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返らない地図

午後の分かれ道には、地図にない水音がした。


北枝は浅い谷へ下り、南道は山腹を長く回っている。古地図では北が荷車道だった。二十八年前、マレクも葡萄酒を積んだ六台で通ったことがある。


谷底の黒い礫の下から、細い流れの音がした。


「南へ行く」


イェルは迷わなかった。


「北は水が戻ったのか」


「白い地面が、黒い石を持ち上げている」


「見たのはいつだ」


「戦の二年目」


九年前だった。


北枝の表面には黒石が積もり、古い轍も残っている。傾斜は緩い。南道には車輪跡がなく、草の深い斜面を三台引き上げなければならない。


棚の食料は、イェルが出た朝から減り続けている。半日遅れれば、百四十八人の水と配食がそのぶん減る。娘の顔を早く見たい気持ちも、その計算の隣から動かなかった。


マレクは谷の入口へ降りた。


「杖だけにしてください」


イェルが止める。


「十歩、地面を見る」


「見えている黒石が危ないと言っている」


「荷車道の路盤が残っていれば、表面が変わっても軸重には耐える」


「その路盤の下を、白い水が流れている」


マレクは長縄を腰へ巻き、端をトーマへ渡した。杖で礫を退ける。五歩目までは、下も黒かった。八歩目で水音が近づいたが、脈針は低いままだ。


振り返ると、イェルは南を向いていた。


契約では、道を決めるのは彼だ。


境界でも、現地の黒岩を優先した。それで三台は無傷だった。今度も従えば、日没前の休み場には届かない。夜を斜面で越せば、馬を休ませる黒地がない。


マレクは縄を外した。


「黒縄車だけ、入口まで入れる。車輪の沈みを見て戻す」


「私は案内しない」


「ここで待て」


イェルの顔が変わった。


それでもマレクは、トーマに黒縄車を寄せるよう命じた。


若い馬の蹄を布で包み、轡の金具を外す。荷の中で動く物を締め直す。黒縄車には空の大樽一本、天幕、工具、それに分散して積んだ豆箱が一つある。


「豆を下ろします」


トーマが言った。


「入口だけだ。積んだ状態で試さなければ、帰りの重さが分からない」


車輪が最初の轍へ入る。


一回転。二回転。


黒石は沈まなかった。


イェルの腰で、脈針が細かく鳴った。


マレクの舌へ鉄の味が触れる。車輪の下では、黒い礫の隙間から白い粉が噴いた。


そこまでが一呼吸だった。


三回転目に、谷の奥で捨てられた鉄輪が鳴った。


イェルが走った。


「戻せ!」


トーマが手綱を引くより早く、前輪の下から黒い礫が噴いた。白い泥が円く口を開き、車輪を半分まで呑む。


若い馬が横へ跳ねた。


マレクは車止めを蹴り込み、轅へ肩を入れた。膝の内側へ横木が当たり、脚が折れたように力が抜ける。


黒縄車が傾いた。


荷台の縄が一本切れ、豆箱が側板を越えた。


トーマが蓋を掴む。蓋だけが外れ、箱は白い泥へ落ちた。乾いた豆が黒石へ散り、地面の明滅に合わせて少しずつ沈んでいく。


拾いに出られる距離だった。


だからこそ、誰も出なかった。


イェルは馬の頭から外套を被せ、耳を塞いだ。セナがマレクの腰縄を引く。トーマは轅の下へ木槌を差し込み、車輪を一寸ずつ持ち上げた。


四人が黒岩へ戻った直後、谷底の流れが白く光った。


豆箱の残りが、音もなく消えた。


セナがマレクを座らせ、膝を両手で挟んだ。


「曲げて。そこまで。足先は動く?」


「動く」


「立たないで」


「車輪を」


「次に聞く。腫れた膝で、誰を担ぐつもり?」


質問が増えている。マレクは座ったまま、トーマが車軸へ入った白砂を布で掻き出すのを見た。


車は戻った。馬も立っている。


封をした豆四箱のうち、一箱がなくなった。四十人の一食分だ。


残る豆は三箱。イェルが持ってきた棚の在庫表と合わせて帰路の配食を引き直すと、緊急食は十五食しか残らない。


マレクは帳面を開いた。


失った時刻と場所、量を書く。判断者の欄で、炭筆が止まった。


「俺だ」


誰に言うでもなく、口にした。


トーマが顔を上げる。


「紐を締めたのは僕です」


「北へ入れたのは俺だ。荷を下ろすなと言ったのも」


マレクは帳面へ自分の名を書いた。


最後に、緊急食十五、と書き足した。その脇にも自分の名を置いた。


イェルは谷へ背を向けたまま、南道を見ている。


「すまなかった」


返事はない。


「南を行く。車が通る線を見てくれ」


「契約したとき、道は誰が決めると言いましたか」


「あなたが」


「では、なぜ聞いたんです」


マレクは答えられなかった。


イェルが「たぶん」と言うたび、その空白を自分の経験で埋めていた。道案内を雇ったつもりで、最後には自分が決めると思っていた。


「南へ連れていく」


イェルは言った。


「今日は、私の後ろから出ないでください」


マレクは古地図を差し出した。


イェルは受け取り、北枝の線へ一本だけ横線を引いた。破りも、塗り潰しもしない。


トーマとセナに肩を借り、マレクは立った。膝は伸びたが、荷重をかけると内側が熱い。御者台へ上がらず、赤縄車の荷台へ座る。


三台は南の草へ入った。


日没前の休み場には届かなかった。黒岩の張り出しを見つけ、馬を一頭ずつ休ませる。四人は火を使わず、接近路用の硬いパンを水でふやかして食べた。封をした麦と豆には触れない。


夜番の順を決めるとき、マレクは自分を二番へ入れた。


イェルが消した。


「膝を冷やしてください。あなたが起きていても、道は増えない」


マレクは従った。


古地図は、夜のあいだイェルの外套の内側にあった。


朝になっても、彼は返さなかった。


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