次の一歩
最初に鳴ったのは、傷んだ黒縄車の右車輪だった。
輪金がもう一度、低く震える。
白縄の結び目は動いていない。楔も抜けていない。それでも鉄の縁から、青い火が糸のように立った。
「患者から!」
トーマが叫んだ。
クロの手綱へ走りかけた御者が止まる。
黒縄車の左右へ、十人が入った。朝に合わせた二人組だ。荷台へ上がったセナが、五枚の布帯を梁から外していく。
「ナシュ、降ろす。右の者は肩側。左は腰側」
青い糸が輪金を半周した。
ナシュは返事をした。
十人が一度に持ち上げない。最初の一組が布帯を張り、患者を荷台の高さで止める。次の組は、前の者が黒岩へ乗るまで待つ。
マレクは車体を押さえた。
揺らすな。
急がせるな。
どちらも口にする前に、トーマの手が同じことをしていた。
一人目が黒岩へ降りる。
二人目。
三人目は、布帯が右脇へ寄ると、自分から「止めて」と言った。十人の足が止まる。セナが帯を指二本ぶん下げる。
青火は、もう車軸へ届いていた。
「もう一度」
患者が言う。
二人が動く。
五人目を降ろし終えた時、黒縄車の荷台の中央には、空樽と重い鉄工具が残った。
セナは五人の顔を見た。
「返事」
ナシュから順に声が返る。
五枚の布帯を十人が持つ。赤縄車では五人が荷台を叩いた。六枚の担架、二つの短橇に四人、六つの背負い枠にも名札がある。
二十六人。
寝たまま運ばれる者は、一人も白地へ置かれていない。
「次、馬具」
トーマがクロの轅へ潜った。
白地へ入る前から、轡の金具は外してある。布で包んだ蹄にも鉄はない。トーマは轅と胸革をつなぐ残りの留め具を抜こうとした。
青火が車軸から工具箱へ跳んだ。
抜く時間はない。
小刀で革を切る。
クロが前へ出た。御者の若者が鼻先へ空の手を置き、黒岩の奥まで歩かせる。
「荷駄へ」
トーマは荷台脇へ退けていた、バロへ移し切れなかった軽い包みを指した。
クロの背へ水は載せない。薬布と空になった食袋を左右へ分ける。終盤にユラの負担を替えるため、力を残す。
白地の青火が太くなった。
黒縄車の鉄梃、鉄台、大槌へ枝分かれする。空樽の箍も青く光る。
ヴェスが腰の石切り鉄を抜いた。
鞘の先に、同じ火が生まれる。
その道具を、彼は第六棚から一度も手放さなかった。持ち手の革は手の形に黒ずみ、刃の根には、小さな印が三つある。
ヴェスは印を親指でなぞった。
「弟子へ返すんじゃなかったのか」
マレクが聞く。
「道があれば、別のを打てる」
石切り鉄を、黒縄車の工具箱へ置く。
青い枝が、ヴェスの手から離れた。
前方の白地が持ち上がった。
土の下を、大きなものが息をするように膨らむ。黒岩と黒岩の間へ、白い割れ目が三本走った。
ヴェスが足元へ屈む。
一つ目へ石を落とす。沈む。
二つ目は、石が横へ滑る。
三つ目では、落とした石が青く焼けた。
「車を中央へ置け」
ドムが言った。
「人から離せる白い窪地は」
ヴェスが左を指す。
黒縄車の先、道がゆるく下っている。三十歩先に浅い窪地があり、その周りには人を待たせる黒岩がない。
人を置けない場所なら、車だけを置ける。
マレクは黒縄車の後ろへ回った。
白縄を車枠へ二重に通す。トーマが反対側へもう一本。二人が後輪の木止めを外しても、縄で車体を支えられる。
「車を返す帳面に、何と書く」
トーマの声は震えていなかった。
「大反潮へ放棄。患者五人を降ろし、馬一頭を轅から外した。借主が弁償する」
「俺が整備したことも」
「書く」
「最後まで走った」
「それも書く」
白縄は、何年もの雨を吸って灰色に硬かった。
マレクは三台を借りた朝、空の荷台へ毛布を敷いた。サラが一人で帰るなら、一番傷みの少ない赤へ乗せるつもりだった。青には仲間、黒には荷。
三台とも、人を一人ずつ迎えるには大きすぎた。
百四十八人を迎えるには足りなかった。
青縄車の車輪と車軸は棚へ残した。
黒縄車は、今から戻らない場所へ置く。
「外す」
トーマが木止めを抜く。
車体が縄へ掛かった。
右車輪の青火が、濡れた布ほどの太さになる。空樽の箍へ回り、工具箱の蓋を青く縁取った。
「放す」
二本の縄を、同時に緩める。
黒縄車はゆっくり動いた。
誰も乗っていない荷台が一度だけ軋み、白い坂を下る。窪地へ右輪から落ち、車体が傾いた。
青火が、道の鉄から離れた。
黒縄車へ集まる。
空樽の箍、工具、車軸、輪金。ヴェスの石切り鉄が最後に青くなった。
主波が来た。
白地が立ち上がり、無人の車を腰の高さまで隠した。
「第一列、左の黒へ!」
ドムが人間兵の名を呼びかけ、途中で切った。
前方の細い黒岩には、一度に四人しか置けない。
ドムの部下二人が、すでに入口へいる。片方は左腕を吊り、もう一人は腿に帯を巻いていた。
後ろから、フィアの咳が聞こえる。
熱が戻り、母親の肩へ額を押しつけていた。
「フィア。母親。前へ」
ドムが呼んだ。
自分の兵へ下がれとは言わない。
「ガル、二人を通せ。ネムは後ろの黒へ」
名を呼ばれた兵が、フィアの母へ手を出した。母親はフィアを抱え上げず、娘の左へ肩を入れる。
ヴェスが示した一歩目へ、四人が入った。
白い粉塵が、道を消した。
マレクには、三本とも同じに見えた。
右は黒い石が多い。中央は荷重を分けやすい。左なら赤縄車を回せる幅がある。
どれも、父が答えを出せる形をしていた。
マレクは口を閉じた。
「ヴェス」
足元の石工を呼ぶ。
ヴェスは耳を地面へつけている。
「左の最初。次は見えない」
「イェル」
粉塵の向こうから、杖で石を打つ音が二つ来た。
「一つ目の黒まで。そこで待って」
サラの姿は見えない。
声だけが来る。
「父さん、動かないで」
マレクの右膝の下で、黒岩が割れた。
身体が白い側へ傾く。片手をついて止めると、膝の古傷が熱を持った。
粉塵から縄が飛んできた。
輪が三つ。
中央に、細い横結び。
幼いサラへ教えた荷結びだった。サラはそれを、手袋でも読める形へ変えた。
「腰へ通して」
マレクは自分で縄を取った。
輪を広げ、腰へ回す。結び目を腹へ置こうとすると、向こうから声が来る。
「右じゃない。左の腰骨」
直す。
「締める?」
「まだ」
白い波が足元を通った。縄が勝手に張り、左の腰骨で止まる。
「今」
締める。
「次は」
「左足。ヴェスの踵の跡」
粉塵の下に、黒い窪みが一つ見えた。
左足を置く。
「待って」
右足を出さない。
赤縄車の側で、ユラが鼻を鳴らした。クロが空荷の背で並び、二頭の引き綱が一時だけ結ばれる。バロは荷駄のまま、後ろの黒岩へ下げられていた。
三頭いる。
「右足、縄の内側」
サラの声。
マレクは一歩ずつ進んだ。
娘の姿が見えたのは、三つ目の黒岩へ乗ったあとだった。
サラは腰縄の反対を左腕へ巻かず、黒岩の杭へ通していた。右腕は胸に固定されたまま。顔には白い粉がつき、口の端だけが赤い。
「血か」
「鉄味で噛んだ。息はある」
セナがすぐ横で頷く。
次の者が来る。
マレクは縄を外し、結びをほどかなかった。輪の大きさを残して後ろへ渡す。
主波は一度では終わらなかった。
白地が沈むたび、ドムが名を呼ぶ。ヴェスは一歩だけ示す。イェルは向こう側から返事を待つ。サラは脈針が静まる短い間だけを告げた。
十人の移乗班は、五枚の布帯を二人ずつ持ち続けた。担架六、短橇二、背負い枠六、赤縄車一。手を替える時は、患者の返事が先に来た。
クロは二度、ユラの横へ入った。坂を上げたあと、また荷駄へ戻る。バロを急かす者はいなかった。
午前十一時二十分、最後尾のドムが白地から黒岩へ上がった。避難者百四十六と救援四人、合わせて百五十人の名に返事がある。運ばれる二十六人、ユラ、クロ、バロも揃い、セナは新しい赤札を一枚も出さなかった。
白い窪地には黒縄車の上半分だけが残っている。青火は車の鉄から外へ出ず、やがて白い粉の下へ沈んだ。マレクは見送らなかった。
黒縄樽を空にしたあとの区間配水は、黒瀬井まで計百四十リットル。オナの札には、すでに使った分と、残る休止で渡す分が分けて刻まれていた。列は休息を分けて進んだ。
午後二時、黒瀬井へ着いた時、残水は二百十六リットルだった。
ヴェスは石切り鉄の代わりに、黒い小石を紐へ結んで井戸へ下ろした。イェルが一度目の水を白皿へ受け、セナが皮膚へつける。二度目は煮沸し、オナが匂いを見る。三度目を三人が別々に確かめても、白砂と鉄味は出なかった。
「上澄みだけ。百八十で止める」
オナの指示で三交代し、井戸を底までさらわない。小容器まで空いているのは百四十リットルぶんだった。
「四十は、ここで配る。空樽は増えないよ」
最初の四十リットルを人の椀、馬の桶、薬湯へ回し、残る百四十を赤縄車の二樽と小容器へ足す。携行分は三百五十六リットルで満ちた。オナは元の二百十六に汲んだ百八十を足して三百九十六と記し、ここで使った四十を次区間の消費へ回した。
通常食の残り七十五は百五十人で半分ずつ食べ、灰封十五は開けない。
マレクは自分の半枚を噛んだ。口の中の粉が、水を欲しがる。飲む順はオナが決めている。
午後二時半、赤縄車が黒瀬井を出る。
マレクは先頭へ行かなかった。
サラの伴歩縄から一歩後ろへ立つ。返し尾根で増えた青火も、黒縄車を失ったことも、娘の右腕も、黒瀬井へ置いてはいけない。
「サラ」
娘が振り返る。
マレクは足元の二つの石を見た。
「次は、どこへ足を置く」




