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凪の手前  作者: スラビレ
2/12

2話


 翌朝、沙織は五時に目が覚めた。


 いつものことだ。島の夏は朝が早い。外が明るくなるのが五時前で、その光が薄いカーテンを通り抜けて部屋に入ってくる。目が覚める、というより、光に引っ張られて意識が浮いてくる感じがある。


 しばらく布団の中にいた。


 天井を見た。昨日と同じ天井だった。


 隣の部屋の音を、無意識に確認していた。


 静かだった。葵はまだ眠っているらしい。


 沙織は起き上がった。Tシャツと短パンに着替えて、洗面所へ行った。顔を洗った。水が冷たかった。井戸水をポンプで汲み上げているから、夏でも水が冷たい。この感触が好きだ。一日の始まりに顔に当たる冷たい水が、ここ数年で一番好きな感覚になっている。


 台所へ行った。


 朝食の仕込みを始めた。今日は白ご飯と、豆腐チャンプルーと、味噌汁と、島の野菜の漬物だ。豆腐を切りながら、窓の外を見た。朝の入り江が見えた。


 まだ光が低い時間帯で、水面が橙色に輝いていた。凪いでいた。今日も風がない。夏の朝の入り江は、こういう色をしている時間がある。長くは続かない。太陽が上がるにつれて、どんどん白くなっていく。


 この色を、沙織は毎朝見ている。


 毎朝見ていて、毎朝少しだけ何かを感じる。感じる、というのが正確かどうかわからないが、この色を見ると、体の中の何かが少し動く感じがする。それが何なのかを考えたことはない。


 廊下の奥で音がした。


 葵が起きたらしい。


 時計を見ると、五時四十分だった。早い。観光客で、この時間に起きてくる人間は多くない。


 廊下を歩く音がした。洗面所へ行く音がした。水の音がした。


 それから、玄関の引き戸を開ける音がした。


 あのコツの必要な引き戸が、昨日より少し軽く開く音がした。一日で覚えたらしい。


 外へ出る音がした。


 沙織は豆腐を切る手を止めた。


 葵が早朝に出ていった。カメラを持ったのかどうか、ここからはわからない。


 仕込みを続けた。


 豆腐を切り終えて、野菜を切り始めた。


 七時の朝食の時間になった。


 葵は六時五十分頃に戻ってきた。汗をかいていた。カメラバッグを肩にかけていた。やはり朝から撮りに行っていたらしい。


「おはようございます」と沙織は言った。


「おはようございます」と葵は言った。「早く起きすぎました」


「何時に起きたんですか」


「五時前。目が覚めて」


「光のせいです」と沙織は言った。「島の朝は早くて、カーテンが薄いと五時には目が覚めます。もし遮光のカーテンが必要なら替えますけど」


「いえ」と葵は言った。「起きてよかったです。すごくいい光でした」


「朝の入り江ですか」


「港の方に行ったんですけど、漁師さんが帰ってきていて。船の音と、光と。しばらく見てました」


 葵は少し、目に何かが入ったような顔をした。昨日夕食の時に見たのと同じ顔だった。言葉が合った時の顔ではなく、何かを思い出している時の顔だった。


 沙織は食事を並べた。


「今日も一日、撮り歩くんですか」と沙織は言った。


「そうしようかと。昨日行けなかった場所に行きたいので」


「どの辺りですか」


「島の南の方。地図で見ると、崖の上に展望台みたいなものがあって」


「白崎ですね」と沙織は言った。「上からの眺めはいいですよ。ただ、昨日みたいに午後に歩くのは熱中症になるので、午前中に行って昼前には戻ってきた方がいいです」


「日焼け止めも塗ります」と葵は言った。


 少し笑った。昨日の日焼けを思い出したらしかった。


 朝食を食べた。葵は白ご飯をよく食べた。昨日の夕食もそうだったが、食欲がある人間らしかった。東京から来た疲れた人間の体が、島の食事を求めている感じがした。


「美味しいです」と葵は言った。「豆腐チャンプルー」


「島豆腐は本土のものと少し違うので」と沙織は言った。「硬くて、味が濃い」


「これがないと物足りなくなりそう」


「一ヶ月いたら、そうなります」


 葵は少し考えるような顔をしてから、ご飯をもう一口食べた。


 一ヶ月、という言葉が少し引っかかったのかもしれない。自分が一ヶ月ここにいる、という事実を改めて確認したような顔だった。


 沙織は何も言わなかった。




 午前中、葵は白崎へ向かった。


 沙織は民宿の仕事をした。部屋の掃除、洗濯、食材の補充。こういう日常的な作業を、もう何年もやっている。手が覚えているから、頭を使わなくていい。頭を使わない時間は、考えているとも考えていないともつかない状態になる。


 葵のことを、考えていた。


 考えていた、というより、何かが頭の中を通り過ぎていた。葵の声とか、葵が海を見ていた時の顔とか、葵の腕に触れた時の熱さとか。


 そういうものが、順番に通り過ぎていった。


 洗濯物を干しながら、沙織は自分が何をしているのかを少し意識した。洗濯物を干す、という作業を意識せずにしながら、頭の中で葵のことを通過させていた。これは、どういう状態なのだろう。


 判断がつかなかった。


 ただ、悪い感じはしなかった。


 むしろ少し、体の中に何か温かいものがある感じがした。温かい、というのが正確かどうかわからないが、何か今までなかったものがある感じがした。


 洗濯物を干し終えて、台所に戻った。


 昼食の準備をしながら、窓の外を時々見た。葵が帰ってくる方向を、なんとなく確認していた。


 気づいてから、少し変だと思った。


 別に確認しなくていい。葵は大人だ。一人で島を歩ける。帰ってくる時間も自分で判断できる。


 それでも、時々窓の外を見た。


 正午過ぎに、葵は帰ってきた。


 日焼け止めを塗っていたから、昨日ほどには赤くなっていなかった。でも汗はかいていた。白いリネンのシャツが、背中のあたりで湿っていた。


「どうでしたか」と沙織は言った。


「すごかったです」と葵は言った。息がまだ少し上がっていた。「崖の上からの眺め、想像以上で」


「よかった」


「写真、たくさん撮りました。帰ったら確認するのが楽しみで」


 葵の顔が、来島した時より少し生き生きしていた。疲れた人間の体が、少しずつ何かを取り戻しているような感じがした。


「昼食はどうしますか」と沙織は言った。「民宿は昼食なしですが、今日は余っているものがあるので、もし食べたければ」


「いいんですか」


「たいしたものじゃないですが」


「食べます」と葵は即座に言った。「ありがとうございます」


 島の食事が好きらしかった。それが沙織には少し、嬉しかった。


 午後は島に夏特有の静けさが来た。


 気温が上がりきって、人も動物も動かなくなる時間帯だ。観光客でも、この時間帯に外を歩く人間は少ない。日陰を探して休むか、宿で昼寝をするか、どちらかになる。


 葵は部屋に戻って、写真の確認をしているらしかった。部屋からは時々、かすかなシャッター音が聞こえた。カメラの操作音か、あるいは沙織の気のせいかもしれないが、ともかく何かの音がした。


 沙織は自分の部屋で少し横になった。


 眠るつもりはなかったが、暑くて体を動かす気にならなかった。


 天井を見た。


 壁の向こうで、葵が何かをしている。


 この部屋と葵の部屋を隔てている壁は、古い木造の壁だ。見た目は厚く見えるが、実際はそれほどでもない。静かにしていると、隣の部屋の気配が伝わってくる。物を動かす音とか、床が鳴る音とか。


 今は静かだった。


 葵が静かにしているのか、写真の確認で画面を見ているのか、眠っているのか。


 沙織には判断がつかなかった。


 ただ、誰かがそこにいる、という気配があった。


 誰かがいる、という気配が壁を通り抜けてくる感じ。それが、なんとなく、落ち着く感じがした。


 一人でいる時の静けさと、誰かがいる時の静けさは、違う。音は同じかもしれない。でも、質が違う。


 沙織はそのことを、長いこと島で一人で過ごしてきてよく知っていた。


 目を閉じた。


 眠らないつもりだったが、少し眠った。


 夕方、沙織は目が覚めると、部屋が暗くなっていた。


 時計を見ると四時を過ぎていた。思ったより長く眠っていた。


 起き上がって、台所へ行った。夕食の仕込みを始めなければいけない。


 廊下を通る時、葵の部屋の前を通った。


 ドアは閉まっていた。


 音はしなかった。


 台所で仕込みを始めた。今日は魚の煮付けにしようと思っていた。今朝、漁師の奥さんが届けてくれた魚が、冷蔵庫に入っている。タマン、という島の白身魚で、煮付けにすると身がほろほろになる。


 魚を切りながら、醤油と砂糖と泡盛を合わせた。泡盛で煮るのが島の作り方だ。アルコールが飛ぶと、独特の甘みが残る。


 その甘い匂いが台所に広がってきた頃、葵が部屋から出てきた気配がした。廊下を歩く音がして、台所の入口に来た。


「いい匂いがして」と葵は言った。


「魚の煮付けです」と沙織は言った。


「泡盛ですか」


「わかりますか」


「匂いで」


 葵は台所の入口に立ったまま、鍋の方を見ていた。入っていいか迷っているようだった。


「見ますか」と沙織は言った。


「いいですか」


「どうぞ」


 葵が台所に入ってきた。


 鍋の横に立った。


 魚が煮汁の中で静かに煮えていた。煮汁が時々ぽこっと泡立つ。その度に、甘い匂いが立ち上がった。


「泡盛で煮るんですね」と葵は言った。


「島の料理は泡盛を使うものが多いです。臭みが取れて、甘みが出るので」


「料理するんですか、普段も」


「民宿の料理は私が担当なので」


「本格的だ」


「特別なことはしていないです」と沙織は言った。「島の食材を島の作り方で作るだけなので」


 葵は煮えている魚を見ていた。


 台所は狭い。二人が並ぶと、自然に距離が近くなった。葵の肩が沙織の肩から、数センチの距離にあった。


 葵の腕を確認した。昨日アロエを塗った部分が、今日は少し落ち着いている。赤みが引いて、やや茶色になりかかっていた。


「昨日より落ち着いてきましたね、腕」と沙織は言った。


「そうですか」葵は自分の腕を見た。「今日は日焼け止めを塗ったので」


「よかった」


「ありがとうございます。昨日は助かりました」


 葵が沙織を見た。


 目が合った。


 昨日よりも、距離が近かった。台所が狭いから。


 沙織は視線を鍋に戻した。


 煮汁が少し煮詰まってきた。火を少し弱めた。


「写真、確認しましたか」と沙織は言った。


「はい。いくつか気に入ったものが撮れました」


「見せてもらえますか」


「今、持ってきますね」


 葵は台所を出て、部屋に戻った。


 数分して、カメラを持ってきた。


 沙織は手を洗ってから、カメラを受け取った。


 液晶画面に、今日撮った写真が並んでいた。


 一枚目は、朝の港だった。漁船が戻ってきている場面で、光が水面に反射している。逆光で撮っていて、船の輪郭が光に溶けかかっていた。


 二枚目は、石畳の道だった。猫が一匹、道の真ん中に座っている。猫は沙織たちの前を横切った猫とは別のものだったが、目の感じが似ていた。


 三枚目は、崖の上からの眺めだった。海が広がっていて、地平線まで続いている。


 四枚目を見た瞬間、沙織は少し止まった。


 民宿の窓が写っていた。


 朝の光の中で、白い壁に窓が切り抜かれていて、カーテンが少し揺れている。中は暗くて見えない。ただ、窓の存在だけがある。


「これ、うちの窓ですか」と沙織は言った。


「帰ってくる時に撮りました。外から見たら、なんかいい感じがして」


「誰かいるみたいに見える」


「そうですよね」と葵は言った。「窓って、人の気配がするから好きなんです。誰もいなくても」


 沙織はもう一度その写真を見た。


 民宿の窓。その中に、誰かがいる感じがする。でも中は見えない。


 その「見えない誰か」の感じが、この写真の中心にあった。


「上手いですね」と沙織は言った。


「いえ」と葵は言った。「ただ、目に入ったものを撮っているだけなので」


「目に入るものが、人と違うんだと思います」


 葵は少し沙織を見た。


 また、目に何かが入ったような顔をした。


「そんなことないですよ」と葵は言った。でも、その言い方は否定するためのものではなく、少し、受け取った言葉を確かめているような言い方だった。


 沙織はカメラを返した。


 鍋の方を向いた。


 煮汁がいい感じに煮詰まっていた。


 夕食の後、葵は少し部屋で休んでから、外に出た。


 三脚を持って出たから、夜の星を撮りに行ったのだと沙織は思った。


 沙織は食堂の後片付けをしてから、縁側に出た。


 縁側は海に面している。夜の海が見えた。月が出ていたから、少し明るかった。月の光が水面に映って、揺れていた。


 沙織は縁側に座って、足を伸ばした。


 夜の空気は少し涼しかった。昼間の熱が、少し引いている。島の夏は、夜になると風が出ることが多い。今夜も、ゆっくりした風が海の方から来ていた。


 その風の中に、虫の声があった。


 島に来る観光客は、この虫の声を好む人間が多い。独特のリズムがある、と言う。沙織は慣れすぎていて、普段は意識しない。でも今夜は、少し意識して聞いていた。


 葵は今、どこかでこの声も聞いているのだろうか。


 何時間か経って、葵が帰ってきた。


 玄関の引き戸を開ける音がして、廊下を歩く音がして、縁側の前を通った。


「沙織さん」と葵は言った。


 名前を呼ばれた。


 民宿の人間を名前で呼ぶ観光客は、いないわけじゃないが、そう多くない。葵は自然にそう呼んだ。初めて名前で呼ばれたのに、違和感がなかった。


「星、撮れましたか」と沙織は言った。


「たくさん撮りました」と葵は言った。「すごく多くて。東京では見えないような星まで見えて」


「島は明かりが少ないので」


「三脚を立てて、シャッターを開け続けていると、だんだん目が慣れてきて。もっとたくさん見えてくるんですよ。見えていないものが、だんだん見えてくる感じ」


 葵は縁側に沙織の隣に腰を下ろした。


 三脚を脇に置いた。


 二人で、夜の海を見た。


 月光が水面に揺れていた。


「綺麗ですね」と葵は言った。


「毎日見てます」と沙織は言った。


「毎日見られるって、すごいことだと思う」


 沙織は少し考えた。


 毎日見ている、ということを「すごい」と言われるとは、思っていなかった。毎日見ていると、当たり前になる。当たり前になると、見えなくなる。そういうことを、沙織は知っていた。


「慣れると、見えなくなります」と沙織は言った。


「そうかもしれない」と葵は言った。「でも、ここにいる間、ちゃんと見ていたいと思って」


「ここにいる間」


「一ヶ月しかいられないので」


 一ヶ月、という言葉がまた出た。


 沙織は海を見ながら、その言葉を頭の中に置いた。


 一ヶ月。


 長いとも言えるし、短いとも言える。


「ここを出る前に、東京に戻る前に」と葵は続けた。「いろんなものをちゃんと見ておきたいと思って」


 東京に戻る前に。


 何かがあった、ということが、その言い方に滲んでいた。沙織は聞かなかった。聞く理由もないし、聞きたい気持ちもないわけじゃなかったが、今夜の葵の言い方は、これ以上話す気持ちがない言い方だった。


 二人で黙って海を見た。


 風が来た。葵の髪が少し揺れた。


 葵の横顔を、沙織は見た。


 月の光の中で、葵の顔は白かった。首の後ろのアロエを塗った場所が、月の光で少し光っていた。


 葵は目を細めて、海を見ていた。


 何かを見ているというより、何かを感じているような目だった。


 沙織は視線を海に戻した。


「明日も、早く起きますか」と沙織は言った。


「たぶん」と葵は言った。「目が覚めると思うので」


「朝の光が好きですか」


「好きというより」葵は少し考えた。「朝の光は、嘘をつかない気がするので」


「嘘をつかない」


「夕方の光は、実際より綺麗に見せるじゃないですか。夕日が当たると、なんでも橙色に染まって、綺麗に見える。でも朝の光は、もう少し正直で」


「そのままに見える」


「そうです」と葵は言った。「だから好きです」


 沙織は葵の言った「嘘をつかない」という言葉を、少し頭の中で転がした。


 朝の光は嘘をつかない。


 そういう感覚を持って、毎朝五時前に起きて、カメラを持って出ていくのか。この人は。


 葵が縁側から立ち上がった。


「眠くなってきました」と言った。「今日もありがとうございます」


「おやすみなさい」


「おやすみなさい、沙織さん」


 葵が廊下の方へ歩いていった。


 足音が遠くなった。部屋のドアが閉まる音がした。


 沙織は縁側に座ったまま、しばらく海を見ていた。


 月が少し傾いていた。月光が水面に映る角度が、さっきと変わっていた。


 名前を呼ばれた、ということを、まだ体のどこかに感じていた。


 沙織さん、と葵は言った。


 自然な呼び方だった。


 それが少し、体の中に残っていた。




 夜の十一時、沙織は自分の部屋に戻った。


 電気を消して、布団に入った。


 今夜は月が明るいから、カーテンの隙間から光が入ってきた。部屋の中が薄く白かった。


 壁の向こうで、葵が動いている気配がした。


 布団に入ったのか、それとも写真を見ているのか。何かが少し動く気配がして、それからまた静かになった。


 沙織は目を閉じた。


 葵の声を思い出していた。


「朝の光は、嘘をつかない気がするので」


 その言葉の感触が、耳の中に残っていた。声の低さとか、言葉の選び方とか、言いながら少し考えていた間とか。


 どうして、こんなに葵のことが頭に残るのだろう。


 今まで、民宿に泊まった客のことをここまで意識したことはなかった。好感を持った客はいる。話の面白い客もいた。でも、部屋に戻ってから、その客の声や言葉を繰り返し思い出したことは、なかった。


 葵の何かが、違うのか。


 違う、というのがどういう意味なのか、沙織には言葉にならなかった。


 ただ、違う気がした。


 壁の向こうで、また少し気配がした。


 葵が寝返りをうったのかもしれない。布団の中で動いた音がして、それからまた静かになった。


 沙織は目を閉じたまま、その静かさを感じていた。


 壁一枚の向こうに、葵がいる。


 眠っているのか、まだ目を開けているのか。月の光の中で天井を見ているのか、目を閉じているのか。


 わからない。


 でも、そこにいる。


 その気配が、薄い壁を通り抜けて、沙織の部屋に入ってきていた。


 それが、どういうことなのかを、沙織はまだ考えなかった。


 考えようとすると、何かが少し怖い気がした。


 怖い、というのが正確かどうかわからなかった。


 ただ、今夜はまだ、考えなくていい気がした。


 波の音がしていた。


 月の光が部屋に入ってきていた。


 壁の向こうに、葵がいた。


 沙織はそれを感じながら、目を閉じたまま、しばらくいた。


 眠りが来るのに、少し時間がかかった。


 いつもより、ずっと時間がかかった。


 その理由を、沙織は考えなかった。


 ただ、目を閉じて、波の音を聞いていた。


 壁の向こうは、静かだった。


 誰かがいる静けさが、そこにあった。


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