4話
四日目の朝も、葵は五時前に起きた。
沙織はその気配で目が覚めた。隣の部屋の床が鳴る音がして、洗面所へ行く音がして、また部屋に戻ってくる音がした。しばらくして、玄関の引き戸を開ける音がした。
今日はカメラバッグだけでなく、三脚も持っていくようだった。廊下でいくつかのものを確認する音がして、それから外へ出た。
沙織は布団の中でしばらくいた。
五時前から外に出る人間のことを、沙織は今まで考えたことがなかった。民宿に泊まる観光客でも、この時間に起きる人間は多くない。でも葵は毎日起きる。朝の光を見るために。
起き上がって、窓を開けた。
入り江が橙色に輝いていた。波がほとんどなく、水面が鏡のように光を反射している。葵は今、この光の中にいる。
台所へ向かった。
七時になって葵が帰ってきた。
今日は汗の量が多かった。Tシャツが首元から肩にかけて濡れていた。髪も湿っていて、後れ毛が首に張り付いていた。
「今日はどこへ行きましたか」と沙織は言った。
「昨日の南の浜に、また行きました」と葵は言った。「朝の光で見たくて」
「一人で道がわかりましたか」
「なんとか」葵は少し疲れた顔で笑った。「草道、朝露で足が濡れました」
「言えばよかった。長靴があるので」
「次は借りていいですか」
「どうぞ」
葵は席に着いた。
沙織は朝食を並べながら、葵の首元を見た。
昨日はなかった変化があった。
アロエを塗った首の後ろが、さらに茶色くなっていた。赤みはすっかり引いて、島の日差しが肌の中に入り込んできている色になっていた。首の付け根から肩にかけて、日焼けと汗の跡が混ざったような境界線がある。
「日焼け、また進みましたね」と沙織は言った。
「そうですか」葵は自分の腕を見た。「確かに昨日より色が濃い」
「首の後ろも」
「見えないのでわからないですが」
「だいぶ焼けています」
葵は少し笑った。
「毎日チェックしてくれているんですか」と葵は言った。
「チェック、というほどでは」
「でも気づいてくれている」
沙織は返事をしなかった。
気づいていた。毎日、葵の肌の変化を確認していた。意図してそうしているつもりはなかったが、気づいていた。
午前中、沙織は民宿の掃除と洗濯をした。
葵の部屋のシーツを交換するために、部屋に入った。
葵はいなかった。出かけているか、あるいは港の方へ写真を撮りに行ったのかもしれない。
シーツを剥がして、新しいものを広げた。
古いシーツを折り畳んで洗濯籠に入れる前に、沙織は少し手が止まった。
葵の匂いがした。汗と、日焼け止めと、何か少し甘いものが混ざった匂いだった。
洗濯機に入れて、籠が空になった。
窓際に、葵のカメラバッグがあった。今日は別のカメラを持っていったのかもしれない。バッグの留め具が少し開いていた。中は見なかった。でも、そこにある、ということを、沙織は確認した。
部屋を出た。
昼過ぎ、沙織が台所で午後の仕込みをしていると、葵が帰ってきた。
玄関を開ける音がして、廊下を歩く音がして、台所の前を通りかかった。
「お帰りなさい」と沙織は言った。
「ただいまです」と葵は言った。立ち止まった。台所の入口から中を覗いた。「何か手伝えますか」
「大丈夫です」
「じゃあ見ていていいですか」と葵は言った。
葵は入口の壁にもたれた。腕を体の前で組んで、沙織が作業するのを黙って見ていた。
沙織は仕込みを続けた。
葵の視線があった。評価する感じのない視線だった。ただ見ている。目に入ったものを見ている。カメラを向ける時と同じ目で。
その視線が、台所の空気をわずかに変えた。
「今日はどこへ行っていたんですか」と沙織は言った。
「港の近くを歩いていました。漁師さんが網を繕っているところがあって」
「写真を撮らせてもらえましたか」
「最初は遠慮していたんですが、向こうから声をかけてきてくれて」
「島の人間は、慣れれば気さくなので」と沙織は言った。
「話しかけてくれて、珍しいところから来たなと言って」
「東京から来た人は多くないので」
「島の人はよく笑うんですね」と葵は言った。
「そうですか」
「笑い方が、東京の人と違う気がして」葵は少し考えた。「東京の人は、愛想笑いと本当の笑いの区別がつきにくくて。でも島の人が笑うと、本当に笑っているのがわかる」
「嘘をつかない笑い方」
「そうです」と葵は言った。「沙織さんもそうです」
沙織は手を止めて、葵を見た。
「私はあまり笑わないですが」と言った。
「笑う時は、本当に笑っているのがわかります」と葵は言った。さらりと言った。
沙織は返事をしなかった。
包丁に視線を戻して、野菜を切り続けた。
葵はまた壁にもたれて、黙って見ていた。
午後、葵は島の北端の灯台へ向かった。
自転車を借りて出かけた。沙織は午後の仕込みの残りを片付けてから、縁側に出た。
海を見た。
今日は少し風があって、昨日より波が立っていた。白い波頭が遠くに見えた。葵は今頃、灯台の近くにいるだろう。崖の下まで降りて、波を撮っているかもしれない。
怖くないですかと聞けば、怖かったです、でも撮りたかったから、とでも答えるだろう。
そういう人間だ、と沙織は思った。
確かめたわけでもないのに、そう思った。
夕方、葵は灯台から帰ってきた。
砂利道を走ったらしく、足元が砂埃で汚れていた。でも顔は生き生きしていた。
「どうでしたか」と沙織は言った。
「いい場所でした」と葵は言った。「灯台の下まで降りられて、波がすごく大きくて」
「怖くなかったですか」
「怖かったです。でも撮りたかったから」
やはりそう言った。
葵は縁側に腰を下ろした。沙織も隣に座った。
葵がタオルで首を拭いた。
拭いた後、日焼けした肌が少し赤くなっていた。タオルで擦ったからではなく、今日の日差しでまた焼けたのだ。首の付け根から鎖骨にかけて、じわっとした赤みがあった。
「また焼けましたか」と沙織は言った。
「灯台の下は日陰がなかったので」葵は自分の首元を触った。「少し熱いかも」
「アロエ、また塗りますか」
「お願いしてもいいですか」
沙織は庭に出て、アロエの葉を折った。
縁側に戻ると、葵は少し前かがみになって待っていた。
沙織はアロエを割って、葵の首筋に当てた。
葵が小さく息を吸った。
「冷たい」と言った。
沙織は指でアロエの液を伸ばした。首の付け根から、鎖骨の方へ向かって。日焼けした肌は滑らかで、触れるとわずかに熱かった。
葵は動かなかった。
前かがみのまま、黙っていた。
沙織は丁寧に塗った。液が薄く伸びていくのを確認しながら。指先に、葵の皮膚の温度があった。
「ありがとうございます」と葵は静かに言った。
声がさっきより低かった。
沙織は手を引いた。
葵が顔を上げた。目が合った。
葵の目が、少し違った。生き生きしていた灯台から帰ってきた時の目とは、別の感じだった。
「痛みは引いていますか」と沙織は言った。
「はい」と葵は言った。「冷たくて、気持ちよかったです」
二人でしばらく、縁側に並んで座った。
夕方の海が見えた。今日の夕方は風があって、昨日より波が立っていた。白い波頭が、遠くでいくつか見えた。
「写真、見せてもらえますか」と沙織は言った。「今日のも」
「夕食の後で」と葵は言った。「毎日、見せてもいいですか」
「毎日見たいです」
葵はまた少し困った顔をした。照れている顔だ、と今日はわかった。
「じゃあ、毎日見せます」と葵は言った。
夕食の後、葵の部屋で写真を見た。
今日の写真が並んでいた。灯台を上から見下ろした海、崖に波がぶつかる瞬間、灯台の白い壁に光が当たっている場面。
一枚、少し変わった構図があった。灯台の影が地面に長く伸びていた。影だけを切り取った写真で、灯台自体はほとんど画面に入っていなかった。
「影だけを撮ったんですか」と沙織は言った。
「存在を撮りたかったので」と葵は言った。「灯台そのものより、灯台がそこにある、という感じを」
「影の方が存在感がある」
「物そのものより、影の方がリアルに見える時があるので」
沙織はその写真を見た。
地面に伸びる影が、真っすぐで長かった。影だけを見ていると、灯台がどのくらい高いかがわかる気がした。実物を見るより、むしろわかる気がした。
「影を撮るのが好きですか」と沙織は言った。
「嘘をつかないと思って」と葵は言った。「形を変えないから。元のものをそのまま地面に映す」
「朝の光の話をした時にも、嘘という言葉が出ていました」
「私、嘘が嫌いなんだと思います」と葵は言った。「嘘をつくものより、正直なものの方が、撮りたいと思う」
「東京で、嘘をつく人間がいましたか」と沙織は言った。
聞くつもりはなかった。ただ出てきた。
葵は少し黙った。
「いました」と葵は言った。短く、きっぱりと。
「すみません、急に」
「いいです」葵はパソコンの画面を見た。「誰でもいるじゃないですか、一人くらい」
「そうですね」
「ただ、私には少し堪えたので」葵はまた沙織を見た。「島に来ることにしました」
「島が、嘘をつかない場所だから」
「そうなるといいな、と思って来ました」と葵は言った。「今のところ、なっています」
沙織には返す言葉がなかった。
「よかったです」とだけ言った。
「はい」と葵は言った。「よかった」
二人でしばらく、黙って画面を見た。
波の音が窓から入ってきていた。今夜は風があるから、昨日より音が大きかった。
「沙織さん」と葵は言った。
「はい」
「今日は沙織さんの写真が撮れなかったです」と葵は言った。「今日は一緒にいた時間がなかったので」
「私がいなくても撮れるものがたくさんあったでしょう」と沙織は言った。
「そうですけど」と葵は言った。「撮りたいです、沙織さんのことも」
またさらりと言った。
沙織は視線を画面に戻した。
「また機会があれば」と言った。
「明日、一緒に出られますか」
「仕込みが早く終われば」
「早く終わるように、私が何か手伝えますか」
「台所にいてくれれば早くなるかもしれません」
「それでいいんですか」と葵は言った。
「見ていてくれると、なぜかはかどるので」
言ってから、少し正直すぎたかもしれないと思った。
葵は何も言わなかった。
ただ、画面の方を向いたまま、少し笑った気がした。気がした、というだけで、確認しなかった。
自分の部屋に戻って、布団に入った。
今夜は縁側でアロエを塗った時のことを考えていた。
葵が前かがみになって待っていた。首筋に指を当てた時、葵の息が変わった。冷たい、と言った声が、普段より少し低かった。
あの声の低さが、沙織の中に残っていた。
アロエを塗りながら、指先に葵の体温があった。日差しを浴びた皮膚の熱さが。毎日少しずつ変わっていく肌の色が、今日も確かに変わっていた。
島が葵の体に入ってきている。
沙織はそのことを確かめるように思った。入ってきている、ということを、自分が注意深く見ている。毎日、葵の肌の変化を見ている。
なぜそうしているのか、まだうまく言葉にならなかった。
ただ、見ていた。
波の音がしていた。今夜は少し大きい音だった。
隣の部屋で、葵がパソコンを閉じる音がした。
それから静かになった。
壁一枚の向こうで、葵が眠ろうとしている。今夜は波音が大きいから、眠りにくいかもしれない。あるいは慣れてきたから、関係なく眠れるかもしれない。
沙織は目を閉じた。
明日は早く仕込みを終わらせよう、と思った。
葵が台所で壁にもたれて見ていてくれれば、早くなる。それはなぜか、やはりうまく言葉にならなかった。
波の音を聞きながら、沙織は眠りに落ちた。




