遅い
「熱は上がってる。でも、返事はできる」
セナがいなくても、その違いだけはサラにも分かった。
二十一日、朝六時二十分。
ユノは腿の傷へ巻かれた布を、自分で少し持ち上げた。布の下は腫れ、昨夜にはなかった赤い筋が膝の方へ伸びている。息は速い。意識は澄んでいた。
「昨日のハルンは、西へ着いた?」
「まだ受領の返事は来ていません」
サラは先にそれを言った。
「救援隊とは、二つ黒岩で会えたはずです。でも、西詰所まで着いたかは確認できていない。あなたが出れば、同じ継ぎ場で共同巡回へ渡します。会えなければ戻る。途中でやめてもいい」
「ここに残ったら」
「薬も、傷を開く道具も足りない」
ユノは毛布の端を握った。隣に家族はいない。戦の間に同じ天幕だった者が二人、少し離れて立っている。
「あの二人は、ついて来なくていい?」
「担架を四人で運びます。あなたのために、別の人の行き先は決めません」
「なら、先に行く」
自分の名を言い、もう一度、西へ行く、と言った。
オナが小さな食事袋を担架の下へ結ぶ。ユノに割り当ててあった待機食で、共同鍋へは戻さない。水は二つ黒岩までの往復分を、担ぎ手の分と分けて持たせた。
名簿の棚在住欄は、百四十七から百四十六になった。消したのではない。ユノの木札を「西向け搬送中」の紐へ移す。
「隊長の札」
担架が出たあと、オナが配水札を差し出した。
「私は残るから、あとで」
「残る人が、飲む人」
札を腰紐へ結ばれる。サラは外そうとしたが、オナの指が先に結び目を二重にした。
*
九時四十分。
マレクたちは、二つ黒岩継ぎ場で七人と担架に会った。傷んだ車輪を暗い棚道へ入れず、昨夜は継ぎ場の西で止まっていた。夜明けの灯で「担架一、継ぎ場へ」と届き、出発を待った。
担いでいる四人はヴェス、ナド、ペル、セイ。担架の向こうに立つ三人は共同巡回の灰色外套を着ている。その一人が、胸元から白い受領札を出した。
ハルン。二十日十八時十分。灰口関西詰所。療護係ネラ。
「腹の縫い直しは?」
セナが尋ねる。
「到着時に始めた。意識あり。ネラ本人が受領した」
札には受け手の名だけでなく、ハルンが持っていた食事袋の残りと、熱の高さまで記されていた。アダルは西側へ残り、通行判断と搬送の経過を停戦会議へ報告している。
担架の上で、ユノが目を開けた。
セナは受領札を読んで聞かせ、それから西側の状況を告げる。
「この三人が、あなたをネラのところまで運ぶ。棚へ帰る四人とは、ここで別れる。行く?」
「行く」
「いま決め直してもいい」
「いま決めた。西へ」
共同巡回の三人が担架を受け取った。ユノの食事袋も、名札も、傷の記録も、一つずつ声にして渡す。
三人はハルンの受領札を運ぶため、夜通し東へ歩いてきた。共同休止所で交代睡眠を取ってから西へ折り返す、と先にユノへ説明した。
「休まず運べば、患者が四人になる」
セナが言うと、ユノは待つ時間も含めて頷いた。西詰所への到着は、早くても翌朝四時。三人は担架を西へ向け、ヴェスたちは空の担架を持って東へ戻った。
ユノの姿が岩陰へ消えるまで、マレクは見送った。娘のいる方角は、反対だった。
午後、最後の曲がりへ入った時、黒縄車の白い目印が動いた。
白地ではない。杖を突いても崩れず、木槌で叩けば乾いた音を返す黒岩だった。
それでも地の底で、石同士を擦るような震えが走る。
「止めて!」
頭上から、女の声が落ちた。
トーマが手綱を引くより早く、マレクは黒縄馬の綱を外した。馬を車の前から黒岩の高い側へ移す。赤と青の二頭も止め、三台の間を空けた。
白縄の結び目は、昨日付けた印から指一本ぶんずれている。輪金がまた開き、奥へ打った楔が半分浮いていた。
「地面は持つ。車輪だけ直して」
声の主は、曲がりの上に立っていた。
四年ぶりでも分かった。短く切った髪も、煤けた外套も、右腕を身体へ寄せる癖も知らない。それでも、サラだった。
マレクは顔を上げなかった。
「水樽を軸の真上へ。右後ろの工具を下ろす。縄は左から取る」
荷重と縄の角度だけを言う。膝を轅へ当てず、車体を支えようともしない。
トーマが輪金を締具で押さえた。ヴェスとナドが工具箱を下ろし、ペルとセイが車の左右へ控える。浮いた楔を抜き、木目の割れた側へ薄板を一枚噛ませ、新しい楔を打つ。
サラは右腕を動かさず、地面の震えを数えた。
「次、三つ数える間に小さいのが来る」
二つ目で、黒岩が低く鳴った。誰も車へ手を掛けなかった。
音がやんでから、トーマは白縄の印を元の位置へ結び直した。
「十歩ごとに見ます。棚までは行けます」
黒縄馬を最後につなぐ。三台は、人の歩みほどの速さで坂を上がった。
午後一時五十分。
鐘割れ棚の平地へ赤縄車が入り、青縄車が続き、傷んだ黒縄車も止まった。
マレクはそこで初めて、娘の正面に立った。
サラは抱きつかなかった。
「遅い」
「そうだ」
セナが二人の間へ入った。
「サラ。右腕を見せて。肋も」
「歩ける」
同時に、サラの目がマレクの右膝へ落ちた。
「父さん、その足――」
「歩ける」
二人とも、相手が言った言葉の続きを飲み込んだ。
セナはサラの外套を開き、腫れた右腕を吊った。胸へ布を回す間、サラは一度も痛いと言わない。代わりに三台を端から見て歩いた。
赤縄車の水樽。青縄車の干し麦と豆、足布、靴。黒縄車の天幕、工具、空けた荷台。
三台目の覆いを上げた時だけ、肩が少し下がった。
マレクは、その意味を尋ねなかった。
ヴェスが名簿を読み上げる。
棚に百四十六人。ハルンは西詰所でネラが受領。ユノは共同巡回三人と西へ搬送中。救援はマレク、イェル、セナ、トーマの四人。馬三頭、荷車三台。
数字の最後まで聞いてから、マレクは言った。
「母さんは西門にいる」
サラの口が、次の指示の形に開いた。
「元気?」
出てきたのは、それだけだった。




