表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凪の手前  作者: スラビレ
7/12

7話


 七日目の夕方、停電が来た。


 最初は台所の電球が消えた。


 沙織は夕食の仕込みの最中だった。ガスコンロはついていたから、炎だけが台所を照らした。それからすぐに、廊下の電灯も消えて、民宿全体が暗くなった。


 停電はこの島では珍しくない。台風の季節でなくても、変電所のトラブルや、海からの潮風で配線が傷んで、突然来ることがある。夏は特に多い。


 沙織はコンロの炎を消して、台所の引き出しからロウソクを出した。マッチで火をつけた。橙色の光が、台所を柔らかく照らした。


 廊下に出て、葵の部屋をノックした。


「停電です」と言った。「しばらくかかるかもしれないです」


 ドアが少し開いた。葵が顔を出した。


「ロウソクを持ってきます」と沙織は言った。


「大丈夫です」と葵は言った。「私も持っています」


「非常用に持ってきたんですか」


「一応」と葵は言った。「島に来る前に、こういうこともあると聞いていたので」


 準備のいい人だ、と沙織は思った。


「夕食は少し遅くなりますが」と沙織は言った。


「手伝います」と葵は言った。


 今日も引かなかった。


 二人でロウソクを持って、台所に入った。


 ロウソクが二本になったから、台所がさっきより明るかった。でも電灯の明るさとは全然違う。ロウソクは揺れる。風が来るたびに炎が揺れて、光と影が動いた。


 葵がロウソクを台所の端の棚に置いた。


 沙織はコンロに火をつけた。


「何を作りますか」と葵は言った。


「ゴーヤチャンプルーと、豆腐の味噌汁です。火があれば作れるので」


「私は何をすればいいですか」


「ゴーヤを切ってもらえますか。まずわたをかき出して、薄切りにする」


「やってみます」


 葵がゴーヤを手に取った。


 沙織は豆腐を切りながら、葵の方を見た。


 葵は真剣な顔でゴーヤのわたをスプーンでかき出していた。慣れていない手つきだったが、丁寧だった。


「こんな感じですか」と葵は言って、断面を沙織に向けた。


「そうです。白いのが全部取れたら、薄く切って」


「薄く、というのはどのくらいですか」


「五ミリくらいで」


 葵は包丁を持った。切り始めた。


「葵さん、料理はしますか」と沙織は言った。


「東京では、あまりしていなかったです」と葵は言った。「面倒くさくて」


「面倒くさい」


「一人のために作るのが、特に」葵は切りながら言った。「二人なら作る気になれるんですが」


「今日は二人いますね」


「そうですね」と葵は言った。「だから手伝えます」


 沙織は豆腐を切り終えて、卵を割った。


 炎の光の中で、台所の作業が続いた。ゴーヤを切る音、卵をかき混ぜる音、フライパンに油をひく音。


「ゴーヤ、切れました」と葵は言って、まな板を沙織に見せた。


「いいです」と沙織は言った。


「少し不揃いですが」


「不揃いの方が、火の通り方に差が出て、食感が変わります。揃っているより面白い」


「そうなんですか」と葵は言った。「不揃いでもいい理由が、ちゃんとある」


「意図していたわけではないですが」と沙織は言った。


 葵は少し笑った。


 フライパンが温まった。ゴーヤを入れた。炒める音が台所に広がった。


 葵がそのそばに立っていた。フライパンを見ていた。ロウソクの光の中で、炒めるゴーヤを、真剣な顔で見ていた。


「いい匂いですね」と葵は言った。


「もうすぐ豆腐を入れます」


「ゴーヤって、炒めると苦さが変わりますか」


「少し和らぎます。でも残ります」


「残ることが大事」


「ゴーヤからゴーヤの苦さがなくなったら、ゴーヤじゃなくなるので」


「そうですね」と葵は言った。「ゴーヤはゴーヤでいる」


 豆腐を入れた。卵を回しかけた。炎が揺れた。


 ロウソクの光の中で、二人で夕食を作っていた。


 沙織はそのことを、少し不思議に感じていた。


 民宿を始めてから、客と一緒に料理を作ったことはなかった。手伝うと言われても断っていた。でも葵には断らなかった。


 なぜかは、やはりうまく言葉にならなかった。





 ゴーヤチャンプルーと味噌汁が出来た。


 食堂のテーブルにロウソクを二本置いて、二人で食べた。今夜は沙織の母は親戚の家に泊まりに行っていて、民宿には沙織と葵だけだった。


 外はまだ停電していた。島全体が暗いのか、それとも民宿の周辺だけなのか、外の様子は窓からではよくわからなかった。


「こういう夜、好きです」と葵は言った。


「停電が、ですか」


「暗いから、ロウソクがあるだけでこんなに明るくて」と葵は言った。「電気がある時は、電球一個なんて何の意味もないと思っているのに」


「相対的なものですね」


「そうです。何かがなくなった時に、小さいものの意味が大きくなる」


 葵はゴーヤチャンプルーを食べた。


「これ、自分が切ったゴーヤが入っているんですよね」と言った。


「そうです」


「不思議な感じ」と葵は言った。「自分が切ったものを食べるのが、こんなに不思議な感じがするということは、料理を長くしていなかったんだと思います」


「少しずつすればいいです」


「ここを出た後も」と葵は言った。「一人で料理しようかな、と思って」


 ここを出た後。


 葵が島を出ることが、当然のこととして口から出てきた。一ヶ月の滞在で、来月には東京へ戻る。


 沙織はゴーヤチャンプルーを食べた。


「ここを出た後も」と沙織は言った。「写真は撮りますか」


「撮ります」と葵は言った。迷いなく言った。「ここに来て、また撮れるようになったので」


「東京で撮るものは、ここと違いますか」


「違うと思います。でも、ここで撮っているものと繋がっているものが撮れると思います」


「どういう意味ですか」


「正直なものを探す目が、ここで少し変わった気がするので」葵は味噌汁を一口飲んだ。「東京に戻っても、その目で見れば、正直なものが見つかる気がします」


「島の光じゃなくても」


「そうです」と葵は言った。「沙織さんに教えてもらったこともあります」


「私は何も教えていないですが」


「教えてもらった」と葵は繰り返した。「蝉の鳴き方とか、岩場の干潮の時間とか、ゴーヤの苦さのこととか」


「それは料理の話です」


「全部、島の正直なものの話です」


 沙織は葵を見た。


 ロウソクの光の中で、葵の顔が揺れていた。炎が揺れるたびに、光と影が葵の顔を動いた。


「もう少し食べますか」と沙織は言った。


「はい」と葵は言った。「おかわりしてもいいですか」


「どうぞ」


 葵がゴーヤチャンプルーをおかわりした。


 ロウソクの炎が、また少し揺れた。





 食事を終えて片付けをしていると、外から光が戻ってきた。


 廊下の電灯がついた。台所の電球がついた。


 突然の明るさに、二人とも少し目を細めた。


「電気、戻りましたね」と葵は言った。


「そうですね」


「なんか、少し残念な感じがします」


「ロウソクの方が」


「落ち着くので」と葵は言った。「ロウソクの光の下にいると、余計なことを考えなくていい気がして」


 余計なことを考えなくていい。


 沙織はその言葉を頭の中に置いた。


「縁側に出ませんか」と沙織は言った。


「はい」と葵は言った。


 縁側に出ると、月が出ていた。


 満月を少し過ぎた月が、中天に近い場所にあって、入り江が明るく照らされていた。


 並んで座った。


 今夜は最初から、昨日より近かった。


 昨日の夜、葵が体を傾けて肩が触れた。今夜は座った時点から、その時と同じくらいの距離があった。


 沙織は前を向いたまま、それを感じていた。


「昨日のこと」と葵は言った。


「はい」


「話しすぎましたか」と葵は言った。


「話しすぎとは思いませんでした」


「沙織さんが聞きたかったと言ってくれたので、話してよかったと思っています」と葵は言った。「ただ、重かったかと思って」


「重くなかったです」と沙織は言った。「聞きたかったです」


「また言いましたね、聞きたかったと」


「本当のことなので」


 葵は少し笑った。


 沙織も少し笑った。


 今夜、二人で笑ったのは、それが初めてだった。どちらも声に出ない笑い方だったが、同じタイミングで笑った。


「沙織さんは」と葵は言った。


「はい」


「島を出たいと思ったことはありますか」


 唐突な問いだった。でも唐突な感じはしなかった。ロウソクの光の下で、ゴーヤを切りながら、二人で夕食を作りながら、積み重なってきた夜の中で、自然に出てきた問いだった。


「あります」と沙織は言った。


「出なかったのは」


「出なかった理由は、いくつかあって」沙織は少し考えた。「親の手伝いが必要だったこともありますが、それだけでもないです」


「他に」


「島を出た後に、何がしたいかが、わからなかった」と沙織は言った。「那覇にいた時も、島を出ることは選択肢にあった。でも、出た先でどう生きるかが、見えなかった」


「今も見えないですか」


「今はあまり考えていないです」と沙織は言った。「ここで仕込みをして、ここで料理をして、それが続いている」


「それは、つまらないですか」


「つまらないとは思っていないです」と沙織は言った。「ただ、これが自分の選んだことなのかどうかが、わからない時があります」


 葵は沙織を見た。


「選んだ、というより、選ばなかった結果として残った」と葵は言った。


「そうかもしれないです」


「でも」と葵は言った。「沙織さんがここにいることで、私はここに来られました」


 沙織は葵を見た。


「もし沙織さんがいなかったら、この民宿じゃなかったかもしれないし、そうしたら南の浜も、漁小屋も、昨夜の縁側も、なかった」


「そういうことになりますね」と沙織は言った。


「だから」と葵は言った。「沙織さんがここにいてくれて、よかったです」


 その言い方が、沙織には少し重かった。


 重い、というのは、言葉が体に入ってくる感じだ。


「葵さんが来てくれてよかったです」と沙織は言った。


「そう言ってもらえると」と葵は言った。それから少し黙った。「少し、楽になります」


「楽に」


「自分が来た意味があったと思えるので」


 沙織は前を向いた。


 月が、入り江を照らしていた。


 葵が来た意味。写真を撮るためでもあり、東京から距離を置くためでもある。でも葵にとっては、来た意味が本当にあったのかどうかが、どこかで不安だったのかもしれない。


 葵の体が、少し沙織の方へ傾いた。


 昨夜と同じ動き方だった。ゆっくりと、意図して。


 今夜は昨夜より近くにいたから、傾いた先に沙織がいた。


 肩が触れた。


 それから腕が触れた。


 昨夜は肩だけだった。今夜は肩と腕が触れていた。


 葵の腕の皮膚が、沙織の腕の皮膚に当たっていた。日焼けした皮膚の温かさが、直接伝わってきた。


 沙織は動かなかった。


 葵も動かなかった。


 月が海を照らしていた。波の音がしていた。


 葵の腕が沙織の腕に触れたまま、時間が過ぎた。


 波が来るたびに、葵の腕の温かさを確かめた。温かさは変わらなかった。あった。確かにあった。


「沙織さん」と葵は言った。声が低かった。


「はい」


「来てよかったです、ここに」


「よかったです」と沙織は言った。「来てくれて」


 葵は少し動いた。


 肩と腕が触れたままで、頭を少し沙織の方へ傾けた。


 沙織の肩のあたりに、葵の頭が近づいた。


 触れた。


 葵の頭が、沙織の肩に触れた。


 そっと。重さをかけないように。でも確かに触れた。


 沙織は動かなかった。


 息が少し変わった。


 葵の髪が、肩に触れていた。乾いた髪だった。潮の匂いが少しした。今日外を歩いてきた髪の匂いだった。


 沙織は前を向いたまま、月を見ていた。


 月が、入り江の中心にあった。


 葵の頭が肩にあった。腕と腕が触れていた。波の音がしていた。


 このままでいい、と思った。


 このままずっとでもいい、と思った。


 思ってから、それが何を意味するのかを、今夜は少し考えた。


 考えた、というより、感じた。自分の体が、このままでいいと思っている。葵の体温が肩と腕にあることを、なくしたくないと思っている。


 それが何なのか、言葉にする前に、葵が動いた。


 頭を起こした。肩から離れた。腕はまだ触れていた。


「月が高くなりましたね」と葵は言った。


 沙織は月を見た。確かに、さっきより高くなっていた。時間が経っていた。


「そうですね」と沙織は言った。


「眠くなってきました」と葵は言った。


「おやすみなさい」と沙織は言った。


 葵が立ち上がった。腕が離れた。


「おやすみなさい、沙織さん」と葵は言った。


 縁側から部屋の方へ向かいながら、少し振り返った。


「また明日」と言った。


「また明日」と沙織は言った。


 葵が廊下に消えた。足音が遠くなって、ドアが閉まる音がした。


 沙織は縁側に一人で残った。


 肩に、葵の頭の感触があった。腕に、葵の腕の温かさがあった。


 月が入り江を照らしていた。


 また明日。


 葵はそう言った。


 明日もここにいる。明後日もここにいる。あと二十日以上、ここにいる。


 その事実が、今夜は少し違う重さで沙織の中にあった。


 嬉しい、という言葉は少し違う。でも、その方向にあるものが、確かにあった。


 沙織は縁側に座ったまま、しばらく月を見ていた。


 波の音が続いていた。


 自分の部屋に戻ったのは、それからしばらく経ってからだった。


 電気をつけた。電灯の光が眩しかった。ロウソクの光に目が慣れていたのかもしれない。しばらく、電灯の明るさに体が慣れなかった。


 着替えて、布団に入った。電気を消した。


 月光がカーテンの隙間から入ってきていた。縁側にいた時に見ていた月と、同じ月の光が部屋に来ていた。


 葵の頭が肩に触れた感触が、まだあった。


 アロエを塗った時の、葵の皮膚の感触は指先にあった。浜で腕が無意識に触れた時の感触は、腕の外側にあった。漁小屋で肩が近かった時の記憶は、肩のあたりにあった。昨夜肩が触れた感触は、肩の上の方にあった。


 今夜の感触は、肩と腕の両方にあった。そして頭が触れた感触は、肩の少し上にあった。


 毎日、少しずつ、触れる場所と触れ方が変わっていた。


 それが偶然ではないことを、沙織は今夜、初めてはっきりと思った。


 偶然ではない。葵が意図して、少しずつ近づいてきている。


 その意図が何を意味するのかは、わかっていた。


 わかっていて、どうするのかが、まだわからなかった。


 自分がどうしたいのかは、わかっていた。


 でも、それを言葉にすると、形になる。形になると、向き合わなければならなくなる。


 目を閉じた。


 隣の部屋で、葵がいる気配があった。今夜も気配が近かった。


 また明日。


 葵の声がまだ、耳の中にあった。


 また明日という言葉が、今夜は少し特別だった。


 明日また葵と話す。また何かが少し動く。また少し近くなる。


 それを、沙織は怖いとは思っていなかった。


 むしろ、待っていた。


 明日を、待っていた。


 そのことに気づいてから、沙織は長い時間をかけて眠りに落ちた。


 月光が、部屋の中を静かに動いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ