白い泉
フィアへ渡す椀の底に、白砂が三粒沈んでいた。
オナは水を捨てなかった。椀へ蓋をし、配水の列から外す。
「同じ桶を飲んだ人は?」
汲み手が二人、手を上げた。どちらにも吐き気や痛みはない。フィアは母親の膝で浅く息をしながら、まだ水を口にしていなかった。
朝七時十分。
サラは残る桶を止め、ヴェスと泉へ下りた。前夜まで流れていた細い水音が、黒岩の曲がりを過ぎても聞こえない。
泉はなくなっていた。
水面のあった窪みを、濡れた白砂が満たしている。底から泡が一つ上がるたび、砂が柔らかく盛り上がった。
ヴェスが長い枝を入れた。水へ触れる前に、先端が白い粉に覆われる。
「飲むな」
誰へともなく言い、枝を岩の上へ置いた。
サラは脈針を泉の縁へ置いた。針先が一度、細く震える。
サラの舌に金属の味が戻った。
虚無炉を壊した時、歯の裏に残った味だった。吸われ続けた力を、空になった地脈へ反転して返した瞬間。炉の見張り役は、返した後の流れは止められないと叫んでいた。
一本だけでは、まだ大反潮の時刻を出せない。離れた三地点の間隔が要る。ここで原因を断定して経路を誤らせれば、逃げる列を白地へ向けることになる。
そう考える間にも、棚の人々は原因を知らずに水を待っている。
上棚へ戻ると、オナは封印貯水槽の蓋を開けていた。
「千百」
量水棒を底まで差し、濡れた高さを指で示す。
「人と馬と火で、出発まで使えるのは五百九十四。ここから下、五百六は触らせない」
棒へ二本の傷を入れた。上は待機中に使える限界。下へ残す分は、救援の容器が来たら路上用四百五十六と、最後尾の巡回用五十へ分ける。
「病人には追加を」
サラが言うと、オナは量水棒を立てたまま首を振った。
「追加は医療分から出す。皆の最低を削らない」
「歩ける人は、少し減らせます」
「減らすと言えば、先に自分の椀を隠す人が出る」
オナはサラの腰を見た。配水札はあるのに、椀がない。
「隊長から始めるから、やらない」
熱のあるフィアには医療分から三口ずつ飲ませた。一口目は唇からこぼれ、二口目で喉が動く。三口目を吐かなかったのを見てから、母親が自分の椀へ手を伸ばした。
食料庫では、ラカが最後の共同麦を五分の四ずつ袋へ分けている。待機分は二十二日の朝六時半に尽きる。封を切っていない乾パン三十六枚、干し麦八袋、豆三箱は路上用で、いま空腹の者にも開けない。
「西の灯!」
キリが上棚の端から呼んだ。
腫れた肩に合図板は掛けていない。隣の伝令が板を持ち、キリは光の長短だけを声にする。
西からの返答は、救援四人。停戦代表一人。東進中。
昨夜こちらが送った三つの条件も、そのまま返された。
上棚。水半減。東道なし。
サラは二度目まで聞き、三度目を省かせなかった。
返答灯が消れる前に、寝床から低い声がした。
「西へ先に出してくれ」
ハルンは腹の傷を両手で押さえていた。戦が終わる三日前に負った傷を、四日前に縫い直している。その場所が昨夜また開いた。布を替えても、熱と臭いが強くなっていた。
「二つ黒岩継ぎ場まで五キロあります」
サラは寝床の脇へ座った。
「担架で三時間半ほど。救援と会えなければ、棚へ戻ります。西の治療所まで誰が受けるかは、まだ分かりません」
「ここにいれば?」
「外科の手はありません。悪くなる可能性が高い」
「先へ行けば、他の人より水を使う」
「あなたの待機分を持ちます。路上用は開けません。担ぐ四人の水は、戻る分まで別にします」
ハルンは天幕の入口を見た。人間側の寝床と魔族側の寝床を分けていた紐は、上棚へ移ってから外されている。
「置いていかれたとは、書かないでくれ」
「自分で先行を選んだ、と記録します。継ぎ場で受け手を聞いて、もう一度断れます」
「それなら行く」
一緒に行く家族はいない。
八時、ヴェスとナド、ペル、セイが担架へ入った。四人とも棚へ戻る。ハルンの食事袋には本人名と、共同鍋へ戻さない印を付けた。
百四十八人の名簿は消さない。現在地の欄だけ、ハルンを西行きへ移した。
担架が坂を下りると、サラは泉の脈針を布へ包んだ。
三地点が揃うまで話さない。
上棚では、原因を知らない人々が、配水の順を待っていた。
配水へ戻ると、オナがサラの椀を持って待っていた。
「二杯」
「先に見張り表を」
「飲んだら」
サラが二杯目を空にするまで、オナは次の者を呼ばなかった。




