第7話 残された印
翌日の昼過ぎ、リオンとブラッドは再び王都市街の外れにある安宿を訪れていた。
前日に来た時と変わらず、建物の中には安酒と汗、それに乾ききらない洗濯物の臭いが籠もっている。
昼間だというのに一階の酒場ではすでに何人かの男が机に突っ伏しており、店主はカウンターの向こうで気怠そうにグラスを磨いていた。
リオンはそんな光景を横目に狭い階段を上りながら、懐に入れた一枚の紙を指先で確かめる。
紙に描いてあるのは、昨夜死んだ男の上腕にあった刺青。
リオンにもブラッドにも見覚えはなく、昨夜は形だけを記憶して帰ったが、ダンなら何か知っているかもしれない。
二階の廊下を進み、一番奥の部屋の前で足を止める。
「ダン。俺だ、開けろ」
返事がないので、リオンが隣のブラッドへ視線を送る。巨体の男が無言で一歩前へ出たところで、ようやく室内から慌てた声と、何かに足をぶつけたらしい鈍い音が聞こえてきた。
「待て、壊すな! 今開ける!」
しばらくして鍵が外れ、扉の隙間からダンが顔を覗かせた。二人の姿を確認した途端、寝起きらしい顔が露骨に歪む。
「昨日あれだけ喋ったんだから、もう勘弁してくれ」
「今日は確認だけだ。すぐ終わる」
「昨日も似たようなこと言ってなかったか?」
「昨日のことなんかいちいち覚えてねえよ」
「俺は覚えてんだよ。嫌な思い出だからな」
文句を言いながらも、ダンは二人を追い返そうとはしなかった。
どうせ拒んだところで帰らないと分かっているのだろう、諦めたように扉を開け、身体を横にずらした。
「酒くせえな。ずっと飲んでんのか?」
「説教しにきたのか? だったら帰れ。お互いにとって時間の無駄だろ」
「そりゃそうだ」
言いながらリオンは部屋の中央まで進み、懐から紙を取り出して机に置いた。ダンは寝台に腰を下ろし、面倒そうに視線を向けたが、そこに描かれた印を認めた途端、眠たげだった目がわずかに見開かれる。
「これ、どこで見た?」
「知ってんのか?」
「先に教えろよ。どこで見たんだ」
先ほどまでとは明らかに声が違う。
この反応だけでも、来た意味はあったと確信できるほどだ。
「昨夜、俺の縄張りで男が一人死んだ。そいつの腕にこいつが彫ってあったんだよ」
ダンは何も言わず紙を手に取った。指先で図柄をなぞり、間違いがないか確かめるように何度か眺めてから、息を吐く。
「……俺たちの印だよ。でかい組織じゃなかったし、外じゃほとんど知られてねえけど、正式に入った奴には大体これを彫らせてた」
組織の一員である証。リオンの組織には決まった印はないが、スラムの組織であれば、無い方が珍しい。仲間かどうかを見極める印のようなものだ。
「死んだのはどんな奴だった?」
「年齢は三十前後。短い黒髪に、右の眉の上に古い傷があった。身体つきは普通だったな。そこまで鍛えた感じじゃなかった」
「……そいつ、左耳の上が少し欠けていなかったか?」
血と泥で顔まで酷い有様だったが、言われてみればその特徴にも覚えがあった。
「たぶん欠けてたな」
答えを聞いた瞬間、ダンの肩から力が抜けた。
「……ロイだ。ロイ・セイガー。俺の組織の一員だよ」
名前を口にしてから、ダンは力なく紙を机に戻す。
「お前との関係は?」
「別に仲が良かったわけじゃねえ。酒飲むと馬鹿みてえに声がでかくなるし、金貸しても返すの遅えし、女に振られるたびに周り巻き込んで朝まで飲みたがる面倒な奴だった」
そこまで一息に言ってから、ダンは少しだけ口を閉ざした。
「まあ、だけど、嫌な奴じゃなかった。笑うと建物の外まで聞こえるような声出すから、酒場にあいつがいると盛り上がるんだ」
大切な親友というわけではない。それでも同じ組織で何年か過ごした人間の記憶としては、十分だった。
ダンはしばらく紙を眺め、それから恐る恐る確認するように聞いた。
「死んだって、どんな状況だったんだ?」
「腹から血を流してた。最初は斬られたのかと思ったが、よく見たら違ったみたいだな」
「違ったって。腹から血を流してたんだろ? だったら」
「一度、意図的に腹を開かれて、そのあと傷を縫われてた。少なくとも、その場で殺されたわけじゃねえ。どこかから逃げてきて、傷が塞がりきる前に相当動いたせいで、縫ったところが開いた」
ダンは声も出さずにリオンを見ていた。
人が刺された、斬られた、あるいは抗争で殺されたという話なら、スラムで生きてきた男にとって珍しくはない。
一度、腹を開き、また縫い合わせて生かしていたという事実は、単なる暴力とは違う。
どこか気味の悪さがある。
「なんでそんなことになってんだよ。ロイはレックスにやられたはずだぞ?」
「分かるわけねえだろ。それを知ってんならこっちが聞きてえ」
「臓器でも取られたんじゃないか?」
「可能性はあるが、そうだとしても変だろ。取って殺すだけなら、わざわざ傷を縫って生かしておく理由がねえ」
「それはまあ、そうだな」
「死体を調べりゃ分かることもあったかもしれねえが、調べる前に騎士団に持っていかれた。原因は不明だ」
「じゃあなにも分からねえじゃねえかよ」
ダンは納得いかないように首を振る。
「まず確認なんだが、お前が最後にロイを見たのはレックスに潰された日だな?」
「ああ」
「その時、生きてたか?」
問いに、ダンの表情が曇った。
「……生きてたよ、確実に。あいつは捕まってたんだ」
ダンは膝の上で両手を組み、しばらく記憶を探るように黙り込んだ。
「地面に座らされて腕を縛られてた。ロイだけじゃない。何人も」
拘束されたのはロイだけではない。降参した者、怪我をして動けなくなった者、その場では殺されなかった構成員が他にもいた。
「正確な人数は?」
「そこまではわからねえ。ただ、武器も荷物も取り上げられて、まとめて縛られてた奴は何人かいた」
ブラッドが腕を組んだまま低く尋ねる。
「その場で殺さなかったことを、不自然だとは思わなかったのか?」
「思う余裕があると思うか?」
ダンは苦い顔をした。
「俺も半殺しにされた後だ。ボスも仲間もそこらで死んでる。縛られた奴らがこの後どうなるかなんて考える余裕があるわけねえだろ?」
寂しげな瞳が、ブラッドに向けられる。
「俺はただ、生きてそこから出ることしか考えてなかったんだよ……」
言葉の最後にはほとんど力がなく、その目はブラッドから逃げるように伏せられた。
ダンは仲間を残して逃げた。
ただ、昨日までは、置いてきた者たちは抗争のあとすぐに殺されたのだと思っていた。それが今になって、少なくともロイはその場で殺されず、昨夜まで生き延びていたことが分かった。
「あいつら全員死んだと思ってたんだ」
机の上の印を見つめながら、ダンがぽつりと呟く。
「どうせレックスの連中に始末されたって。だから、今さら何したってどうにもならねえって思ってた。でもロイは生きてたんだろ? じゃあ俺が逃げたあと、何かしてればあいつらは……」
そこで言葉が止まる。
「自惚れんな。お前が残ってたところで、助けられたかなんて分からねえだろ」
リオンが言うと、ダンは顔を上げた。
「……慰めてんのか?」
「んなわけねえだろ。考えるだけ無駄だから、今は止めろって話だ」
「けっ、そうかよ。ほんっと嫌な奴だな、お前」
「いい奴だったらスラムで組織なんて作ってねえ」
「そりゃそうだ」
ダンは諦めたように溜息を吐く。
「ロイに家族は?」
「独り身さ。親族はみんな死んでる。だから俺達のところに来たんだ」
その答えを聞き、リオンは小さく頷く。
シビルが調べた失踪者たちにも似たところがあった。家族がいない。強い繋がりもない。突然消えても、必死になって探す人間が少ない。
ロイの場合はさらに都合がいい。所属していた組織そのものが壊滅している以上、抗争を境に姿を消したところで、周囲は殺されたのだと思うだけ。実際、元幹部だったダンですら昨日までそう思っていた。
「もしかしたら、他にも生きてる奴がいるのかもな、ダン」
「吹っ掛けても、本当に俺はなにも知らねえよ。仲間を見捨てて逃げた俺でも、一応は知り合いに聞いてはみたんだぜ? ……何の情報も出てこなかったがな」
自分に都合の悪いことまで隠さず話している。格好をつけて嘘を重ねるよりは、少なくとも今の証言を疑う理由は少ない。
リオンは机の上の紙を見ながら考える。
分かったのは、昨夜の男がロイ・セイガーであり、レックスに潰された組織の構成員だったこと。そして抗争の日には、生きたまま捕らえられていたということだけだ。
その後どこに連れていかれ、誰に腹を開かれ、なぜ一度傷を閉じられたのか。レックス自身がどこまで関わっているのかも含め、分からないことの方が圧倒的に多い。
「用は済んだ。帰るぞブラッド」
「……なあ」
背を向けたリオンへ、ダンが小さく声を掛ける。
「ロイ、何か言ってたか? 俺らのこととか……。何でもいい」
「喋れる状態じゃなかった」
「そうか」
目に見えて肩を落とす姿に、リオンは溜息を吐く。
「ただ、最後まで逃げて、生きようとはしてた」
その言葉に、ダンが顔を上げる。
「片方の靴なくして、腹から血流しながら、それでも俺んとこまで来た。途中で諦めてその辺に転がったわけじゃねえ。何から逃げてたのかは知らねえが、最後まで生きようとはしてたよ」
しばらくダンから返事はなかった。やがて、小さく「そっか」とだけ答える。鼻を啜るような音が聞こえたが、リオンもブラッドもそこには触れなかった。
「もういいか? 今日は。横になりてえ」
「呼び止めたのはお前だろ? 俺は帰るつもりだったよ」
「ああそうかよ。だったらもういい。さっさと帰ってくれ」
扉に向かう途中で、リオンは懐から一本の酒瓶を取り出した。ダンの部屋に転がっている安酒よりは少しまともな銘柄で、琥珀色の液体が瓶の中で揺れている。
「情報料だ」
放り投げると、ダンが慌ててそれを受け取る。
「べ、別に金取るために喋ったわけじゃねえぞ」
「知ってるよ。ただ聞くだけじゃ、借りを作ったみたいで気持ち悪いだけだ。俺からもらうのが嫌なら捨てろ」
「……捨てられるわけねえだろ。酒に罪はねえ」
そう言いながら瓶を手に取り、銘柄を確かめたダンの表情が変わる。
「それに、金がねえ俺にはありがてえ酒だ」
「けっ。どこまでも情けねえやつだな」
「なんとでも言え。これが俺の生き方なんだよ」
ダンは蓋を開けるなり、瓶を傾けて一気に酒を煽った。何度も喉が鳴り、やがて死にかけていた人間が息を吹き返したような大きなげっぷを漏らす。
リオンが呆れた表情を浮かべ、扉を開ける。
「リオン」
呼ばれ、振り返ると、ダンは酒瓶を片手に持ったまま、なにか言いづらそうな表情を浮かべていた。
「昨日、もう関わるなって言っただろ。……あれは、忘れてくれ」
「何が言いたい」
「勘違いすんなよ。俺はレックスの縄張りには絶対行かねえ。あいつらに顔見られたら今度こそ殺されるし、俺は死にたくねえ。それにお前らみてえに喧嘩が強いわけでもない」
そこまで念を押してから、ダンは少し視線を落とした。
「でも、ロイが何されてたのか分かったら、教えてくれ。他の奴らも、もしまだ生きてるなら、その時は……。まあ、教えてくれると、嬉しい」
その言葉に、リオンとブラッドは目を合わせる。
「なんだこいつ」
「どうしたんですかね? 急に」
「気色悪い奴だな」
「ごもっともです」
「う、うるせえ! 怖えもんは怖え! レックスには近付かねえ! だが、その、なんだ……」
ダンはもう一度、酒を大きく煽った後。
「借りは返す。俺はそういう男だ」
「いらねえよ。酔っ払いの貸しなんて」
リオンは興味なさげにそう呟いて、ブラッドと共に部屋を出た。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
安宿の外に出ると、昼の光が眩しかった。
大通りでは荷車が行き交い、露店の商人たちが声を張り上げている。王都の日常は今日も何一つ変わっておらず、昨夜一人の男が腹から血を流して死んだことなど、この街のほとんどは知らない。
「これでレックスが無関係ってことは考えにくくなりましたね」
「ああ。ただ、レックスがどこまでやったのか、どこかに引き渡したのか。それすら分からねえ状態だ。あんまり進展はねえな」
「ならどうします? ギルに知らせますか?」
リオンはすぐには答えなかった。
ギルが持ち込んできたのは、レックスの縄張りを中心に人が消えているという話だ。今回のロイがそれと関係している可能性は昨日より高くなったが、まだ同じ事件だと言い切れるほどのものではない。
それ以上に、リオンが気にしているのは別のことだった。
「必要ねえな」
「なんでです?」
「いま知らせたら、俺が失踪事件を調べ始めたと思って勝手に喜ぶだろ。俺がいま知りてえのは失踪事件の犯人じゃねえからな」
「と言いますと?」
「俺が知りてえのは、縄張りのすぐ南で何が起きてるのかだ」
他所の縄張りの住人を救うために動くつもりはない。
ダンの仲間がどうなったのか気にはなる。昨夜、自分の目の前で死んだロイのことも気分がいい話ではない。
それでも、それだけを理由にレックスへ喧嘩を売るほど、リオンは自分の力を過信していない。
ただ、得体の知れない何かが南側で起きており、その結果の一つが自分の縄張りまで逃げ込んできた。
ならば、何も知らないままでいるわけにもいかない。
「アジトに戻ったらシビルを呼べ。調べさせる」
「大丈夫ですか?」
「ただし、外から拾える話だけでいい。潰された組織の奴らをその後見た奴がいないか、人をまとめて運んだって噂がないか。それと、臓器売買や闇医者の話が急に増えてないか。その辺を薄く洗わせろ」
「前みたいに縄張りの中へ入るのは禁止ですか?」
「当然だ。今はまだ、そこまでやる理由がねえ」
「聞きますかね、あいつが」
「聞かせるんだよ、お前が」
ブラッドが困ったように頬を掻く。
「本格的に調べるわけじゃないんですね?」
「まだ早い」
その言葉に迷いはなかった。
自分が守ると決めた範囲には限りがある。その外まで何でも抱え込んだ結果、結局何も守れなくなることだけは繰り返したくなかった。
ただし、境界の向こうで何かが起きているのなら、それがこちらに入ってこないかくらいは見ておく必要がある。
「何が起きてんのかは知っときてえ。それだけだ」
ブラッドはそれ以上何も言わず、隣を歩いた。
まだリオンにとって、これは調査ではなかった。
自分の縄張りを守るための、ただの警戒だった。




