5話
五日目の朝、沙織は目が覚めた時、隣の部屋がまだ静かだった。
時計を見ると、四時四十分だった。
葵はまだ眠っている。
今日は起きてこないのかもしれない、と思いながら、沙織は布団の中でしばらくいた。外がまだ暗い。カーテンの隙間から入ってくる光が、いつもより薄かった。
曇っているのかもしれない。
起き上がって、窓を開けた。
空が灰色だった。水平線の方に、厚い雲が広がっていた。入り江の色が、昨日と違った。光が弱いから、深い青ではなく、くすんだ緑に近い色をしていた。
波があった。
昨日より大きかった。白い波頭が、入り江の奥まで来ていた。
雨が来るかもしれない、と沙織は思った。七月の島は夕立が多い。朝から曇っている日は、午後に崩れることが多かった。
台所へ向かった。
仕込みをしながら、窓の外を時々確認した。雲の動きを見た。雲は西から東へゆっくり動いていた。午後には崩れる、という感触があった。
隣から音がしたのは、六時過ぎだった。
今日はいつもより遅かった。床が鳴る音がして、洗面所へ行く音がして、それからしばらく静かになった。
玄関の引き戸を開ける音はしなかった。
今日は出かけないのかもしれない。空の色を見て、判断したのだろう。
七時になって、葵が食堂に来た。
「おはようございます」と葵は言った。
「おはようございます」と沙織は言った。「今日は出かけなかったんですか」
「空が」と葵は言った。「雨が来そうなので」
「たぶん午後に崩れます」
「朝の光がなかったので、少し部屋で写真の整理をしていました」
葵は席に着いた。
今日の葵は、昨日と少し違った。疲れているわけではないが、どこかが落ち着いていた。出かけない朝の体の感じ、というものが出ていた。
「朝の光がないと、どうですか」と沙織は言った。
「少し手持ち無沙汰です」と葵は言った。「ここ数日、朝に光を確認してから動き出すことが習慣になっていたので」
「雨の日の光も撮りますか」
「撮ります。ただ、雨が降り始めてからじゃないと、雨の光にならないので」
「午後まで待つ」
「はい。だから今日は、午前中は部屋にいようかと思って」
沙織は朝食を並べた。
「台所に来ますか」と沙織は言った。「今日は煮込みをするので、少し時間がかかりますが」
言ってから、昨日の「見ていてくれるとはかどる」という言葉を思い出した。
葵も思い出したのかもしれなかった。少し笑った。
「行きます」と言った。
午前中、葵は台所に来た。
昨日と同じように、入口の壁にもたれた。今日は少し涼しかったから、腕を組まずに、手を後ろについて壁に体重を預けていた。
沙織はラフテーの仕込みをしていた。豚の三枚肉を下茹でして、泡盛と砂糖と醤油で煮込む。時間がかかる料理だ。煮込んでいる間に、他の仕込みをする。
「いい匂い」と葵は言った。
「泡盛の匂いです。今日の夕食に使います」
「豚ですか」
「ラフテーです。沖縄の豚の角煮みたいなものですが、島の料理の中では手間がかかる方で」
「なんで今日作るんですか」
「天気が悪い日は、煮込み料理をしやすいので」と沙織は言った。「晴れていると、台所が暑くなりすぎて」
「なるほど」
葵は壁に手をついたまま、鍋の方を見ていた。
沙織は次の仕込みを始めた。今日の副菜に使うゴーヤを切った。断面の白いわたをスプーンでかき出しながら、葵の視線を感じていた。
「ゴーヤって、苦いんですか」と葵は言った。
「苦いです」
「苦いのに好きですか」
「好きです」と沙織は言った。「この苦さが好きで」
「どういう苦さですか」
「嘘のない苦さ、です」
言ってから、少し笑えた。葵の言葉が移った気がした。
葵も笑った。
「それは確かに」と葵は言った。「ゴーヤは絶対に甘くならないですね」
「甘くしようとしても、甘くならない」
「正直な野菜だ」
二人で少し笑った。
台所に笑い声があった。
そういうことが今まで、ここでなかった、と沙織は思った。母と話しながら仕込みをすることはあるが、こういう笑い方はなかった。葵と話しながら料理をする時の笑い方とは、少し違った。
何が違うのか、うまく言えなかった。
ただ、違った。
「今日、一緒に出られますか」と葵は言った。「雨が降り始めたら」
「雨の中に出るんですか」と沙織は言った。
「傘を差せば大丈夫です。雨の光を撮りに」
「私は雨でも一緒に出たいです」と葵は言った。
さらりと言った。昨日も「撮りたいです」をさらりと言った。この人間はこういうことを、躊躇なく言う。
「仕込みが終われば」と沙織は言った。
「ラフテーはいつ頃終わりますか」
「二時間くらい煮込むので、昼過ぎには」
「じゃあ、昼過ぎに」と葵は言った。
決まった。
午後一時頃、空が暗くなってきた。
雲が厚くなって、光がほとんどなくなった。風も出てきた。波の音が朝より大きかった。
ラフテーは一時間後に煮込み終わる予定だった。
沙織は台所で作業しながら、窓の外を確認した。
雨粒が、窓ガラスに当たり始めた。
最初は小さな粒で、ぱらぱらとしていた。それがしばらくして、本降りになった。
台所の窓を打つ雨音が、急に大きくなった。
葵が廊下に出てくる気配がした。
「降り始めましたね」と廊下から葵の声がした。
「はい」と沙織は言った。「もう少しで仕込みが終わります」
「待ちます」
葵が縁側に出る気配がした。
雨の音の中に、葵が外を見ている気配があった。
沙織はラフテーの火を弱めた。煮汁が少し煮詰まってきていた。味見をした。もう少し醤油が必要だった。足した。
十五分後に台所を片付けて、沙織は縁側に出た。
葵がいた。
縁側に立って、雨を見ていた。カメラをすでに構えていた。入り江に雨が降っていた。水面に雨粒が当たって、無数の小さな波紋が広がっていた。
沙織が来たことに気づいて、葵が振り返った。
「来ましたね」と葵は言った。
「出かけますか、やはり」
「出ましょう」と葵は言った。
二人で傘を持って、外に出た。
雨の島は、晴れている時と全然違う顔をしていた。
石畳の道が濡れて光っていた。白い壁の家々が、雨に洗われて色が濃くなっていた。草木が雨を受けて、緑が鮮やかだった。
傘を差していても、風があるから横から雨が来た。
二人で並んで歩いた。道が狭いから、傘が当たりそうになった。
葵が少し内側に傘を傾けた。沙織の方へ。
沙織は気づいたが、何も言わなかった。
葵の傘の端が、沙織の頭の上にかかっていた。
葵はカメラを片手に持って、傘を反対の手で差していた。道を歩きながら、時々立ち止まってシャッターを切った。
沙織は葵の隣を歩いた。
雨の匂いがした。石畳の、濡れた石の匂い。草の匂い。海の方から来る塩の匂いが、雨に混ざっていた。
「こういう光が好きです」と葵は言った。
「どういう光ですか」
「均一な光。雨の日は影ができないから、全部が同じ明るさになって」
「影がないのが好きですか」
「影がない時の色が好きです」と葵は言った。「影があると、影の部分の色が変わるじゃないですか。でも影がないと、物本来の色が出る」
沙織は石畳を見た。
確かに、今日の石畳は、晴れている日とは違う色をしていた。影がないから、石の色そのものが見えていた。
「雨の光も、嘘をつかないですか」と沙織は言った。
「そうかもしれないです」と葵は言った。「考えたことなかったですが」
葵が立ち止まった。
路地の角に、小さな赤い花が咲いていた。ハイビスカスだった。雨粒が花弁に乗っていた。葵がカメラを向けた。シャッターを切った。
沙織は隣に立って待った。
葵のシャッター音が、雨音の中に混ざった。
近かった。傘が当たりそうな距離で、二人が並んでいた。葵のTシャツの袖が、雨で少し濡れていた。傘の外に出ている部分が、濡れていた。
「袖、濡れていますよ」と沙織は言った。
「あ」と葵は言った。「カメラを持つ方の手が傘から出てしまって」
「大丈夫ですか、カメラ」
「ちょっと待ってください」
葵が立ち止まって、カメラを確認した。
沙織は葵の傘を受け取った。
二本の傘で、葵とカメラをかばった。
葵がカメラを確認しながら、沙織の方を向いた。
二本の傘の下に、二人がいた。
近かった。葵の顔が近かった。
雨の匂いの中に、葵の匂いが混ざった。日焼け止めと、何か少し甘いものと。昨夜シーツで感じた匂いと同じものが、今は直接来ていた。
「大丈夫です」と葵は言った。カメラの話だった。
でも動かなかった。
沙織も動かなかった。
雨が降っていた。二本の傘の外で、石畳に雨粒が当たっていた。
葵が少し沙織を見た。
近い距離で、目が合った。
葵の目が、少し違った。カメラを確認していた時の目ではなかった。
沙織は傘を返した。
「大丈夫なら、歩きましょう」と言った。
「はい」と葵は言った。
二人でまた歩き始めた。
さっきより、少し間が空いた。
沙織はそれを感じながら、前を向いて歩いた。
しばらく歩いていると、雨が強くなった。
傘では防ぎきれないくらい、風と一緒に雨が来るようになった。横から叩きつけるような雨だった。
「どこか入りましょう」と沙織は言った。
「どこかありますか」
「この先に、古い漁小屋があります。使っていないところですが」
「行きましょう」
沙織が先に立って、路地を曲がった。
漁小屋は、岩場に近い場所にあった。木造で、外壁が所々傷んでいた。扉の鍵は昔からかかっていない。沙織が子供の頃から、台風が来た時などに近所の人間が避難に使っていた場所だ。
扉を開けて、二人で中に入った。
外の雨音が、少し遠くなった。
漁具が並んでいた。使われていないロープや、古い網が隅に積んであった。木の床が少し抜けかけている場所があった。天井が低かった。奥の小さな窓から、雨の入り江が見えた。
「ここ」と葵は言った。「いい場所ですね」
「古いので、あまり人が来ないです」
葵はカメラを持ったまま、漁小屋の中を見回した。それから窓の方へ歩いた。
窓から外を見た。
沙織も窓の方へ行った。
二人で窓から、雨の入り江を見た。
水面に雨粒が当たって、無数の波紋が広がっていた。遠くで、波が岩に当たっていた。雨音と波音が混ざって、外がうるさかった。でも漁小屋の中は、その分だけ静かだった。
窓が小さいから、二人で見ると肩が近くなった。
触れていなかった。でも、ほとんど触れていた。
葵がカメラを持ち上げた。
窓の外の、雨の入り江に向けた。
シャッターを切った。
それから、少し動いた。
今度は窓の外ではなく、窓そのものを撮っていた。古い木の窓枠と、雨に濡れた外の景色が、一枚の中に入るように。
「窓を撮るんですか」と沙織は言った。
「窓から見える景色より、窓そのものが好きで」と葵は言った。「誰かがいる感じがするから」
「誰もいなくても」
「はい」
葵は少し沙織を見た。
「沙織さんのこと、撮っていいですか」と葵は言った。
「今ですか」
「この場所で」
沙織は少し考えた。
「どこに立てばいいですか」と言った。
「そこで。今いる場所のままで」
沙織は動かなかった。
葵がカメラを向けた。
沙織は窓の外を見た。雨の入り江が見えた。波紋が広がっていた。
シャッター音がした。
また音がした。
「ありがとうございます」と葵は言った。
「見せてもらえますか」と沙織は言った。
「今すぐ見ますか」
「今見たいです」
葵は少し迷った。それから、カメラの液晶画面を沙織に向けた。
今撮ったばかりの写真だった。
古い窓枠と、雨の景色と、その中に沙織がいた。窓の外の雨を見ている後ろ姿。漁小屋の薄暗さと、外の雨の明るさが、一枚の中に両方あった。
「こういうものが見えているんですか」と沙織は言った。
「見えています」と葵は言った。
画面の中の自分を見て、沙織は少し体が静止した。
漁小屋の中の暗さと、窓の外の明るさの間に、自分がいた。どちらでもない場所に、立っていた。
「いいですか、この写真」と葵は言った。
「いいです」と沙織は言った。「よく見えている」
「沙織さんが、どこを見ているのかわからないところが好きで」
「どこを見ているか、わからないですか」
「外を見ているのはわかります」と葵は言った。「でも、外の何を見ているのかがわからない。何かを見ているのに、何を見ているのかが見えない。それが好きで」
沙織はカメラの画面をもう一度見た。
外の何を見ているのかがわからない。
自分でもわからなかった。あの瞬間、雨の入り江を見ていたが、入り江の何を見ていたのか。波紋を見ていたのか、遠くの岩を見ていたのか、それとも何も見ていなかったのか。
「葵さんは」と沙織は言った。
「はい」
「どこを見ているか、わかります」
「私のことは」
「写真を撮っている時」と沙織は言った。「何を見ているかが、わかります」
「何を見ているんですか」と葵は言った。
「目に入ったもの」と沙織は言った。「正直なもの」
葵は少し沙織を見た。
それから、また窓の外を向いた。
雨が少し弱まっていた。
漁小屋の中で、しばらく雨が弱まるのを待った。
二人で、古い漁具が積まれた壁に沿って並んで座った。床が少し湿っていたから、近くにあった古い木箱を腰掛けにした。
沙織と葵が、隣に座った。
漁小屋は狭かったから、肩が近かった。触れてはいなかったが、昨日縁側でアロエを塗った時より近かった。
沙織は前を向いていた。
雨音がしていた。屋根に当たる音と、外の波音が混ざって、漁小屋の中に満ちていた。
「なんか、好きです、ここ」と葵は言った。
「古いですが」
「古いのがいいんです」と葵は言った。「新しい場所には、時間がないじゃないですか。ここには時間が積み重なっている感じがして」
「時間が積み重なっている」
「この壁のひびとか」葵は壁を見た。「このロープとか。全部、誰かがここを使っていた証拠で」
「漁師さんたちが使っていた場所なので」
「今は誰も来ないんですか」
「台風の時くらいです」
「台風が来たら、ここに来るんですか」
「子供の頃はよく来ました。家族で」
「今は」
「今は別の場所で対策をするので」と沙織は言った。「ここには来なくなりました」
「でも知っている場所」
「知っている場所です」と沙織は言った。「島の中で、私が知っている場所があちこちある。観光客が来る場所と、来ない場所と、どちらも知っている」
「それが、案内してくれる理由ですか」
「理由、というより」沙織は少し考えた。「葵さんが見たいものと、私が知っている場所が、合っている気がするので」
「合っている」
「嘘をつかない場所を好む人間なので、葵さんは」
葵は少し沙織を見た。
「そうですね」と言った。
その言い方が、同意しているだけでなく、少し確かめているような言い方だった。沙織が自分のことをそう見ている、ということを確かめているような。
「それは」と葵は言った。「沙織さんも同じだと思います」
「私が」
「嘘をつかない場所が好きでしょう。この漁小屋も、南の浜も、葵さんが案内してくれる場所は全部、そういう場所だから」
沙織は前を向いたまま、その言葉を受け取った。
外の雨が、また少し弱くなった。
風がほぼなくなって、真っすぐ下に降る雨になっていた。
「そろそろ出られそうですね」と沙織は言った。
「そうですね」と葵は言った。
でもどちらも、すぐに立ち上がらなかった。
雨音がしていた。
肩と肩が近かった。
触れてはいなかったが、近かった。
葵がカメラを持ち直した。
それから、漁小屋の内部に向けた。
天井と、古い壁と、積まれたロープを撮った。
シャッター音が、雨音の隙間に聞こえた。
「帰りましょうか」と沙織は言った。
「はい」と葵は言った。
二人で立ち上がった。
漁小屋を出た。
雨はまだ降っていたが、弱くなっていた。傘を差して歩けるくらいになっていた。
帰り道も、並んで歩いた。
さっきほど傘を寄せてこなかった。
それでも、石畳を歩く二人の足の距離は、来た時より少し近かった。
沙織は気づいていたが、言わなかった。
葵も気づいているのかどうか、わからなかった。
雨の音が続いていた。
夕食の後、葵の部屋で写真を見た。
今日の写真が並んでいた。
雨の石畳。ハイビスカスの花弁の上の雨粒。雨の入り江を窓から撮ったもの。
それから、漁小屋の写真が出てきた。
天井と壁とロープを撮ったもの。そして、沙織の写真があった。
古い窓枠の前に立っている、後ろ姿。漁小屋の薄暗さと、外の雨の明るさが、一枚の中に両方ある。
「これが一番好きです」と葵は言った。「今日撮った中で」
沙織はその写真を見た。
どこを見ているのかがわからない後ろ姿が、そこにあった。
「毎日、私の写真を一枚は撮っていますね」と沙織は言った。
「気づいていましたか」
「気づいていました」
「嫌ですか」
沙織は少し考えた。
「嫌じゃないです」と言った。
「よかった」と葵は言った。
その「よかった」の言い方が、今日は少し違った。
安堵している、というより、確かめられた、という感じの「よかった」だった。
沙織は画面から葵に視線を移した。
葵は画面を見ていた。
横顔だった。
日焼けが進んだ肌が、パソコンの光の中で少し光っていた。
沙織はその横顔を、少しの間、見た。
葵が気づく前に、視線を画面に戻した。
「今日は」と葵は言った。「漁小屋に連れていってくれてありがとうございました」
「雨の避難です」
「でも好きな場所になりました」と葵は言った。「また行けますか、雨の日に」
「雨の日があれば」と沙織は言った。
「七月はよく降りますか」
「夕立が多いです。毎週一度くらいは来ます」
「じゃあ、また来ますね」と葵は言った。「雨が」
「また行きましょう」と沙織は言った。
葵は沙織を見た。
「はい」と言った。
その「はい」の前に、ほんの少し間があった。
その間が、沙織には何かとして残った。
「おやすみなさい」と沙織は言って、部屋を出た。
「おやすみなさい、沙織さん」
廊下に出て、ドアが閉まった。
沙織は廊下を歩いた。
自分の部屋に入って、電気を消した。
布団に入った。
漁小屋の中で、並んで座っていた。肩と肩が近かった。葵のTシャツの袖が濡れていた時、傘を受け取った。二本の傘の下で、葵の顔が近かった。
あの瞬間、何かがあった。
何があったのか、言葉にならなかった。でも、何かがあった。
沙織は目を閉じた。
雨はまだ降っていた。
屋根に当たる音が、規則的だった。
隣の部屋で、葵がパソコンを閉じる音がした。
同じ雨音を、今夜は二人で聞いていた。
その感触が、沙織の中にあった。
眠りが来るのに、少し時間がかかった。




