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凪の手前  作者: スラビレ
3/12

3話


 三日目の朝も、葵は五時前に起きた。


 沙織はその気配で目が覚めた。隣の部屋の床が鳴る音がして、洗面所へ行く音がして、また部屋に戻ってくる音がした。しばらくして、玄関の引き戸を開ける音がした。


 今日は三脚も持っていくようだった。廊下でいくつかのものを確認する音がして、それから外へ出た。


 沙織は布団の中でしばらくいた。


 眠れなかった。


 起き上がって、窓を開けた。朝の入り江が橙色に輝いていた。葵は今、この光の中のどこかにいる。カメラを向けているはずだった。


 嘘をつかない光の中で。


 沙織は窓の外を少し見てから、台所へ向かった。


 七時の朝食の時間に、葵は少し早めに帰ってきた。


 今日は海沿いを歩いてきたらしく、Tシャツの首元が塩で白くなっていた。汗が乾いた跡だ。髪も少し湿っていた。


「今日はどこへ」と沙織は言った。


「入り江の方を歩きました。岩場があって、その隙間から光が入ってきていて」


「岩場は干潮の時間に合わせないと入れないところもあります」と沙織は言った。「今日は何時頃でしたか」


「六時前くらいです」


「それなら大丈夫だったと思います。昼前は満ちてくるので注意してください」


「わかりました」


 葵は席に着いた。


 朝食を並べながら、沙織は葵の首元の塩の跡を見た。白い線が、首の付け根に沿って残っている。岩場を歩いて、それだけ汗をかいた跡だ。そこに触れたら、塩の味がするだろうか、と沙織は思った。


 思ってから、手を動かしてご飯を葵の前に置いた。


「今日は午後、どこかへ行きますか」と沙織は言った。


「午後は涼しくなってから出ようかと思っています」と葵は言った。「昨日みたいに昼間に歩くと消耗するので」


「午後三時を過ぎると日が傾いてくるので、その頃から出ると楽です」


「沙織さんは、この時間帯に一緒に出られないですか」


 沙織は少し止まった。


「民宿の仕事があるので」と言った。


「そうですよね」と葵は言った。「すみません、急に」


「いえ」


 急に、と葵は言った。思ったことが出てきた、ということだ。


 沙織はご飯を並べながら、葵の首元をまた見た。


「でも」と沙織は言った。「午後の仕込みが早めに終われば、出られるかもしれません」


「そうですか」と葵は言った。顔に何かが出た。緊張が解けたような、ほっとしたような顔だった。


「島の南の方に、浜があります。観光客があまり来ない場所で」


「行きましょう」と葵は言った。即座に。


 沙織は少し笑った。


 葵も笑った。今日の笑い方は、昨日よりも力が抜けていた。


 午前中、葵は部屋で写真の整理をしていたようだった。


 沙織は仕込みをしながら、時々廊下の音を確認した。


 昼過ぎに、葵が台所に顔を出した。


「何か手伝えますか」と葵は言った。


「大丈夫です」と沙織は言った。「慣れているので」


「昨日も同じことを言っていました」


「同じ答えしかありません」


「じゃあ、見ていてもいいですか」と葵は言った。「邪魔はしないので」


 葵は台所の入口の壁にもたれた。腕を組んで、沙織が作業するのを黙って見ていた。


 沙織は昼食の準備を続けた。包丁を使いながら、葵の視線を感じていた。評価する感じのない視線だった。ただ見ている。目に入ったものを見ている。カメラを向ける時と同じ目で。


 その視線が、不思議と不快でなかった。むしろ少し、体の中が落ち着く感じがした。


「昼、一緒に食べますか」と沙織は言った。「ソーミンチャンプルーになりますが」


「食べます」と葵は言った。即座に。「それ、なんですか」


「そうめんを炒めたものです。島の家庭料理で」


「食べてみたいです」


 葵はまた壁にもたれた。


 沙織はそうめんを茹でながら、葵の腕のあたりを確認した。昨日アロエを塗った部分が、今日はほぼ落ち着いていた。赤みが引いて、少し茶色みがかってきていた。


「腕、落ち着いてきましたか」と沙織は言った。


「痛みはないです」と葵は言った。「少し色が変わってきました」


「日焼けが馴染んでくると、そうなります」


 葵は自分の腕を見た。


 沙織も葵の腕を見た。


 昨日触れた時の感触が、少し残っていた。熱かった肌の感触が。


「料理するんですか、普段も」と葵は言った。


「民宿の料理は私が担当なので」


「本格的だ」


「特別なことはしていないです」と沙織は言った。「島の食材を島の作り方で作るだけなので」


「料理するのが好きですか」


「好き、というより」沙織は少し考えた。「手が覚えているので」


「手が覚えているって、好きだからそうなったんじゃないですか」と葵は言った。「嫌いなことは、どんなに長くやっても手が覚えないと思うので」


 沙織は手を止めて、葵を見た。


 葵は壁にもたれたまま、真剣な顔で言っていた。反論するつもりでも、説得するつもりでもない。ただそう思う、という顔だった。


「そうかもしれないです」と沙織は言った。


 そう言いながら、実際にそうなのかもしれない、と思った。二十四年間考えたことがなかったことを、葵は四日目に指摘した。


「写真は」と沙織は言った。


「写真は」と葵は繰り返した。


「手が覚えていますか」


「まだです。始めてまだ二年くらいなので。でも、なりたいと思ってます。手が覚えている状態に」


「二年で、あれだけ撮れるんですか」


「あれだけ、というほどでも」


「昨日見た写真、よかったです」


「沙織さんはちゃんと見てくれますね」と葵は言った。


「どういう意味ですか」


「写真を見る時に、ちゃんと見てくれる人と、見ているようで見ていない人がいて」葵は少し考えた。「沙織さんは、ちゃんと見てくれる」


「見ればわかる写真だったので」


「そういうことを言ってくれる人は、あまりいないです」


 葵の声が、少し低くなった。低くなった分、声が重くなった。


 東京で何があったのか、沙織にはまだわからない。でも、写真に関係することが何かあったのかもしれない、と思った。


「できます」と沙織は言って、そうめんをざるに上げた。


 昼食を食べてから、沙織は午後の仕込みを早めに終わらせた。


 三時半頃に仕込みが終わった。


 沙織は着替えた。Tシャツと短パン。日焼け止めを塗った。腕と首に。首に塗りながら、今朝の葵の首元の塩の跡を思い出した。


 帽子を持って、葵の部屋をノックした。


「準備できました」と言った。


 すぐにドアが開いた。葵はすでに準備していた。カメラバッグを肩にかけていた。日焼け止めを塗った後が首に光っていた。


「行きましょう」と葵は言った。





 南の浜へは、島の東側の細い砂利道を通っていく。


 観光客向けの案内板には載っていない道で、島の人間しか知らない。両側に草が茂っていて、夏の草は勢いがある。歩くと葉が足に当たった。


「本当に道ですか、これ」と葵は言った。


「道です」と沙織は言った。「細いですが」


 並んで歩くには少し狭かった。葵が前に出て、沙織が後ろに続く形になった。


 葵の背中が目の前にあった。白いリネンのシャツが汗で少し張り付いていた。背骨のラインが、薄い布越しに見えた。


 沙織は前を向いたまま歩いた。


「蝉の声、多いですね」と葵は言った。


「七月はこんな感じです」


「島の蝉は、本土の蝉と声が違う気がします」


「種類が違うので」と沙織は言った。「クロイワツクツクという、島固有の種類がいます」


「名前があるんですね」


「知っていますか、ツクツクボウシ」


「知ってます」


「あれの沖縄版です。鳴き終わる時の声の感じが少し違う」


 葵は少しの間、蝉の声を聞きながら歩いた。


「確かに」と葵は言った。「最後が違う」


「聞こえましたか」


「聞こえました」葵が少し振り返った。「沙織さんはそういうことをよく知ってるんですね」


 振り返った時、葵の顔が近かった。


 道が狭いから、葵が振り返ると沙織との距離が縮まる。葵の汗の匂いが、一瞬近くなった。


「島に生まれたので」と沙織は言った。


「でも、知らない人も多いと思います」


 葵はまた前を向いた。


 沙織は歩き続けた。


 草道が終わって、砂利が始まった。


 浜が見えた。


 南の浜は、小さな入り江の奥にあった。


 砂浜の幅は三十メートルほどで、両側を岩に囲まれている。誰もいなかった。


 葵が砂浜に出て、立ち止まった。しばらく、海を見ていた。


 今日の光は午後の斜めの光だった。水面は深い青で、透明度が高いから底の砂が見えた。岩礁の影が長く伸びていた。


「きれいだ」と葵は言った。


 葵はカメラバッグを降ろして、カメラを出した。レンズを確認して、設定を変えた。それから浜を歩き始めた。


 沙織は砂浜の端、岩の近くに腰を下ろした。


 葵が撮るのを、見ていた。


 カメラを持つと、葵の歩き方が変わる。ゆっくりになる。立ち止まりが増える。何かを見つけると止まって、角度を確認して、シャッターを切る。


 岩礁の影が水面に映っている場所で、葵は長く止まっていた。しゃがんだ。水面に近い角度からカメラを向けた。その体勢で、シャッターを何度か切った。


 しゃがんだ葵の背中が見えた。


 シャツが背中に張り付いていた。さっきの草道で見た時より、汗で濡れていた。肩甲骨のあたりの布が、皮膚に吸い付くように張り付いていた。


 沙織は目を波の方へやった。


 しばらくして、葵が戻ってきた。砂浜の沙織の隣に腰を下ろした。


「ありがとうございます」と葵は言った。「ここ、教えてくれて」


「いい場所でしたか」


「すごくいい。こういう場所があるって、知らなかったです」


「観光案内には載っていないので」


「沙織さんが連れてきてくれなければ、来なかった」


 波が来た。砂浜を濡らして、引いていった。


 葵が腕を砂浜について、少し後ろに体重を預けた。その拍子に葵の腕が沙織の腕に触れた。


 葵は気づいているのかどうか、わからなかった。


 沙織は動かなかった。


 葵の腕の体温が、自分の腕に伝わってきた。日差しを浴びた皮膚の熱さだった。それが少しの間、続いた。


 波がまた来た。引いた。


「島の人にとって、海ってどういう存在ですか」と葵は言った。


「普段は意識しないです」と沙織は言った。「ただ、ここにある、という感じで」


「絶対にそこにあるものが、ある」


「そうです」


「それってすごくいいことだと思います」と葵は言った。


 その言い方に何かが滲んでいた。絶対にそこにあるものが、ない人間の言い方だ、と沙織は思った。


 葵の腕がまだ沙織の腕に触れていた。


 葵は気づいていないのかもしれなかった。海を見ながら話していて、体の感覚が向こうに行っているのかもしれなかった。


 沙織は動かなかった。


「写真を始めたのは、なんでですか」と沙織は言った。


「見ておきたかったから、だと思います」と葵は言った。


「何を」


「その時その時にあるものを。見ておかないと、なくなってしまうから」


「なくなったことがありますか」


「あります」と葵は言った。短く、はっきりと。


 それ以上は言わなかった。


 波が来た。来て、引いた。


 葵の腕の熱さが、沙織の腕にずっとあった。


 四時を過ぎると、光の角度がまた変わった。


 海の色が少し変わった。深い青だったものが、少し緑がかってきた。


 葵がまたカメラを持って立ち上がった。


「光が変わってきました」と言った。


「この時間帯の光が好きですか」と沙織は言った。


「夕方の光は好きです」と葵は言った。「嘘をつく光ですが」


「何でも綺麗に見せてしまうから」


「そうです」と葵は言った。「人間と似ていますね」


「どういうことですか」


「正直な人間より、嘘をつく人間の方が、綺麗に見えることがあるから」


 葵は砂浜を歩き始めた。光の変わった海に、カメラを向けながら。


 沙織は葵の後ろ姿を見た。


 斜めの光が葵に当たっていた。白いリネンのシャツが橙色に染まっていた。


 さっき腕が触れた感触が、まだ残っていた。


 浜を去る前に、葵が沙織を呼んだ。


「沙織さん、ここに立ってもらえますか」


「え」


「岩の前。そこに光が当たっているので」


 沙織は葵が指した場所に立った。岩の手前で、斜めの光が砂浜に当たっている場所だった。


「そのまま、海を見てください」


 沙織は海を向いた。


 シャッター音がした。一回。また一回。


「ありがとうございます」と葵は言った。


「撮ったんですか」と沙織は言った。


「撮りました」


「見せてもらえますか」


「今日帰ってから」と葵は言った。「今見せると、沙織さんが気になってしまうと思うので」


「後で見た方がいい」


「そうした方がいいと思います」


 沙織にはその意味がわからなかった。でも葵がそう言うのなら、そういうことなのだろうと思った。


「わかりました」と沙織は言った。


 二人で砂浜を出た。


 草道を帰る時、行きと同じ順番になった。葵が前で、沙織が後ろだった。


 でも今度は少し、道に慣れた葵の歩幅が広かった。二人の距離が、行きより少し開いた。


 それが沙織には少し、違和感を感じた。


 そう思ってから、自分でも意外だった。少し開いた距離をおかしいと思う、という感覚が。


 浜では腕が触れていた。気づかないうちに触れていた。


 それが今は、ない。


 それだけのことが、沙織の中で何かとして残っていた。





 夕食の後、葵の部屋で写真を見た。


 葵がノートパソコンを開いた。今日撮った写真が並んでいた。


 朝の港。岩場の光。砂浜の光の変化。


 一枚見た瞬間、沙織は少し止まった。


 自分が映っていた。


 岩の手前に立って、海を見ている。斜めの光が当たって、影が長く伸びていた。横顔で、表情はよくわからない。ただ、海を見ている人間がそこにいる。


「下手ですか」と葵は言った。


「下手じゃないです」と沙織は言った。


「でも」


「自分が、こういうふうに見えているとは思わなかったです」


「どういうふうに見えていましたか」と葵は言った。


「わかりません。ただ、こういう感じだとは思っていなかった」


「私には、こう見えました」と葵は言った。「島の人間、という感じがして」


「島の人間」


「いい意味で。岩も海も光も、そこにあるのが当たり前で、その中に沙織さんもいる感じ」


 沙織はもう一度、写真を見た。


 岩と、海と、光と、自分。自分がそこにいることが、岩や海と同じくらい自然に見えた。


「もう一枚あります」と葵は言った。


 もう一枚の写真が大きくなった。


 さっきとは違う角度だった。こちらは少し斜め後ろから撮られていた。浜を見ている沙織の後ろ姿と、向こうに広がる海が、一枚の中に入っていた。


 シャツの背中が見える。光の中で、繊維に透けて体のラインが見えていた。


 自分の写真を見て、沙織は少し体が熱くなった。後ろ姿を撮られていた、ということが。その写真をこうして見ている、ということが。


「こっちの方が好きです」と葵は言った。


「なんでですか」


「後ろ姿は、見ている先が見えないから」と葵は言った。「何を見ているのかわからないけど、何かを見ている。その感じが好きで」


「私の写真の中で、今日撮った中で一番好きかもしれないです」と葵は続けた。


 その言い方があまりにも素直で、沙織は返す言葉がなかった。


「ありがとうございます」とだけ言った。


「見せてよかったです」と葵は言った。「ちゃんと見てくれる人に」


「これ、もらえますか」と沙織は言った。「データで」


「もちろん」


 葵が操作して、スマートフォンに転送してくれた。


 二人でパソコンの前に並んで座っていた。画面を見ながら操作する葵の腕が、沙織の腕に近かった。触れはしなかったが、近かった。浜で触れていた時の感触が、また頭のどこかを通った。


「遅くなりました」と沙織は言って立ち上がった。「おやすみなさい」


「おやすみなさい」と葵は言った。「今日はありがとうございました。浜、連れていってくれて」


「よかったです」


「また連れていってもらえますか」


「また仕込みが早めに終われば」


「じゃあ、また早めに終わらせてください」と葵は言った。


 命令する言い方ではなかった。ただ、そう望んでいる。


 沙織は少し笑った。


「努力します」と言った。


 葵も笑った。


 沙織は部屋を出た。


 自分の部屋に戻って、電気を消して布団に入った。


 スマートフォンを持った。転送してもらった写真を見た。


 砂浜に立っている自分の後ろ姿。


 葵はこれを撮っていた。


 沙織がどこを見ているかもわからないまま、後ろからシャッターを切っていた。


 沙織は自分の腕を見た。浜で葵の腕が触れていた場所を確認した。何も残っていない。でも、感触がまだあった。日差しで熱くなった皮膚の、葵の体温が。


 隣の部屋で、葵がパソコンを閉じる音がした。


波の音がする。


 それから静かになった。


 壁一枚の向こうに、葵がいる。今頃布団に入っているだろうか。窓を開けていれば、同じ波音を聞いているだろうか。


 沙織はスマートフォンを置いた。


 目を閉じた。


 今夜はすぐに眠れる気がした。浜を歩いた疲れが体にあった。葵の腕の熱さが腕に残っていた。


 波の音を聞きながら、沙織は眠りに落ちた。


 夏の夜は、まだ長かった。


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