです」
「また言いましたね、聞きたかったと」
「本当のことなので」
葵は少し笑った。
沙織も少し笑った。
今夜、二人で笑ったのは、それが初めてだった。どちらも声に出ない笑い方だったが、同じタイミングで笑った。
「沙織さんは」と葵は言った。
「はい」
「島を出たいと思ったことはありますか」
唐突な問いだった。でも唐突な感じはしなかった。ロウソクの光の下で、ゴーヤを切りながら、二人で夕食を作りながら、積み重なってきた夜の中で、自然に出てきた問いだった。
「あります」と沙織は言った。
「出なかったのは」
「出なかった理由は、いくつかあって」沙織は少し考えた。「親の手伝いが必要だったこともありますが、それだけでもないです」
「他に」
「島を出た後に、何がしたいかが、わからなかった」と沙織は言った。「那覇にいた時も、島を出ることは選択肢にあった。でも、出た先でどう生きるかが、見えなかった」
「今も見えないですか」
「今はあまり考えていないです」と沙織は言った。「ここで仕込みをして、ここで料理をして、それが続いている」
「それは、つまらないですか」
「つまらないとは思っていないです」と沙織は言った。「ただ、これが自分の選んだことなのかどうかが、わからない時があります」
葵は沙織を見た。
「選んだ、というより、選ばなかった結果として残った」と葵は言った。
「そうかもしれないです」
「でも」と葵は言った。「沙織さんがここにいることで、私はここに来られました」
沙織は葵を見た。
「もし沙織さんがいなかったら、この民宿じゃなかったかもしれないし、そうしたら南の浜も、漁小屋も、昨夜の縁側も、なかった」
「そういうことになりますね」と沙織は言った。
「だから」と葵は言った。「沙織さんがここにいてくれて、よかったです」
その言い方が、沙織には少し重かった。
重い、というのは、言葉が体に入ってくる感じだ。
「葵さんが来てくれてよかったです」と沙織は言った。
「そう言ってもらえると」と葵は言った。それから少し黙った。「少し、楽になります」
「楽に」
「自分が来た意味があったと思えるので」
沙織は前を向いた。
月が、入り江を照らしていた。
葵が来た意味。写真を撮るためでもあり、東京から距離を置くためでもある。でも葵にとっては、来た意味が本当にあったのかどうかが、どこかで不安だったのかもしれない。
葵の体が、少し沙織の方へ傾いた。
昨夜と同じ動き方だった。ゆっくりと、意図して。
今夜は昨夜より近くにいたから、傾いた先に沙織がいた。
肩が触れた。
それから腕が触れた。
昨夜は肩だけだった。今夜は肩と腕が触れていた。
葵の腕の皮膚が、沙織の腕の皮膚に当たっていた。日焼けした皮膚の温かさが、直接伝わってきた。
沙織は動かなかった。
葵も動かなかった。
月が海を照らしていた。波の音がしていた。
葵の腕が沙織の腕に触れたまま、時間が過ぎた。
波が来るたびに、葵の腕の温かさを確かめた。温かさは変わらなかった。あった。確かにあった。
「沙織さん」と葵は言った。声が低かった。
「はい」
「来てよかったです、ここに」
「よかったです」と沙織は言った。「来てくれて」
葵は少し動いた。
肩と腕が触れたままで、頭を少し沙織の方へ傾けた。
沙織の肩のあたりに、葵の頭が近づいた。
触れた。
葵の頭が、沙織の肩に触れた。
そっと。重さをかけないように。でも確かに触れた。
沙織は動かなかった。
息が少し変わった。
葵の髪が、肩に触れていた。乾いた髪だった。潮の匂いが少しした。今日外を歩いてきた髪の匂いだった。
沙織は前を向いたまま、月を見ていた。
月が、入り江の中心にあった。
葵の頭が肩にあった。腕と腕が触れていた。波の音がしていた。
このままでいい、と思った。
このままずっとでもいい、と思った。
思ってから、それが何を意味するのかを、今夜は少し考えた。
考えた、というより、感じた。自分の体が、このままでいいと思っている。葵の体温が肩と腕にあることを、なくしたくないと思っている。
それが何なのか、言葉にする前に、葵が動いた。
頭を起こした。肩から離れた。腕はまだ触れていた。
「月が高くなりましたね」と葵は言った。
沙織は月を見た。確かに、さっきより高くなっていた。時間が経っていた。
「そうですね」と沙織は言った。
「眠くなってきました」と葵は言った。
「おやすみなさい」と沙織は言った。
葵が立ち上がった。腕が離れた。
「おやすみなさい、沙織さん」と葵は言った。
縁側から部屋の方へ向かいながら、少し振り返った。
「また明日」と言った。
「また明日」と沙織は言った。
葵が廊下に消えた。足音が遠くなって、ドアが閉まる音がした。
沙織は縁側に一人で残った。
肩に、葵の頭の感触があった。腕に、葵の腕の温かさがあった。
月が入り江を照らしていた。
また明日。
葵はそう言った。
明日もここにいる。明後日もここにいる。あと二十日以上、ここにいる。
その事実が、今夜は少し違う重さで沙織の中にあった。
嬉しい、という言葉は少し違う。でも、その方向にあるものが、確かにあった。
沙織は縁側に座ったまま、しばらく月を見ていた。
波の音が続いていた。
自分の部屋に戻ったのは、それからしばらく経ってからだった。
電気をつけた。電灯の光が眩しかった。ロウソクの光に目が慣れていたのかもしれない。しばらく、電灯の明るさに体が慣れなかった。
着替えて、布団に入った。電気を消した。
月光がカーテンの隙間から入ってきていた。縁側にいた時に見ていた月と、同じ月の光が部屋に来ていた。
葵の頭が肩に触れた感触が、まだあった。
アロエを塗った時の、葵の皮膚の感触は指先にあった。浜で腕が無意識に触れた時の感触は、腕の外側にあった。漁小屋で肩が近かった時の記憶は、肩のあたりにあった。昨夜肩が触れた感触は、肩の上の方にあった。
今夜の感触は、肩と腕の両方にあった。そして頭が触れた感触は、肩の少し上にあった。
毎日、少しずつ、触れる場所と触れ方が変わっていた。
それが偶然ではないことを、沙織は今夜、初めてはっきりと思った。
偶然ではない。葵が意図して、少しずつ近づいてきている。
その意図が何を意味するのかは、わかっていた。
わかっていて、どうするのかが、まだわからなかった。
自分がどうしたいのかは、わかっていた。
でも、それを言葉にすると、形になる。形になると、向き合わなければならなくなる。
目を閉じた。
隣の部屋で、葵がいる気配があった。今夜も気配が近かった。
また明日。
葵の声がまだ、耳の中にあった。
また明日という言葉が、今夜は少し特別だった。
明日また葵と話す。また何かが少し動く。また少し近くなる。
それを、沙織は怖いとは思っていなかった。
むしろ、待っていた。
明日を、待っていた。
そのことに気づいてから、沙織は長い時間をかけて眠りに落ちた。
月光が、部屋の中を静かに動いていた。




