帰れないのではない
イェルが鐘割れ棚を出る朝、サラは自分の椀を配水の列から抜いた。
それを見ていたオナが、空いた場所へ椀を戻した。
「隊長の分です」
「私はあとで」
「あとで飲む水は、別の泉から湧くんですか」
オナは返事を待たず、全員と同じ二杯を注いだ。鍋と椀の話をしているときの彼女には、勇者も隊長も通じない。
泉の流量はまだ足りていた。封をした貯水槽にも手をつけていない。先に尽きるのは食料だ。
イェルへ渡した帳面には、出発後も棚に残る百四十八人の名と怪我、食料の残りを記した。普段の量なら七日と四分の一。今朝から五分の四に落とせば、九日余り。熱のあるフィアと薬を飲む者には普段どおり配る。
「九日ある、と言うな」
西の塩道へ降りるイェルの背に、サラは言った。
「道が残っている日数は分からない。食料の数字と分けて伝えて」
イェルは振り返らなかった。
「分からないことを、分からないまま持っていく」
それだけ答えて、黒い岩の縁から姿を消した。
配水が半分まで進んだころ、列の後ろで木桶が鳴った。
人間兵のドムが、包帯を巻いた腿を引きずって前へ出る。その肩が、魔族の石工ヴェスにぶつかった。
「負傷兵の寝床を、どうして泉から遠ざける」
ヴェスは抱えた杭を地面へ置いた。
「白い筋が増えた。今夜、泉側の岩が割れる」
「お前が昨夜そう言って、何も起きなかった」
「だから今朝も言える」
二人の周りで、人間と魔族がそれぞれ半歩ずつ寄った。この先は、どちらが多く殺されたかを数える声になる。
サラは間へ入らず、寝床を留めていた二本の棒を抜いた。
「ドム。泉側に残すなら、夜中に二十六人を上へ運べますか」
「俺の隊でやる」
「歩けない人が、あなたの隊だけで十一人。ヴェス、上の棚は何人まで入る」
ヴェスはすぐに答えず、黒い岩を靴の踵で二度叩いた。
「詰めれば全員。だが炊事の煙が抜けない」
「寝床は上へ移す。火は今の場所へ残す。坂に手すりを二本。ドムの隊は、最初に魔族側の寝床を運んで。ヴェスの組は人間側から」
ドムが顔を上げた。
「信用しろと?」
「自分の仲間だけ運んで、相手を白い筋の横へ残す人がいるか見ていてください」
誰も納得した顔はしなかった。
それでもドムは天秤棒の片側を取り、ヴェスは反対へ回った。足の悪い者と腕を痛めた者なら、速さはほぼ同じになる。
サラは列を見直した。
水の椀を受け取る手が、昨日より何度も縁を掴み損ねる。夜番を二晩続けた六人を外し、代わりを選ぶ。その途中で、一人の名が出てこなかった。
目の前にいるのに。
サラは舌の先を噛み、名を呼ばずに肩へ触れた。触れられた男が、自分から言った。
「ナシュです」
「ナシュ。今夜は休んで」
笑ってみせたつもりだった。男は笑い返さなかった。
昼前、九歳のフィアが母親の寝床を抜け出した。
裸足のまま、白い筋を跨ごうとしている。風のない地面で石粉が指の高さまで浮き、踵の下を青い火花が走った。
「フィア、止まって。左足も動かさない」
少女は泣いたまま固まった。
サラは黒い岩を三歩で渡り、左腕を少女の背へ、焼けた右腕を膝の下へ入れた。
持ち上がらない。
虚無炉を壊したときに焼けた腕は、朝より指二本ぶんしか曲がらなくなっていた。
「私を見て」
声だけは変えず、もう一度力を入れる。
横から飛び込んだキリが、フィアの腰を抱えた。二人で黒い岩へ倒れ込む。少女は助かったが、キリは右肩を下にして打った。
「平気です」
立ち上がったキリは、合図板を背負おうとして一度落とした。
サラは拾おうとした。右の指が板の革紐を掴めない。キリはその手を見てから、左腕だけで板を背負った。
「平気です」
二度目は、サラへ言ったのではなかった。
フィアを母親へ渡し、サラは寝床を内側へ移すよう命じた。自分の腕については何も言わなかった。
四日後、白い筋は棚の東端まで届いた。
キリの肩は腫れ、腕を胸より上へ上げられなくなっていた。それでも本人は、東の見張りから脈針を抱えて走ってきた。
「道が浮いてます。昨日の曲がり角より手前です」
サラはヴェスと棚の端へ向かった。
湿った灰色の道には、白い石粉が貼りついていた。
ヴェスがキリから脈針を受け、道へ当てる。針先が細かく震えた。
次に、歯の奥へ鉄匙を噛んだような味が広がる。一呼吸遅れて、貼りついていた石粉が風もないのに浮いた。
道の中ほどで、落ちていた兜が鳴る。
高い音が三度続き、地面がゆっくり盛り上がった。次の瞬間、曲がり角から先が、泥を水へ落としたように沈んだ。土煙さえ上がらない。東へ通じていた最後の道が、幅十歩ぶん消えた。
サラは外套の上から右腕を押さえた。
虚無炉へ最後の反転術を撃ち込んだときも、同じ鉄の味がした。
撃つ直前、ひび割れた通信石の向こうで、老術師が怒鳴っていた。
――地脈が逆転したら、止める術はない。
炉から西へ伸びる光は、もう三つ目の町の地下へ入っていた。サラは五つ数える時間をもらい、二つで撃った。
ヴェスは脈針を耳元から下ろした。震える音を聞き終えても、長く黙っていた。
「炉の下の石と同じ響きだ」
サラは答えなかった。
「あんたの術が戻ってきているのか」
「まだ、みんなには言わないで」
「違うと言わないのか」
白い粉が、消えた道の上で上下していた。
「違うと確かめられていない」
ヴェスは脈針をサラへ返さなかった。
「なら俺も、あんたが安全だと言った道を、確かめずには歩かない」
棚へ戻ると、オナがキリの肩を冷やしていた。ドムと二人で上の寝床を留め終えたヴェスは、サラの見張り表から自分の名を消さなかった。
夜半、サラは交代場所に立っていた。
ヴェスが来ても、寝床へ戻るよう命じた。
「明日は道を見てもらう。今夜は私が立つ」
「その腕で、誰を引き上げる」
返事をしないまま、西端の道標灯を確かめる。一つ目は弱く明滅し、二つ目は塩道の方向を青く照らしていた。
最後の一つは消えている。
サラは火口箱を取り出した。
右手では、蓋を開けられなかった。




