6話
六日目の朝、沙織はいつものように台所に立っていた。
玄関の引き戸を開ける音を、今日は聞いていなかった。目が覚める前に出ていったのかもしれない。時計を見ると五時十分だった。
昨夜の雨は夜中に上がっていた。朝の入り江は、雨上がりの特有の透明さがあった。空気が洗われた後の、余分なものが全部落ちた後の光だ。
葵は今日もその光の中にいるはずだった。
沙織は仕込みを始めた。
七時の朝食の時間に、葵は帰ってきた。
今日は昨日より明るい顔をしていた。雨上がりの朝に何かいいものが撮れたのかもしれない。靴が少し濡れていた。草に残っていた雨粒で濡れたのだろう。
「雨上がりの光はどうでしたか」と沙織は言った。
「よかったです」と葵は言った。席に着きながら言った。「昨日の雨で空気が変わっていて、光の透明度が違いました」
「そういうことに気づくんですね」
「光は天気の次の日が面白くて」葵はお茶を一口飲んだ。「晴れが続くと光が少し濁るんですよ。ホコリとか湿気が積み重なって。でも雨が一度降ると、全部流れて、翌朝の光が澄んでいる」
「毎朝確認しているから、わかることですね」
「そうかもしれないです」と葵は言った。「五日間見ていると、昨日との違いがわかるようになってくる」
五日間。葵がここに来て、五日が経った。
一ヶ月のうちの五日だ。残りは二十五日ほどある。
沙織はそれを頭の中で計算してから、なぜ計算したのかわからなかった。
「今日はどこへ行く予定ですか」と沙織は言った。
「午前中は島の西側を歩こうと思っています」と葵は言った。「まだ行けていない場所がいくつかあるので」
「西側は集落が多い方です。人を撮るなら」
「人も撮りたいです。島の人の顔が好きで」
「好き、というのは」
「表情が豊かで、しかも素直な表情をする人が多くて」葵は少し考えた。「東京の人間は、表情を作る人が多くて。自分がどう見られているかを意識した表情をする。でもここで会う人たちは、思ったことがそのまま顔に出る感じがして」
「それも、嘘をつかない、ですね」
「そうです」と葵は言った。「沙織さんはよく覚えていますね、私が言ったことを」
「印象的なので」
「どのへんが」
「言葉の選び方が」と沙織は言った。「自分の感覚を正確に言葉にしようとしているので」
葵はしばらく沙織を見ていた。
「そう言ってくれる人は、あまりいないです」と葵は言った。声が少し低くなった。「東京では、私の言葉は面倒くさいと思われることが多かったので」
「面倒くさい」
「細かすぎるとか、考えすぎとか」
沙織は葵を見た。
面倒くさい言葉を持つ人間が、この島に来た。言葉を丁寧に選ぶ人間が、正直なものを撮るために来た。
「細かくて、ちょうどいいと思います」と沙織は言った。
葵は少し目を細めた。
それ以上は言わなかった。朝食を食べ始めた。
午前中、葵は西側の集落へ出かけた。
沙織は民宿の仕事をした。洗濯、掃除、午後の仕込み。
葵の部屋を掃除する時、今日は何も確認しなかった。シーツを替えて、窓を開けて、掃除機をかけた。
でも窓際に、葵のカメラバッグとは別の小さな布製のポーチが置いてあるのが見えた。
何が入っているかは、見なかった。
ただ、そこにある、ということを確認して、部屋を出た。
葵がここで生活している。五日間で、少しずつ自分の場所になってきている。窓際のポーチも、枕元に置かれた本も、入り口のサンダルの向きも、全部が葵の生活の痕跡だった。
廊下に出て、ドアを閉めた。
昼過ぎに葵が帰ってきた。
今日は満足そうな顔をしていた。カメラバッグを持ち直しながら、玄関を入ってきた。
「どうでしたか」と沙織は言った。
「面白かったです」と葵は言った。「路地の奥に、すごく古い家があって。住んでいるおじいがいて、声をかけたら縁側に上げてくれて」
「どこの家ですか」
「西の端の、坂を下りたあたりです」
「上原さんのとこですね」と沙織は言った。「島で一番お年寄りの方です」
「そうなんですか。いくつですか」
「九十二か三だったと思います」
「元気でした」と葵は言った。「泡盛を飲んでいました、昼間から」
「そういう方です」
「写真、撮らせてもらえましたか」
「はい。すごく喜んでくれて。若い娘に撮ってもらうのは久しぶりだと言って」
葵は笑った。今日の笑い方は屈託がなかった。島で過ごすにつれて、笑い方が変わってきている。来た時の、疲れた人間の笑い方とは違う笑い方になっていた。
「見せてもらえますか」と沙織は言った。
「夕食の後で」と葵は言った。「毎日のように見せていますが、飽きませんか」
「飽きません」と沙織は言った。
葵はまた笑った。
夕食が終わって、後片付けをしていると、葵が食堂に戻ってきた。
「縁側に出ませんか」と葵は言った。「今夜は月がきれいそうなので」
「片付けが終わったら」
「手伝います」
「大丈夫です」
「手伝わせてください」と葵は言った。
珍しかった。これまでも手伝うと言うことはあったが、「大丈夫です」と断れば引いていた。今日は引かなかった。
「じゃあ」と沙織は言って、葵に布巾を渡した。
葵がテーブルを拭いた。
沙織が食器を洗った。
二人で並んで、台所と食堂の片付けをした。会話はあまりなかった。でも黙って作業している時間が、苦ではなかった。葵が布巾を絞る音と、沙織が皿を重ねる音が、台所に混ざった。
縁側に出ると、月が出ていた。
満月に近かった。昨日の雨上がりで空が澄んでいたから、月の輪郭がはっきりしていた。月光が入り江に映って、水面が銀色に光っていた。
二人で並んで縁側に座った。
今日の波は穏やかだった。昨日の雨の後で、海が落ち着いていた。
「きれいですね」と葵は言った。
「月夜の入り江は、晴れている日の夜に限ります」と沙織は言った。「曇っていると全然違う」
「こういう夜に育ったんですね」と葵は言った。
「生まれた時から、こういう夜が当たり前にあったので」
「羨ましいです」
葵は膝を抱えるようにして、海を見ていた。
膝を抱えたその姿が、来た時の後ろ姿とは違った。来た時はタラップを慎重に降りてきた。今は膝を抱えて、ただ海を見ている。
「東京の夜は、どんな感じですか」と沙織は言った。
「明るいです」と葵は言った。「街灯とビルの光で、夜でも暗くならない。星は見えないし、月も薄くなって見える」
「それが当たり前ですか、東京では」
「当たり前でした。ここに来るまでは」
波が来た。銀色の水面が、月光の中で揺れた。
「ここに来ることにした理由」と葵は言った。「少し話してもいいですか」
沙織は葵を見た。
「聞かせてもらえますか」と言った。
葵は少し間を置いた。
「去年から付き合っていた人がいました」と葵は言った。「写真を教えてもらったんです、最初に。私が写真に興味を持ちはじめた頃に、その人に出会って」
「写真家の方ですか」
「はい。フリーで活動していました」葵は膝の上に視線を落とした。「最初はただの師弟関係で。写真のことを色々教えてもらって。でもいつの間にか」
「付き合うことになった」
「なっていました」と葵は言った。「気づいたらそうなっていた、という感じで。私が好きになったのか、向こうにうまく引き込まれたのか、今でもはっきりわからないんですが」
沙織は何も言わなかった。
「その人が」と葵は続けた。「嘘をつく人でした。私に言っていたこととは別に、別の人間と会っていて。私が知ったのは、半年ほど前です」
「半年前」
「春でした。桜が終わった頃に知って、それからしばらく、東京にいることがしんどくて」
葵は顔を上げて、月の方を見た。
「写真も撮れなくなりました。しばらく。カメラを持っても、撮りたいものが見えなくなって」
「それで島に来た」
「写真を撮るためじゃなくて」葵は少し笑った。「また撮れるようになるために来た、という方が正確かもしれないです」
沙織は葵の横顔を見た。
月光の中で、葵の顔が白かった。
嘘をつく人間に傷つけられた人が、嘘をつかない光を求めてここに来た。正直なものを撮りたい人間が、正直なものに囲まれようとしてここに来た。
「撮れていますか」と沙織は言った。「また」
「はい」と葵は言った。「ここに来てから、毎日撮れています」
「よかったです」
「沙織さんのおかげでもあります」
「私は何もしていないですが」
「してくれています」と葵は言った。「嘘をつかない場所に連れていってくれて。写真を見てくれて。ちゃんと見てくれて」
沙織は返事をしなかった。
返せる言葉がなかった。
波が来た。月光の中の波が、銀色に光りながら来て、引いた。
「その人に」と沙織は言った。
「はい」
「写真を見てもらえていましたか」
葵は少し考えた。
「見てもらっていました」と言った。「でも今思うと、ちゃんと見てもらっていたのかどうか、わからないです」
「ちゃんと見る、とはどういうことだと思いますか」と沙織は言った。
「撮った人間が何を見ていたかを、見ること」と葵は言った。「写真の中の光とか構図とかじゃなくて、この写真を撮った人間はどこを見ていたのかを、見ること」
「それができていなかった」
「できていたのかもしれないです」と葵は言った。「でも私には伝わっていなかったので、どちらとも言えないですが」
月が少し傾いていた。月光の角度が変わって、水面の光り方が変わっていた。
「沙織さんは」と葵は言った。
「はい」
「写真を見る時、どこを見ていますか」
「撮った人が何を見ていたか」と沙織は言った。
「私が言ったことと同じだ」
「葵さんの言い方で理解したので」
葵は沙織を見た。
月光の中で、目が合った。
葵の目が、先ほどまでと少し違った。話している間は少し遠くを見ていたが、今は沙織を見ていた。
「ありがとうございます」と葵は言った。
「何が」
「話を聞いてくれて」と葵は言った。「こんなに話したのは、久しぶりで」
「聞きたかったです」と沙織は言った。
言ってから、正直すぎたかもしれない、と思った。でも取り消す気にはなれなかった。
葵は少し目を細めた。
縁側に並んで座ったまま、二人は黙っていた。
波の音がしていた。月光の中の波が、規則的に来て、引いた。
葵がゆっくりと体を沙織の方へ傾けた。
肩が触れた。
漁小屋の中のように、触れるかどうかの距離ではなかった。今夜は触れた。
葵は動かなかった。
沙織も動かなかった。
波の音が続いていた。
触れた肩から、葵の体温が伝わってきた。
漁小屋の時とも、浜で腕が触れた時とも、アロエを塗った時とも、違う体温だった。今夜のは、葵が意図して触れた体温だった。
沙織はそれを感じながら、前を見ていた。
月光の入り江が、静かに輝いていた。
どのくらいそうしていたか、わからなかった。
葵が先に体を起こした。
「寒くなってきましたね」と葵は言った。
七月の島の夜が寒いわけではなかった。でも沙織は何も言わなかった。
「そうですね」と言った。
「部屋に戻ります」と葵は言った。「今日は話を聞いてくれてありがとうございました」
「おやすみなさい」と沙織は言った。
「おやすみなさい、沙織さん」
葵が立ち上がって、縁側から部屋の方へ戻っていった。
足音が廊下に消えた。
沙織は一人で縁側に残った。
肩に、葵の体温の感触があった。
触れた、ということが、これまでと違った。浜で腕が触れた時は無意識だった。漁小屋で肩が近かった時は、触れていなかった。アロエを塗った時は、沙織から触れた。
今夜は、葵が触れた。
そのことを、沙織は確かめるように感じていた。
月が傾いていた。水面の光り方が、また少し変わっていた。
波の音が、続いていた。
しばらくして、沙織は縁側から立ち上がった。
部屋に戻って、電気を消して、布団に入った。
肩の感触がまだあった。
葵が触れた。意図して、体を傾けて、触れた。
それが何を意味するのか、沙織はまだ言葉にしなかった。
隣の部屋で、葵がいる気配があった。
今夜は気配が近かった。壁を通してくる気配ではなく、もう少し近い場所にある気配だった。
それは気のせいかもしれなかった。
でも、そう感じた。




