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凪の手前  作者: スラビレ
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1話



 七月の島は、光から逃げ場がない。


 朝の六時にはもう日が高くて、どこへ行っても影が薄い。石畳の道も、白い壁の家々も、港の桟橋も、全部が光を受け止めて、それをそのまま跳ね返してくる。だから島の夏というのは、上からも下からも光に挟まれる感じがする。空から降ってくる光と、地面から反射してくる光と。その間に人間が立っている。


 宮本沙織はフェリーの着く時間に合わせて港へ来た。


 自転車を桟橋の手前に停めて、日よけのない桟橋に立った。帽子を持ってくるのを忘れたから、頭の上に直接、夏の光が当たっている。それが少し不快だったが、取りに帰る気にもなれなかった。


 フェリーはまだ見えない。


 今日の便は十時着だ。時計を見ると九時五十分だった。あと十分ある。


 港には他に人が二、三人いた。荷物を受け取りに来た老人と、観光客らしい家族連れ。家族連れの子供が桟橋の端まで走っていって、親に怒られていた。子供は泣かなかった。怒られても平気な顔をしていた。


 沖の方を見た。


 水平線のあたりに、白いものが見えた。フェリーだ。


 沙織はそれを目で確認してから、視線を足元に落とした。桟橋の木が、夏の日差しで乾ききっている。隙間から海が見えた。海の色は深い緑で、光が当たっている部分だけが白く光っている。


 フェリーのエンジン音が聞こえてきた。


 沙織は顔を上げた。


 白い船体が近づいてくる。思ったより大きく見えた。いつも同じフェリーのはずなのに、今日は少し大きく見えた。光のせいかもしれない。


 船が桟橋に着いた。係員がロープをかけた。タラップが降りてきた。


 乗客が出てきた。


 最初に出てきたのは、地元の漁師の妻だった。那覇で買い物をしてきたらしく、大きな荷物を持っていた。次に出てきたのは、中年の男が二人。観光客だろうか、リュックを背負っていた。それから子連れの家族。それから、一人の女が出てきた。


 沙織は、その女を見た瞬間に、なんとなくわかった。


 篠原葵、というのが、電話で予約を入れてきた客の名前だった。長期滞在、一ヶ月。夏の間ずっといたい、と言っていた。仕事の都合で前後するかもしれないが、基本的には八月いっぱいはいる予定、とも言っていた。写真を撮りに来たのだと言っていた。


 その女は、キャリーケースを一つと、カメラバッグを肩にかけていた。白いリネンのシャツを着ていて、パンツも薄い色だった。日焼けしていない肌が、夏の島の光の中で少し浮いていた。


 東京から来た、ということが、見ればわかった。


 別に東京の人間を見分けられる特別な能力があるわけじゃない。ただ、島に来る人間の中に、ある種の疲れ方をしている人間がいる。観光で来た人間の疲れじゃなくて、何かから逃げてきた人間の疲れ。体の動かし方に、それが出る。


 その女の歩き方は、少し慎重だった。桟橋の木の継ぎ目を踏まないように気をつけながら歩いていた。転ぶのを恐れているような、あるいは何かを壊さないようにしているような、そういう歩き方だった。


 沙織は一歩前に出た。


「篠原さんですか」と沙織は言った。


 女が顔を上げた。


 目が合った。


 女の目は、濃い茶色だった。日差しの中でも、その色がはっきりしていた。


「そうです」と女は言った。「篠原葵です」


「潮屋の宮本です。お迎えに来ました」


「ありがとうございます」


 声は思ったより低かった。疲れているからか、もともとそういう声なのか、この段階では判断がつかなかった。


 沙織はキャリーケースを受け取ろうとした。葵は少し迷ってから、渡した。


「暑いですね」と葵は言った。


「七月はこんな感じです」と沙織は言った。「慣れるまで少し時間がかかるかもしれないです」


「慣れますか」


「人によります」


 それだけ言って、沙織は自転車の方へ歩き始めた。葵がついてくる気配があった。


 民宿「潮屋」は、港から歩いて八分ほどのところにある。


 島の中心部からは少し外れた場所で、目の前が海だ。海といっても、港の賑やかな方ではなく、北側の静かな入り江に面している。夏の観光シーズンには海水浴客が来るが、南の浜ほど人気がないので、そこまで混雑しない。


 沙織は自転車を押しながら、葵と並んで歩いた。


 島の道は狭い。石畳の道が続いていて、車は入れない場所も多い。観光客はそれを「風情がある」と言う。島で生まれ育った沙織には、風情があるのかどうかよくわからない。ただ、狭い道を歩く時に自然と人と近くなる、ということは知っている。


 葵は黙って歩いていた。


 沙織も特に話しかけなかった。


 観光客の中には、ガイドのように話しかけることを期待している人もいる。でも葵は、沈黙を埋めようとしていなかった。それが沙織には少し楽だった。


 途中、猫が道を横切った。


 葵が「あ」と言った。


 声に出たのは、猫を見た瞬間の反射的なものらしかった。猫は沙織たちを一瞥してから、石垣の向こうに消えた。


「猫、多いですか」と葵は言った。


「多いです。島猫って言って、人に慣れているやつと慣れていないやつがいます」


「さっきのは」


「慣れていない方です。すぐ逃げたので」


 葵は石垣の向こうを少し見てから、また歩き始めた。


 石垣を抜けると、海が見えた。


 北側の入り江だ。この角度からは海全体が見渡せる。今日は風がほとんどない。水面が、光を受けてほとんど動いていない。


 葵が立ち止まった。


 海を見ていた。


 沙織も自転車を押しながら少し止まった。


 葵の横顔を見た。


 目を細めて、光の中の海を見ていた。カメラバッグを持ち直した。でも、カメラを出すことはしなかった。ただ、見ていた。


「凪いでますね」と葵は言った。


「今日は朝から風がないので」


「きれいだ」


 独り言みたいに言った。沙織に向けた言葉ではなかった。


 沙織は返事をしなかった。


 二人でしばらく、海を見ていた。


 波音がした。凪いでいても、音はある。静かな、一定のリズムの音だった。





 潮屋に着いた。


 古い木造の建物で、外観は少し傷んでいる。沙織の父が毎年少しずつ手を入れているが、追いつかない部分もある。玄関の引き戸は少し重く、開けるのにコツがいる。


「少し重いです」と沙織は言って、引き戸を開けて見せた。「ここを持って、こうやって引くと開きます」


「わかりました」と葵は言った。


 中に入ると、独特の匂いがした。古い木の匂いと、海の匂いが混ざったような。沙織はこの匂いに慣れすぎていて、普段は意識しない。でも、葵が入ってきた瞬間、少し鼻を動かしたのを見て、沙織は改めてこの家の匂いを意識した。


「いい匂い」と葵は言った。


「そうですか」


「木の匂い」


「古い家なので」と沙織は言った。


 沙織の母が奥から出てきた。


「いらっしゃいませ、篠原さん。遠いところをわざわざ」


「お世話になります」と葵は言った。


 母は葵を見て、少し何かを考えた顔をした。何を考えたか、沙織にはわからなかった。母はそういう顔をすることがある。人を見る時に、何かを計算しているような顔。でも何を計算しているかは、聞いたことがない。


「荷物、部屋まで運びますね」と沙織は言った。


「ありがとうございます」


 階段を上がった。廊下を歩いた。廊下の床が鳴った。


 二階の一番奥の部屋が、葵の部屋だ。六畳の和室で、押し入れと、窓がある。窓から海が見える。


「ここです」と沙織は言って、ふすまを開けた。


 葵が中に入った。部屋を見回した。窓の方へ歩いた。窓を開けた。


 海が見えた。入り江の、凪いだ海が。


 葵は少し黙っていた。


「海が見えるんですね」と言った。


「この部屋だけ、海側なので」


「良かった」


 その言い方が、少し安堵しているみたいだった。何かを確認できた、という感じの「良かった」だった。


 沙織はキャリーケースを部屋の隅に置いた。


「食事は朝と夜です。朝は七時、夜は六時半。何か苦手なものはありますか」


「特にないです」


「アレルギーは」


「ないです」


「じゃあ今夜の夕食は六時半に一階の食堂で。昼は基本的に各自でお願いしています。島の食堂はいくつかあるので、地図をお渡しします」


「はい」


「他に何かあれば」


「大丈夫です」と葵は言った。「ありがとうございます」


 沙織は一礼して、部屋を出た。


 廊下を歩きながら、部屋の中で葵がまた窓を見ているような気がした。


 振り返らなかった。


 昼前、沙織は台所で夕食の仕込みをしていた。


 今夜のメニューは島魚の刺身と、イラブー汁と、ゴーヤチャンプルーと、ご飯だ。イラブー汁は朝から煮込んでいるから、匂いが台所に充満していた。海蛇の出汁の匂いは独特で、慣れていない人間には強すぎることもある。葵は大丈夫だろうか、と沙織は思ってから、大丈夫かどうか聞いていなかったことに気づいた。


 まあ、食べられなければ残せばいい。


 ゴーヤを切りながら、沙織は窓の外を見た。


 中庭が見えた。中庭の向こうに、葵の部屋がある。二階の窓が見える。


 窓が開いていた。


 カーテンが少し揺れていた。風が出てきたのかもしれない。


 沙織はゴーヤに視線を戻した。


 ゴーヤの断面には、白いわたが詰まっている。それをスプーンでかき出す。この作業が少し好きだ。単純な作業で、頭を使わなくていいから。


 廊下の方で音がした。


 葵が出てきた気配がした。


 玄関の引き戸を開ける音がした。あのコツの必要な引き戸を、葵は開けられたらしい。


 外へ出て行く足音がした。


 カメラバッグを持っているはずだ。写真を撮りに行ったのだろう。


 沙織はゴーヤを切り続けた。





 夕方、葵は日焼けして帰ってきた。


 正確には、日焼けというより、赤くなっている、という感じだった。首の後ろと、腕の外側が、入島した時より明らかに赤くなっていた。日焼け止めを塗っていなかったのかもしれない。


「日焼け止め、持ってきましたか」と沙織は聞いた。


「あ」と葵は言った。「持ってきたんですけど、塗るのを忘れて」


「七月の島の日差しは強いので、半日でそうなります」


「痛いですね、これ」葵は自分の腕を見た。


「冷やした方がいいです。冷やしてから、アロエがあれば」


「アロエ、あるんですか」


「庭に生えているので」


 沙織は庭に出て、アロエの葉を一枚折った。折ると、とろりとした透明な液体が出てきた。それを葵の腕に塗ってやった。


 葵の腕に触れた。


 赤くなっている肌は、触れると少し熱かった。日差しが体に入り込んでいる感じがした。


「冷たい」と葵は言った。


 アロエの液体が冷たいのか、沙織の手が冷たいのか、どちらの意味かはわからなかった。


 沙織は首の後ろにも塗った。葵の髪を少し脇にどけた。髪は汗で少し湿っていた。


「ありがとうございます」と葵は言った。


「明日からは塗ってください」


「はい」


 沙織は手を引いた。


 葵は少し俯いていた。首の後ろを自分で触ってみた。


「どこへ行きましたか」と沙織は言った。


「島を一周しようとしたんですけど」葵は顔を上げた。「途中で暑くて断念して」


「一周は五キロくらいあります。この時間帯に歩くのは」


「難しいですね」葵は少し笑った。「写真は撮れたんですけど」


「どんなものを撮るんですか」


「何でも」と葵は言った。「目に入ったものを」


 目に入ったものを。


 沙織はその言い方を、少し頭の中に置いた。何かを探して撮るのではなく、目に入ったものを撮る。それはどういう感覚なのだろう。


「見せてもらえますか、いつか」と沙織は言った。


「もちろん」と葵は言った。「ただ、あまり上手じゃないので」


「上手いかどうかより、どんなものを撮るのか気になる」


 葵はまた少し笑った。今度は、さっきの笑い方より少し、力が抜けていた。


 夕食の時間になった。


 一階の食堂には、葵の他に客が一人いた。出張で島に来ているらしい中年の男で、会話はほとんどしなかった。


 沙織は食事を運んで、自分は台所で食べるつもりだったが、母が「葵さんの相手をしてあげなさい」と言うので、食堂で一緒に食べることにした。


 葵はイラブー汁を見て、少し顔に出た。


「これは」と葵は言った。


「イラブー汁です。海蛇の出汁で作った汁物で、島の伝統料理なんですが、匂いが独特なので苦手な方もいます」


「食べてみます」と葵は言った。


 一口飲んだ。しばらく何かを確認するような顔をしていた。


「美味しい」と言った。「最初の匂いと全然違う味」


「そうです」と沙織は言った。「匂いが強いので諦める人も多いんですが、飲んでみると意外とすっきりしています」


「なんか、体の中に入ってくる感じがします」


「滋養があるといわれています」


 葵は汁をもう一口飲んだ。


 二人でしばらく、黙って食べた。


 外から、波の音がした。窓を開けていたから、夜の海の音が入ってきた。昼と夜で、波の音は少し違う。昼はもっと乾いた音がするが、夜は少し湿っている。気のせいかもしれない。


「島は、夜も暑いんですね」と葵は言った。


「七月は特に」


「東京の夜の暑さと違います。東京は熱が地面から出てくる感じがするんですけど、ここは」


「海から来る感じ」


「そうです」と葵は言った。「そう、それです」


 沙織は、葵が的確に言葉を見つけた時に少し顔に出ることに気づいた。表情が動く、という程ではないが、目に何か入るような感じがある。言葉が合った、という感触に、素直に反応するらしかった。


「長いこと島にいたんですか」と葵は言った。


「生まれた時から」


「ずっと島の外には出なかったんですか」


「高校は島にない。本島の高校に出て、大学も那覇に行ったんですが」沙織は少し間を置いた。「戻ってきました」


「なんで」


 単刀直入な質問だった。


 沙織は少し考えた。


「親の手伝いが必要だったので」と言った。


 それは嘘ではない。でも全部でもない。


 葵はそれ以上聞かなかった。


 沙織は葵が聞かなかったことに、少し安心した。


 夕食が終わって、沙織は食器を片付けた。


 葵は「手伝いましょうか」と言った。


「いいです、慣れているので」と沙織は言った。


「そうですか」


 葵は食堂の窓の近くに立って、外を見ていた。


 夜の入り江は、昼間と全然違う顔をしていた。光がないから、海がどこにあるかよりも、音でわかる。波の音と、たまに吹く風の音。それだけが暗闇の中にある。


「星が見えますね」と葵は言った。


 見上げると、確かに星が出ていた。島は本土より明かりが少ないから、星が多く見える。沙織はこれも見慣れすぎていて、普段は意識しない。


「晴れているとよく見えます」と沙織は言った。


「写真に撮りたいな」


「三脚があれば夜景も撮れます」


「持ってきてます」と葵は言った。「明日、試してみます」


 葵は少しの間、星を見ていた。


 沙織は食器を洗いながら、時々葵の方を見た。


 葵は窓枠に手をついて、暗い外を見ていた。その後ろ姿が、島に来た時の、タラップを慎重に降りてくる姿と重なった気がした。慎重な歩き方の女が、今は少し力を抜いて窓枠に寄りかかっている。


 島が、少し受け入れてあげているのかもしれない。


 そんなことを沙織は思ったが、声には出さなかった。


 夜の十時過ぎ、沙織は自分の部屋で横になっていた。


 電気を消している。天井が暗い。


 窓を開けていると、夜の海の音が入ってくる。波の音と、虫の声と、たまに遠くで船の音がする。この音の中で育ったから、これがないと眠れない体になっている。


 天井を見ていた。


 葵の部屋は隣だ。


 壁一枚挟んだ向こうに、葵がいる。


 音はしない。静かに寝ているのかもしれない。あるいは、まだ起きているのかもしれない。窓を開けて、暗い海を見ているのかもしれない。


 沙織は目を閉じた。


 今日の葵の顔を、順番に思い返した。


 フェリーから降りてきた時の顔。目が合った瞬間の顔。海を見た時の顔。アロエを塗った時に俯いていた顔。


 別に、意図して思い返しているわけじゃなかった。


 ただ、頭の中に残っていた。


 それが沙織には少し、意外だった。


 人の顔を意識して覚えていることが、そんなに多くないから。観光客は毎年大勢来るが、帰ればほとんど忘れる。顔が頭に残るのは、何か印象的なことがあった時だけだ。


 葵に何か印象的なことがあったかといえば、特別何かがあったわけではない。


 フェリーから降りてきた。歩いた。部屋に入った。海を見た。日焼けした。夕食を食べた。


 それだけだ。


 なのに、顔が頭に残っている。


 その理由が、沙織にはよくわからなかった。


 わからないまま、目を閉じていた。


 波の音がしていた。


 一定のリズムで、続いていた。


 隣の部屋は静かだった。


 静かで、でも誰かがいる、という気配があった。


 沙織はそれをなんとなく感じながら、そのまま眠りに落ちた。


 夏の夜は長い。


 でも朝は、早い。


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